Heavenly Blue
第十二回

 フィニッシュ後も僕は彼の中にいた。彼が許してくれているのをいいことに、抱きしめて、汗に冷えた肩をなでさすりながら、彼のうなじにキスをした。
 こうまで他人を好きになれると思っていなかった。
 片思いの時期も苦しいくらいの切なさに一人泣いたことがあったけれど。手に入れたものを失うかもしれない恐怖の方が、数倍苦しい。何度も心の闇にふたをして、今を大切にしようと自分に言い聞かせながらも、ふとした拍子に奈落を見つめてしまう。幸せは常に恐怖と背中合わせだ。
 だからこそ、確かめたくなってしまう。触れることを許された権利を。まだ僕のもので居てくれるかどうかを。
 この不安は、彼の裏切りを想定したものではない。ただの失う恐怖なのだ。だから、彼に見せてはいけない。ただ、欲しがる僕を示すだけ。
 そんな自分に苦笑してしまう。まさしく、この状態は恋狂いなのではと。
 拓斗に諭され、少しだけ冷静になってくれと言われたのに。ちっとも変わっていやしない。なるべく見せないようにしているだけなんだ。
 だから。
 本当を言うと、僕は清水真沙子の気持ちを全くの遊びだとも思っていない。
 遊びにそこまでのエネルギーを使うとは思えないからだ。
 結果的に辛くなって逃げ出したとしても、麗花への思いが、全くなかったとは、言いきれないのではと思う。
 どんな手を使っても手に入れたいという思いは、僕も持っていた。少なからず計算して行動した部分もある。ただ、彼女ほど器用じゃなかっただけで。
 僕は僕にしかなれなかっただけだ。
 拓斗の言うとおり、僕は器用な能力を持ち合わせなくて幸せだったのかもしれない。
 僕は僕らにした彼女の仕打ちは別として、彼女に少々同情を覚えたのだった。
 他人に合わせることができるのは、社会的な部分では必要かつ誉められるべきものだ。
 その能力が高いが故に自分を押し殺してしまうのは、辛い。
 使いようによっては二枚舌になってしまったり、かえって信用されなくなってしまう場合もある。
『調子のいい奴』……そんな、評価を得てしまうだろう。
 ふと考えた。
 麗花の涙には、どんな意味があったのだろう?
 探せば探すほど、そこには好きだった人が虚像であったという事実が積み重なっていく。
 自嘲と、ネガティブな気持ちと、あきらめと、……多分、好意の残滓。
 すべてが嘘だったのか、本当もあったのか……。
 交わした約束事に、真実の気持ちを見つけることができたのか……
「……悲しいね」
 呟きに拓斗の優しい手が、僕の髪をなでることで応えた。
「麗花さんのこと?」
「うん……。麗花の中で、まだことは全部終わった訳じゃないんだろうなぁと思うとね」
「あの人と、話してみたくない? どういうつもりだったのか……」
「話してもいいけど、多分真実を素直に教えてはくれないよ。彼女の中で、麗花への好意は在ったかもしれないけれど、ゲームだったのも事実だろうし。多分、想像力がないんじゃなくて、ある意味確信犯だと思うし……」
「確信犯?」
「君には信じられないことかもしれないけれど、先のことなんて考えずにその場限りの約束をする人は結構多いよ。ほら、ベッドの上での約束なんて当てにならないって、よくいうだろ? それと一緒の感覚。そのとき一瞬の気持ちには嘘偽りがなくても、後になれば嘘なり、裏切りになってしまう……。いい加減にみえるけど、それだけ自分に素直なんだ。いちいち言うこと真に受けてたら、振り回されちゃうって感じ。わかる?」
「……わかりにくい……けど、俺にはとうていつきあいきれないけど、そう言う人……いるかも。欲しいおもちゃを、苦労して手に入れた途端に飽きちゃうみたいな?」
「心は移ろいやすい……っていうしね。でも」
 黒目がちの瞳の奥を見つめながら、僕は訴える。
「君への気持ちを、簡単に移ろいやすいものにはしたくない。できれば、君も……そうであって欲しいと願う」
 恋人たちのほとんどが、そう願うはずだ。この、逃しがたい運命の相手と、一生思い合っていられたらと。
 たとえ、それが、どんなに不可能に近い奇跡だろうと。
 僕は一生をかけて、その奇跡を行いたいんだ。
「ああ……だからか」
「ん?」
「先の約束より、今を積み重ねたいっていったでしょ? 前に」
「うん」
「約束で縛るより、自然に寄り添っていたいってことだよね。俺も……そう願う。本当に」 ゆったりと抱きしめ、この恋人の聡い部分を嬉しく思った。
