スペシャルな憂鬱・第一回

 轟音が響いた。音はきーんと高まり、トーンを落として去っていく。音のした方を見上げると、青い空に一筋の白い線条が描かれていた。
 首を巡らした途端、こめかみをツウッと流れる汗の感触。
 空の青と飛行機雲に添えられたぎらぎらの太陽光。
 残暑というには暑すぎる。そんな夏日。
 約束に十分遅れて現れた姉を、俺は睨み付けていた。
「ごめぇん、バスがこなくって、歩いちゃった」
「不確定要素のあるスケジュールなら、もっと涼しい所で待ち合わせにしてよ」
 背中に張り付いたワイシャツが不快で、俺のいらだちは倍加していたんだ。
 目的地までの道が複雑だからと言う理由で駅前広場での待ち合わせにしたのは失敗だったと思う。
「茶店とかにしておいてくれたら、多少待たされたって、平気なんだけどね」
「各駅しか停まらないような駅だもん、ここの、どこにそんなものある?」
 たしかに。
 ぐるっと見回してみれば、小さなスーパー、立ち食いソバ屋、一杯飲み屋に駅の売店くらいしか目に付かない。ロータリーも閑散としている。
「だからこそ、値段が安いって事か。で? 例の人は?」
「向こうで待ってる。ちょっと歩くから」
「バス乗らないの?」
「この時間は本数少ないの。待ってる間に歩けば着くわよ」
 すたすたと歩き出した姉の背を、溜め息をついて見つめた。
 なんだかたくましい。結婚を間近に控えて巣作りに忙しいからだろうか。
 そこにいるのは働き蜂だった姉ではなく、主婦候補生の女だった。
「タクシー、使えばいいのに」
「ワンメーターって言う距離だもの。もったいないわ。若い癖に爺臭い事言わないの!」
「はいはい」
 のろのろと背広の上着を肩に掛けて歩き出した俺は、高津陽介。二三歳独身。仕事は営業。歯科材料を売っている。
 営業ってのは人に頭を下げてなんぼの仕事だ。ストレスもたまるが、比較的時間が自由になる。
 本来なら今のこの時間は担当の歯医者にお伺いをたててなきゃいけないのだが。
 有休を取って姉の婚約者と新居になる予定のマンションでご対面。自分の車を持ってない俺は、久方ぶりに電車などに乗ってしまった。
 親父もお袋も亡くなったので、姉が見つけた伴侶の品定めって訳だが、ま、巣作りまで始めちまった今見たって、事後承諾と同じだ。
「悦ちゃんが結婚なんて信じらんないな」
「なんで?」
「だってなぁ……。悦ちゃん独身主義だって言ってたじゃん。お袋みたいな人生はいやだって」
「しょうがないよ。結婚したい人に出会っちゃったんだから」
 俺が5歳の時に、親父は出張先で知り合った女のとこの親父に変身した。その女はすでに6人の子持ち。親父はなさぬ仲の6人の父親になるために俺達を捨てた。
 以来俺んちは母子家庭で。お袋が働いて俺達を食わせてくれたんだ。五歳年上の悦子は中学を卒業した後看護学校に入った。そこなら学費が楽な上に働きながら看護婦の資格がもらえて、少ないながらも給料も出るから。
 弟の俺が言うのも何だが、美人でしっかり者の姉だ。泣き虫なわりに芯が強くて。
 ドクターに誘惑されることもあったらしいけど引っかかったことはない。
 基本的に男性不信だったんだな。だから、患者とかとの出会いもあったのに、二八まで独身貫いて。男なんか当てにならないってのが口癖で。
 頬を染めて呟く今の姉はまるで別人だ。
「悦ちゃんがそうまで言うなら、俺はなんにも言えないな」
 俺を大学にまで行かせてくれた姉が、こんなに幸せそうなら、俺はどんな奴だって賛成しただろう。
「別に、あんたに品定めして欲しかった訳じゃないもん。義理の兄さんになるんだから。ちゃんと挨拶してよね」
「うん……」
 そうか……兄貴が出来るんだ……。
 気の合う人だといいんだけど……。
「どういう人だっけ? 俺、名前しか聞いてない」
「あら。うんとね。仕事は作家。歳は二六」
 年下かぁ……。
「……何書いてんの?」
 作家とか言って、実際は姉貴のヒモ志願だったりして……。
「詳しくは教えてくれないけど、定期的に印税が振り込まれてくるし、出版社の人も来るから、嘘じゃないわよ」
 俺の懸念を先取りしてそんな答えを。
「ペンネーム使ってんの?」
 姉から聞いていた鶴母邦夫という名は、作家の名としては聞いたことがなかった。
「うん。えーと……『紅乃みつる』とか。知ってる?」
「〜〜〜〜〜」
 俺は知ってた。
 紅乃みつるってのは、官能小説家だったりする。ハードポルノで、オカズに出来るほど濃い奴。ノンケの寂しい男には、枕の友だろう。
「……本屋で見かけたことある。悦ちゃん、読んだことあるの?」
「ないよ。男性向け文学なんでしょ? 読む暇無いし」
 そういう表現もあるのか……。間違ってはいない。
「……何処で知り合ったのさ? 病院?」
「ううん。飲みに行った所で」
「なんか……」
「変?」
「悦ちゃんのイメージじゃないな」
「あんたのイメージって、そうなんだ……」
 姉は苦笑に笑み崩しながら歩を早めた。確かに、イメージを持つほど互いの生活に触れているわけではない。ただ、飲み屋でのナンパなんて、最も悦ちゃんの性分なら成り立たなそうな気がしただけ。
 紅乃みつる。
 俺の大好きな作家だ。実を言うと、デビューから全部読んでる追っかけ。ファンレターを出したこともある。
 初めて読んだのは、友達の部屋の枕元にあった雑誌に、載ってた奴だった。
 ゲイの自覚が既にあった俺にとっては、興味のない女の裸ばっかりが載ってる本だけど。
 こっそり思いを寄せていた友人の、枕の友だと思ったら、興味が湧いたんだった。
 パラパラとめくって目に付いたのは、何故だったんだろう。
 大型新人現る見たいなあおりのせいかな。
 いや。
 最初の一行を読んだせい。
 ポルノにありがちな、脈絡無くやりまくるものと違ってそうだ、と、思ったからだ。
 短編だったけど、ベッドまで行く会話が全部切ない前戯に思えた。読み進めて胸がキュンと痛むのを抑えられなかった。
 こんな男に口説かれたい。
 俺だったらすぐ身体を差し出しちまうだろう。なんて……。
 以来俺は彼の作品を買いあさった。数をこなすほどに、作者に憧れを持った。
 出てくるキャラクターが、作者の暖かさを受け継いでるような気がして、官能シーンよりも、自然な会話のシーンが好きなんだ。
 そうか。紅乃みつると会えるんだ。
 どうしよう。ファンだって言うべきか?
 でも……。
「……どっちから声掛けたの?」
「あっち。どっかで会ったこと無いかって。陳腐でしょ? 作家とは思えないわ」
 それで俺は決めた。黙ってようと。
 姉に声掛けたような台詞、作品には一度だって出てきたこと無い。
 何だか、本人に会うのも嫌になってきた。
 作品は作品。書き手にイメージを重ねて幻滅するのは俺の勝手だけど。
 俺の中の大切な部分がもみくちゃになっちまうのは辛い。
 これから会うのは兄になる人。ただ、それだけ。
 胸の内で言って聞かせて姉の後を追った。