綺麗なバラに恋しよう
第一回
のっけからボクはそれを夢だと思ってた。
ゴージャスな女の夢だったから。
ゆっくり近づいてくる肉感的な身体は、キュッとくびれたウエストを強調するように腰を揺らして歩を進める。
揺れる黒髪は綺麗に切りそろえられていて、優美な顔の輪郭に沿ってサラりと踊る。
切れ長で黒目がちの瞳。程良くふっくらした赤い唇。
唇と同じ色に染められた爪は煌びやかな光沢を持った、長いもの。
これは……魔女だって思った。
見た目はモデルのレイカそっくりだけど……。
事故にあって引退しちゃってからは消息不明。ボクの憧れの人だったから。
きっと、レイカに化けた魔女なんだ。
夢の中のボクは身構えることも忘れて近づいてきた女に抱きしめられた。
キュッと心臓に痛みが走る。
魔女は……ボクの心臓を喰うのかも知れない。
それでもイイじゃない? と、どこかで声がする。
ハスキーボイスの作った女声。
……香奈だ。……ボクの源氏名。今は営業時間じゃないのに。
って、なんでボクの横にいるわけ?
香奈はボクなのに……。
突然横に立ち現れた香奈は、すみれ色のコンタクトをはめ、昨日新調した金髪ロングのカツラをかぶってる。眉は髪用マスカラで色を整え、唇はオレンジ。
群青色のミニワンピの素材はエナメル皮に見える合成皮革。
ちょっと蒸れるけど、結構気に入ってる奴だ。
魔女は途端に興味の対象を香奈に変えた。
嬉しそうに香奈に駆け寄り、そっと唇を捕らえる。
……ボクは香奈にディープに口づける魔女を、惚けたように見つめるしかなかった。
その時の気分は、なんというか……損したって感じ。
香奈が出てこなければ、あの唇はボクのものだったんじゃないかって……
ボクは魔女から香奈を引っぺがした。
「今はボクの時間だ!」
怒鳴る声に飛び起きた。
……ボクの寝言。
自分の叫びで起きるって変な感じ。
「ほら、やっぱ夢じゃないか」
これも独り言。
そりゃそうだ。ここには、ボクしか居ない。
中野の安アパート。6畳と4畳半とキッチン、バストイレ。
これだけで十万。以前はもちっと安いところにいたんだが。ボクの仕事柄、風呂とトイレと玄関は共同じゃない方がいいって事で、今のところに引っ越した。
しきっぱなしの布団の周りにはメチャかけハンガーや服飾品の箱がずらりと置かれている。大きめのドレッサーは店の真由子ママのお下がり。
とても男一人の部屋とは思われないだろう。
ボクは板橋香一郎。バリバリノンケの22歳。でも、仕事はゲイバー「エリザベス」のホステスだ。源氏名は香奈。夢の中でも女の子ぶりっこできるくらい、香奈になりきることは簡単。
でも、ノンケなんだよ。女が好きなの。
真由子ママは、ボクが性同一障害で、レズビアンなんじゃないかっていう。
身体は男だけど、心は女。で、女が好きだからレズ。
うーん、ややこしい。
本当言うと、真由子ママの言い分はハズレ。
だって、ボク、男として女が好きなんだもん。
香奈でいるときは、自分だったらこうあって欲しいなって言う女を演出してるわけ。
時々素に戻って、ボクが出ちゃうときもあるけどね。
大抵は、ボクが男だって気づかないんだ。
まあ、女の格好するのも、結構年季入ってるからなぁ。
最初はねーちゃん達の悪戯が発端だった。
ボクには3人姉がいて、年子。ボクだけ年が離れてた。
中一の時、一番下の姉がメイクアップアーチストの学校に入って、実験台をやらされたのだ。
二番目の姉はその時某アパレルメーカーの営業で。一番上の姉は美容師。
姉たちは化粧されたボクを見てぷっと笑い、悪のりに悪のりを重ねて見事にボクを女に変身させた。
小学校4年の時から変わらない身長は、中一の時点では列の真ん中辺りで。
スリムな体型も、華奢な作りの女顔も、女装させるのにもってこいだとか言ってさ。
確かに、鏡の中にいた女はボクとは違ってた。
ボクがボクでいるときには考えられないような自分に自信のありそうな綺麗系の女だった。
実年齢より確実に五才は上に見られるだろう。
姉の用意してくれた服もアクセサリー類もボクにはぴったりで。
「クラブに連れてってみない?」
調子に乗った三女が言えば、真ん中は頷き、一番上は頭を振った。
「香一郎はまだ子供よ」
「ばれやしないわよ。これの、どこが子供?」
「うーん」
クラブとかって、どんなところなんだろう?