 多分、僕が一番惹かれ続けているのは、容姿でも何でもなく、彼のこういう部分だったのではないだろうか。
 言いたいことが伝わる感覚は、相手が同じ感性を持ち合わせていないと一生努力しても実感できない気がする。
「……そうか」
「え?」
「彼女。多分、本音で勝負が出来ないんだよ。意見のぶつかり合いとか、本音で戦って理解し合うって言うプロセスが苦手なのかもしれない。ある程度相手のことが読み取れて、合わせることが出来る分、相手に自分を解ってもらおうとは思ってないんだろう。解るわけがないと思ってるかもしれない」
「喧嘩するくらいなら黙って嵐が頭の上を行き過ぎるのをやり過ごそうってことか。それって、希薄なつきあいにしかならないんでないの?」
「本当に気が合うなら、喧嘩もないとでも思ってるかもよ?」
「喧嘩……すると解ることもあるのになぁ。俺たちだって、喧嘩してさらに仲良くなれたりしたじゃん」
 そのたびに、僕が泣かされたことは、おいといて。
「……まあ、しないですむならそれにこしたことないけどね」
「俺、龍樹さんの一番近くにいられるよね」
「もちろん。僕も……だよね?」
 クスクスと笑いあいないがら、僕らは腰を揺らした。
 明日は明日の風が吹く。彼女と朝食の席で遭遇できるといいけれど……。



 朝食は大抵のリゾートホテルがビュッフェ形式だ。僕らの滞在するホテルも同じ。一週間は滞在する人が多いから、メインの料理が日替わりで変化するだけ。
 その日の僕らは、まず、彼女の姿を探した。
「おはよう」
 壁際のテーブルでクロワッサンをちぎっている彼女に声をかける。
 ウェイターに同席を告げ、彼女がポカンと口を開けて見上げてる間に、僕らは彼女を挟むように両端に腰掛けた。
 コーヒーを注文し、ウェイターを去らせると、拓斗には料理を先に取りに行かせた。
「……どういう風の吹き回しかしら?」
 クロワッサンを皿に戻し、彼女はコーヒーを一口飲んでから僕をにらみつけた。
「少し調べさせて貰ったんだが、まだ納得がいかないのでね。僕の恋人は君に直接質問したいそうだ」
「あら、私に答えられる事かしらね」
「君にしか応えられないと思うけれど……。まず、君と清水亮さんは、どういう関係? 夫婦? 姉弟? それとも……」
「恋人が来ないうちに始めちゃっていいの?」
「かまわない。拓斗には拓斗の聞きたいことがあるだろうから。時間は惜しまないとね」
 僕はじっと彼女の瞳を見つめた。
 彼女が視線をそらすまで。まるで、猫の喧嘩のように。
 たいていの人は僕とのにらみ合いで負けてくれるが。
「……あなた達には関係ないでしょう?」
「大ありだと思うけれど。別に隠すことじゃないでしょう?簡単なことだ」
「……一応、夫婦。だからなによ」
「君がしたことは彼も承知のこと? ネットに僕らの写真を上げたってことだけど」
 彼女が以前漏らしたように、写真を撮ることは彼の意志だった。どんな写真を撮ろうとしていたかは分からないが。
「彼は……僕らをのぞきたかったのかな? そうだとしたら、なぜ? 君は彼の代わりにきたと言ったでしょ? 僕らの濡れ場は、君の趣味で撮ったとも思えないんだけど」
 清水真沙子の瞳がきらりと光った。
「どうしてそう思うの?」
「君……僕らのこと、嫌いでしょ? 男同士の濡れ場になんて、全然興味ないって顔してる」
 彼女はクッと口元を歪め苦い笑いを浮かべた。
「あなた方が嫌いなわけじゃないわ。ゲイの男は全部嫌い」
「言うね……。それは、君の夫がゲイだから?」
 僕の発言に、彼女の頬が紅潮した。
「彼はゲイじゃないわ!」
「じゃあ……バイ?」
「だからっ。違うのよ。彼はノーマル!」
「その言い方は嫌いだな。まるで僕らが異常のようだ」
「自然の摂理に反した関係だもの、十分に異常でしょう?」
「冗談でしょ。摂理に反してなんていないよ。種の保存には寄与しないけれど、種の滅びには寄与してる。だから、滅びかけた種にはゲイが増えるんだ。自然界の掟に、ゲイはきちんと存在してるのさ。特定の種が増え過ぎないように口減らしするためにね」
「全く……ああいえばこういう……。ゲイじゃなくても、貴男は嫌いだわ。やっぱり」
「ありがとう。そういってもらえて嬉しいよ。で、清水さん、旦那さんはヘテロなのに、何で僕らにそんなに興味を持ってるんだろう? 旅費を出して隠し撮りしたいほどなんて……それこそ異常だと思わない?」
 瞳が揺れた。困ったように自分の皿に目を落とす。
 彼女は、どこまで本音を語るだろうか……?
