ブルームーンブルー

 月光というのは冷たい光だと思う。青く、薄ら寒く。
 窓から見る半欠けの月が落とし込むこの透明な光に、それでも妙な親しみを感じてしまうのは何故だろう。
 家にまで持ち込んだ仕事をしながら、目の端に忍び込む月光に思いをはせた。
 


「コーヒーをお持ちしました」
 慇懃で冷徹な口調と共に、コーヒーが置かれた。
「ああ」
 生返事だけして私の視線はコンピューター画面から動かない。
「……まだ仕事ですか?」
「ああ……」
 仕方ないだろう?
 自分の会社の業績が、2%ダウン。痛いじゃないか。
 私はスティーブ・ヒクソン。ちょっとばかし大きなソフト会社を持つ。
 政府のセキュリティシステムの母胎も、私の会社で作り上げたのだ。
 そんな私の会社のソフトは、一般向けのOS市場でも大きなシェアを持つ。
 抱き合わせで相性のよいソフトなども開発してきたが……。
 いかんせん急ぎすぎてバグだらけのを市場に載せてしまったがために現在窮地に追いやられつつあるのだ。
「体を壊しますよ。少しはお休みにならないと」
「……わかってる」
 すっと空気が動いて、ジバンシーのウルトラマリンがほのかに香った。
「王河、香水つけすぎ」
 つい言ってみる。実際にはつけすぎでもなく、私はその香りが好きだったが。
 うすら黄色みを帯びた白い手が、すっと私の視界を遮った。
「あなたは仕事のしすぎです」
 私の目を覆い、指が唇を掠め、同時に耳元に熱い息がかかった。
「帰っていらっしゃい、仕事から」
「私に命令する気か?」
 絡みつく腕を払いのけ、私は振り返った。
 いつもは無表情で蝋面のような面差しが、フワリと歪められて笑みを作った。
 王河……自称四〇歳だが、どう見ても二〇代後半に見えるのだ。東洋人というのは、ほんとうに年齢不詳である。
 仕事も出来るが武道も出来る。私が知っている中で王河を下したのはただ一人……。
 今の私たちを作り上げるきっかけとなったドラゴンである。
 王河のほっそりとした体躯は、信じられないほどの敏捷さで柔らかく動く。
 中国の竹を思わせる男だ。いつもすました顔をして、崩れた所など、ほとんど見たことがない。ちょっと余計な力を加えれば、ピシリとはたいてくる相手だ。
 私のサポートを、全能の神にでも仕えてるつもりでいるかのように必死にこなす。勿論必死というのは私が想像するだけで、彼はそんな素振りは見せようともしないが。
 しかし、今では私も知っている。プライベートの彼を。
「命令なんてしていませんよ。お願いしているんです」
 息を吹き込むようにゆっくりと囁くその声は、やや高めのテノール。
 その響きは得も言われぬ柔らかさと、ざらつきを併せ持つ。
 そうだなぁ。柔らかいネコの舌でそっと舐められた気分に似てる。
 ネコってのは、舌にざらっとした感触を持たせる突起があるんだ。
「コンピューターというのは、電磁波のせいもありますが、とにかくストレスを発生させます。どうか、ご自身を大切に考えてください」
 ねっとり言われて私はゾクゾクと背筋を走る戦慄を意識した。直後に直接アナルに律動が走って慌てた。身体が、王河の感触で条件反射を起こすのだ。
 何時からこんな風になったのか……私もよく覚えてはいない。
 当初彼は、私の性欲処理にも協力していてくれただけだったのだ。
 ある事件を通して、私のバカな我が儘に付き合い通した彼は、最終的にぶち切れた。
 私を叱りとばし、初めて……感情のある表情を見せたのだ。
 セックスの時ですら、ほんの少し眉をひそめるだけだった彼が……。
 そのとき私は、王河という人間を、全く理解していなかったのを知った。
 冷たく見せる内側が、熱く燃え上がっていたのを……私は思い知らされたのだ。
「スタッフを信じて」
「……そのスタッフがあの問題ソフトを出しちまったんだぞ?」
「決定はあなたでしたよ?」
「データを改竄した奴がいただろうが」
「見抜けなくてすみませんでした」
「いや……」
 王河はノータッチだったのだから、関係ない。
「私はお前を信じてる」
(お前だけはな)
 呟きだったのだが、聞き取られたらしい。
 すっと近くにあった体温が遠ざかった。
 それだけで肌寒く感じてしまう。
「?」
 思わず振り返ったあぎとを捉えられ、強引に舌を絡め取られた。
「んっんっ」
 王河の舌はネコとは違う。滑らかで強靱で、官能的。
 私の口腔内の性感帯全てを知り尽くした彼の舌に、有無を言わさず仕事を放棄させられる羽目になった。