ボクも化粧のせいでどうかしてたんだろう。
「ね、ボク行ってみたい」
なんて、なんて……。
結果、ボクは自分の容姿が女装に向いてることを自覚したんだ。
男どもはボクを見ると、寄ってたかってちやほやしてくれた。
女達は敵愾心丸出しの目でボクを品定めしてくる。
その意地悪い視線すら快感だった。
ボクがボクでいるときなら、こいつら誰も鼻も引っかけないだろうなって思うとね。
以来ボクの女装歴は順調に更新中なわけ。
今となっては、姉たちはかなり後悔してるみたいだけどね。
なんと言っても、両親にはさんざん叱られ、恨まれてもいるようだし。
ボクは、ボクの意志でやってることだからって口添えもしてるつもりなんだけど、やっぱりガキのうちに刷り込まれちゃったんだからってことで姉たちが責任を追及されちゃったんだ。そういうこともあって、ボクは家をおん出ちゃったんだけどね。
順調にメイクアップアーチストとして名をあげてる三女とはよく連絡取り合ってる。
彼女だけは、今更のようにボクの女装をやめさせようなんてしなかったから。
その日は、例年にない繁盛日で。
かかってきた電話は、ボクにとって大転機となった。
「香奈ちゃーん、電話でてぇ」
真由子ママが焼きおにぎりを大量に作りながら叫んだ。
うちの店の超人気メニューだけに、重なった注文をこなすときはママもパニックだ。
小さい店に、7人で押しかけてきた女性客達はよく食った。酒はたいした量頼まず、店のあらゆる食事メニューを注文していた。バーテンダーの蜂谷真之介さんが食事作りの手伝いをしなければならないほど。バーなんだからさぁ。ゆっくりちびりちびり酒飲むって事、出来ないのかな?
その上……。超混み合ってる時間に電話なんて、タイミング悪いったら。
「はーい、エリザベスでぇす」
作った女声で出る。
大抵は席が空いてるかとかそう言う客からの電話。
でも、今回は違った。
「……香奈?」
低くマイルドな響きは、聞き覚えアリ。
「……マスター?」
そう、ボクが開店時お手伝いに行っていた喫茶店店主で。
ボクの敵愾心を偉く刺激するマッチョな美形だ。
黙ってても女達がふらふらついてっちゃうような、遺伝子に誘いをかけるタイプなくせに、本人は男にしか興味のない100パーセントのゲイで。今じゃ片思いの相手だった大学生とラブラブらしい。ほーんと、あの男まで騙されるなんてなぁ。ノンケだったはずなのにさ。
邪魔してやりたかった。あいつが幸せになるなんて、なんか許せないって言うか。
「……拓斗君、元気?」
色っぽく囁いてみれば、それだけで彼がぴりりと凍るのがわかる。
「……元気だよ。君が元気かどうか心配していた……」
「彼、優しいものね。マスターってば、超幸せ者だわ」
クスリと笑い声が聞こえた。
「本当に。幸せ者だよ」
あーあ。全くこの男ってさー。所かまわず惚気てやんの。
前に恋人が拉致されたときも狂ったようになっていたしね。べた惚れもあんまり激しいと怖いなぁ。
「で、何の用ですか?」
ふてくされた声になってしまった。
だって。ボクの好みのゴージャス系の女は大抵マスターがお好みなんだもんな。
悔しいよ。ホント。
なのに、片思い中だったマスターってまるで女学生だったし。それも全然もてない、自分に自信のかけらもないタイプ。なんだかな〜。確か、一年近く拓斗君をオカズにマス掻いて過ごしてたんじゃない?
ま、ノンケに惚れたゲイほど切なく苦しく、報われないものはないってのが定説だもんな。あたりまえか。
「……急なんだけど、仕事、頼めないだろうか?」
「……落ち着いたら電話するわ。今、ママも蜂谷さんもパニックだもの」
言うまでもなくボクの背後のけたたましい声や音で、マスターは察したようだった。
マスターは、うちの店の常連だったしね。常にない音の嵐は十分状況を伝えていたから。
「何時でもいいから、今夜中に頼む」
「了解」
ボクの返事に、彼は笑み混じりに小さくため息をついて、電話を切った。
「なあに? だあれ?」
怪訝な低い声は、素に戻ったママの声だった。
「桂川さんですよ。エルロコの」
「えっ? 龍樹ちゃん? やだ、何でかわってくれないのぉ?」
「だって、あたしに電話ですもん。またバイト頼まれちゃいそう」
「えーっ? うちはどうするのよう?」
「まだ返事してませんよ。内容聞いてないし。でも、すごく焦ってるみたいだったから……」
「あらあら……。どうしたのかしらね。気になっちゃう」
小首を傾げてつぶやく様子は、ママには似合わない。
「ぶりっこしても似合いませんよ、ママ」
蜂谷さんがクスクス笑いながら言った。
「しんちゃんたら、意地悪ね」
流し目で睨み付け、ママは料理のオーダーをストップさせると奥の部屋に入って電話を取ったようだった。
エルロコに掛けるつもりだろう。
用件はボク宛だってのに……。
やがてひとしきり話し込んだ後、部屋からボクを呼ぶ。
「香奈ちゃぁん、ちょっと」
蜂谷さんが肩をすくめてボクに行けと促した。
本当に、店は大変な状態なのに……ママったら、マスターのことになるとおかしくなる。
そのくせ、マスターがクルージングしてたときには一度も誘ったこと無かったんじゃないかな。それとも振られたんだっけ?