「スティーブ……また一人になろうとしているのですか? 仕事はワンマンではいけません」
 口づけをしながらの説教に、笑ってしまう。
 色気とはほど遠いその台詞に、何故か熱くなってしまう私がいる。
「わかってるさ……」
 ワンマンだった……。たしかに、ずっと。
 学生時代に興した会社が元である。
 あまりにトントン拍子に何もかもが進み、私は大切なものを見失っていたのだ。
 私は神に特別な地位を与えられた人間だと……思うようになってしまったから。
 誰もが私の前にひれ伏すのだと。ゆえに、神のような気ままさを、私も実践してきた。
 気づけば、周りにはプライベートで私を思いやってくれる人間は皆無になっていた。
 近づく女性は私という金持ちの妻の座目当て。男達は地位と金。
 イエスマンを周りに置きすぎて、ノーが言える人間は去っていった。
 王河を除いて。王河は、真っ向からの対立は避けながら、私の軌道を修正する。
「王河……、聞いてもいいか?」
 身体をまさぐるのを許しつつ、私は以前から考えていた疑問を口にした。
「……なんです?」
 ポロシャツをたくし上げ、私の素肌を撫で回しながら、気もそぞろに言う。
「……あの時は、何故止めなかった?」
「あの時?」
 小首を傾げて、動きを止める。
 書斎の椅子に座ったままの私をついと引っ張り、立ち上がった私を抱きしめた。
「よそ見をしていたあなたに、思い知って欲しかったからですよ」
「……なにを?」
「あなたを抱きしめてもいいのは私だけだと言うことを」
 王河の方が、少しだけ背が低い。
 王河の方が、華奢だ。多分、筋力的には私の方が強いはず。
 けれど、私はこの男には勝てない。この男にだけは。
「独占欲か?」
「それもあります。珍しく一人の男に執着など示すから……私も狂ったのでしょう」
「あれは……色んな意味で特別だったからな」
 私も彼も、あのドラゴンに勝てなかったから。それもこだわりの一つなのではないかと私は疑っている。嫉妬などは王河には無縁だと思っていたのだが。
 意外に彼は嫉妬深い。
「今では別のひ弱なドラゴンの犬ですよ?」
「……同じ場所に同じ力はいらないのさ。だから……」
「……そうですね。彼らの国の言葉で、「割れ鍋に綴じ蓋」というのがありますが、まさに彼らのことでしょう」
「何だ? それ。割れた鍋じゃつかえんじゃないか」
「だから綴じ蓋がいるんですよ。互いの半身をね。あまり良い意味では使われませんが、的を射た言葉だと私は思っていますよ。どんな人間にも、必ず補い合える相手がいるんです。だから、あなたには最初からかけらも勝ち目がなかった……」
「……知っていて付き合ったのか?」
「あなた自身が納得しなければ、終われませんから……」
 目を伏せて小さく溜息を吐いた。
 王河の顔の目立たないところにはまだ火傷の痕がある。
 かのドラゴンが、王河を巻き込んで電磁波の壁を突っ切ろうとしたときのものだ。
 電子レンジに自ら飛び込んだ馬鹿者と同じ。
「……すまなかった……」
 私は何度も口にした言葉をまた吐き出しながら、王河の傷跡を撫でた。
「いえ……分かってくださればいいのです」
 王河はフワリと笑う。
 私を安心させるように。本当に、二人だけになったときしか見せない笑顔で。
 だからこそ、私はこの笑顔を見たいがために毎日を過ごす。
「スティーブ、あなたは本来優しい人だ。それに、納得がいけば潔いことも知っています。だから……」
 王河の指先は私を誘うように唇を撫でた。
「いい加減、理屈っぽい話はやめにして。プライベートな時間を私に下さい」
「どんな時間にしたい?」
「……そうですね。今日は……とびきり淫らに……」
「いいだろう」
 クスクス笑いをする王河……初めて見たときには驚き、新鮮さに嬉しくなった。
 王河のタイをはずしてやる。
 きっちり着込んだ三つ揃いのスーツを、一枚一枚引き剥がし、滑らかな生乳百パーセントの生クリームで出来た肌を舐め回す。
 少しずつ、少しずつ朱に染まっていく王河の肌は、ムーンストーンの輝きを汗に持たせて淫らにこぼれていく。
 漆黒の長い髪は私を包み、からみつき、サルガッソーの海よろしく私を絡め取っていく。 王河のそこは、堅く雄々しくそそり立ち、まさしく刀剣となって私を切り開くのだ。
 初めて王河を受け入れたのは、事件の夜だった。
 包帯だらけの彼と、どうしても一つになりたくて。私が彼に跨った。
 だからその日も、当然のように私は彼を迎え入れようとしたのだが。
 腰を引いて、彼は私のペニスに食らいついてきた。
「ダメですよ。今日は。簡単に終わらせたくありません」
 床の絨毯に倒れ込み、身をよじり、互いに互いのをくわえ合った。
 王河の指先は、器用に後ろからも私のそこを刺激し……勃起を誘おうとする。
「ああっだめだ。そんなにしたらっああっ」
 私の声はバリトンである。それがこんな風に叫ばされると、何だか……気恥ずかしさもひとしおで。
 余計に燃えてしまうのだ。
「スティーブ……どうです? ここは……いかが?」
「い、いかがなんてきくなっ」
 裏返って甲高く響いてしまった声に、私はびくびくと身震いした。
 恥ずかしい……大の大人が、こんな声……。
「ふふ……可愛い……ですよ」
 赤黒い王河のペニスは、滑らかで、熱くて、血管の浮き出方も豪快。
「お前って、ここだけはすごく熱い……いつもいつも隠し持っているお前の本来の熱さを、ここだけが露わにしてるんだなぁ」
「そうですね……あなただけに見せる熱さです。ねえ? スティーブ……イイですか?」
 イきそうになった私を手放すと、いきなり身体を合わせてきた。
 王河の刀剣を私のものにこすりつけ、二本一緒に握り合う。
 両手で、二人で擦り上げて。腰を揺らし、互いを突き上げるように。
「ああ……スティーブ……イイッ」
 呟きながら私の乳首を咬んだ。ちゅっちゅっと首筋や胸にキスをしながら、鎖骨をかじった。
「うっ」
「あなたは……今だけは私のものだ。誰がなんと言おうと……私だけの……」
 王河の尻肉に手を回した。そこに隠れるつぼみの味を、私は知っている。
 しかし……私は今、もっと欲しいものがあった。
「王河……もういいだろう? お前をくれ」
 王河の刀剣を味わいたかった。
 硬く、熱く動悸する王河は、私の中に潜り込めば恐ろしい快楽を与えてくれる。
 既に私はそれへの期待でアナルの収縮を押さえられないでいる。欲しくて欲しくてヒクつき続けているのだ。
「ダメですよ。二人一緒にいきましょう。このまま……」
 切っ先を絡め合いながら、王河が甘く囁く。ぬるっと先走りが絡み合う様子は、ものすごくいやらしくて……気持ちいい……。
「あっだ、だって……」
 この硬いのには私の中ではじけて欲しいのだ。
「一度出したら……、あなたの中で暴れてあげます」
「ほ、本当に?」
「ええ、命令とあらば……朝までね」
 朝まで……。
 耳たぶを咬まれて、そんな宣言をされた途端、私ははじけそうになった。
 王河がぎゅっとせき止めるように私のを掴んだ。
「あうぅっ」
 吐き出したい熱を抑えられ、私はあえいだ。
「一緒にといったでしょう?」
「あ……ああっ……」
「堪え性のない人ですね……だから……可愛いんだが……」
 大きな喘ぎ混じりでそんなことを言う王河だって、多分限界なのだ。
「い、いこ? 一緒に……」
 王河が優しく笑った。揺れる腰のテンポは最速に。擦り合う手もスピードアップ。
 摩擦の熱が体中の熱を増長し、私たちは互いのもので手を汚した。
 ハアハアと、荒い息だけで部屋が埋まる。
 王河が先に身を起こし、大の字になっていた私に黒髪が垂れ落ちた。ちゅっと赤い唇に吸われ、私の身体も蘇る。
「ベッド……いきましょう。一晩中かわいがってあげますよ」
「……ばかやろ」
 私達は連れだって寝室に向かった。
 甘くて苦しい期待を胸に。
 背を滑るこの手は全てをフォローしてくれる神の手。
 私の腕にあるこの身体は……全てを受け止めてくれる心の海。
 いい年をしてと笑う輩もいるだろうか?
 心が私たちに若さを与える。
 この思いは、なんだろう?
 愛とたとえるのは簡単で、しかし全部を意味するには単純すぎる。
「明日は休暇に。あなたは休息が必要で……」
「お前も必要だ」
 気遣いが心に温かさを満たしてくれる。
 だから。
 言った。真剣に、てらいもなく。
「一生かわいがってくれよ」
 王河は黙って私を抱き寄せた。



 朝方、やっと眠りを手にした王河を覗き込み、私は腑に落ちた。
 あの月の光。
 この、部下にして最愛の人の肌合いだ。冷たく、熱い、この、クリームイエロー。
 滑らかで、甘い、王河の肌……
「どうりでね」
 月夜は私をかえる。王河を求めるただの男に。
 それはかなり気恥ずかしく、天にも昇る心地。
 全ての成功よりも価値があるのは、金で買えない幸せなんだ。
 気づくのにかなりの時間はかかったが、それを得ることが出来た今、私はもう以前の私ではない。