まあ、マスターの好みが拓斗君だとすると、確かにママじゃ首尾範囲外だろうけど。
いい男なのになぁ……って、店でだけ会ったんじゃわからないか。
部屋にはいると、ママはデスクに腰掛けて足を組んでいた。
「香奈が来たわ。細かいことは直にね」
受話器を渡される。
「香奈ちゃん、休暇、二週間あげるわ」
悪い話じゃないと、ママの目がいっている。
今度は何がエサなんだろう?
前回は女子大生がいっぱい来るからって釣られたんだけど。
結局マスターが冷たくあしらうから、ボク好みの自分に自信があるタイプのイケイケで定着する子は少なかったっけ。
「やあ、香奈。ママのお許しが出たけど、君は了解?」
マスターは、ママの性分を知ってるから、苦笑混じりに尋ねてきた。
「うーん、中身聞かないでイエスは言えないけど、ママからは休暇もらえたわ」
「そう。あのね。僕と拓斗が旅行の間、店を守って欲しいんだ」
「……旅行? じゃあ、誰が調理するの? 自慢じゃないけどボク……」
素に返って焦って聞いた。
マスターの料理は滅茶苦茶旨い。あの拓斗君だって、結局餌付けされた口だろう。
「だいじょうぶ。調理も接客も超のつく凄腕助っ人いるから。ただ、店のシステムというか、流れを教える暇がないんだ。君なら、わかってるだろう?」
あー。かいかぶり。ボクは普通にウェイトレスしてただけだもん。
「えー? 自信ないけど」
「というか。彼女を一人にしておきたくないんだよね。店のことだけなら君に助っ人を頼んだりしない。要は、お目付役。……できるかな?」
「見張りって事?」
「うん。……レイカって知ってる? 以前スーパーモデルとして有名だった……」
ぴきんとボクの背筋がしなった気がした。
レイカだって? あの、モデルのレイカ? 元スーパーモデルの?
「……事故にあって引退したって言う、あの、レイカ?」
「うん。よく知ってたね。そのレイカ。本名は、麗しい花って書くんだけど。助っ人って、彼女なんだ。詳しいことはわからないけど、ちょっと情緒不安定になってて。一人になりたいのか、店をぶんどって僕らには旅行に行けの一点張りでね。でも、一人にするの心配だから」
「マスターとどういう関係なの?」
ゲイなのに……なんであんな極上な女まで……
「ルームメイトだったんだよ。一時期」
マスターって、やっぱり……にくったらしい。あの、ボクの憧れが、親しい身内っぽいなんて。
「出会いは患者と医者。レイカの事故の時、僕が診たんだ」
ああ……。そうか。マスターって、医者だったんだっけ。
どこまでも変な奴だなー。
でも。これは美味しい。美味しすぎる。
「……一つ聞いても良い?」
「うん?」
「レイカって、今でも綺麗?」
マスターは瞬間絶句して、プッと笑った。表面的な事を問題にするなんてって思われるかもしれないけど。憧れの人が、凄く太ってたり、面やつれしてたりしたら、見たくないって気持ちあるじゃない?
ボクにとっては憧れがものすごく強かった分凄く大事な問題だったりする。
「綺麗だよ。年はとってるはずだけど、全然変わりなく見える。仕事、受けてくれる?」
「……はい。ギャラは能力給で良いよ。レイカさんと上手くやれるかどうかもわからないし」
「彼女を頼む。店よりも、そっちが心配なんだ」
真剣な声音に、ボクも背筋をただした。
「わかりました。なるべくフォローに努めます」
マスターにとって、彼女はとても大切なようだ。
でも、恋人は拓斗君だろ。親友……かな。
とりあえず、レイカにあえる。生のレイカに……。
「ひゃっっほう!」
奇声を発したとたん、部屋をのぞき込んできたママがメッとにらみ据えてきた。