 揺らぎは、本音と嘘の天秤の動きにも見えた。
「旅費を出したのは本当にお詫びの為よ。あなた方に迷惑を掛けたと落ち込んでたのは本当だもの。彼が、どんな写真を撮りたかったのかは……ちょっと私にもわからない部分があるわ。ただ、私は彼に見せたかったのよ。あなた達の肉体関係の様子をね。ノーマルな彼が、違和感を感じてくれれば、それで良かったの」
「……自分勝手だなぁ。自分たちさえ良ければいいんだ? 僕らがあの写真の存在知ったの、日本からの電話だよ? 複数の知り合いに、あれを見られたんだ。僕らの社会的立場、考えて貰えなかったのは非常に残念だな」
「嫌いな人の立場を考慮すると思う?」
「人として、最低限の礼儀ってものがあるはずだけど?」
 僕らは真っ向からにらみ合った。
 やがて彼女が目を伏せ、ボソッと言った。
「あの人……あなた方にあこがれていたのよ」
「は?」
「すごく仲むつまじいカップルだって。ゲイなのに。そこら辺のヘテロのカップルよりも幸せそうで。見ているだけで幸せ気分になるって……」
 そこまで言って、真沙子はキッと僕を睨み付けた。
「彼はね、ゲイに誘われやすいの。誘ったら簡単に転がってくるとか、素質があるとか、思われやすいの。そんな男が、男相手でも恋愛できるって、あなた方を見ていて納得してしまったのよ。あの人を迷わせただけでも罪深いと思わない?」
「実際、そんなことで迷うなら全く素質がないって言うことでもないんだろうね。僕らに責任を負わされても困るな」
 内心、そんなくだらないことで、僕の拓斗を傷つけたのか? と考えていた。
「だいたい、清水さんは誘われて、そっちの世界を知っちゃったわけ?」
 拓斗の声が背後から響いた。
 好きなものをてんこ盛りにした皿を、僕と自分の席に置くと、
「ま、それでもそれは、清水さん自身の問題だよね。どう考えても、俺らの責任じゃないと思うんだけど」
 とだけ言い置いて、また食べ物を取りに行ってしまった。
 どこまで聴いていてその発言になったのかは知らないが、拓斗のマイペースさに思わず僕は微笑んでしまった。
 真沙子は拓斗の後ろ姿を見送りながら、フンと鼻を鳴らした。
 食べる動作をやめないあたりが太い神経だと思う。
「彼があこがれたという関係なんて、それこそ男同士だから築けるものとは違うでしょう? 少なくとも僕と拓斗はお互いにぶつかり合いながら互いにしっくり来る形を作ってきたつもりだけど。君、彼と本音でぶつかり合ってるかな? 彼のあこがれる関係は、君と彼次第で、二人で築くことが出来るんじゃないの?」
 真沙子が唇をかみしめた。
「あの人がどう思おうと、私はそう言う関係を望んでるわけじゃないわ」
「……ほんとうに?」
 僕からしてみれば、行動と発言に矛盾を感じた。
 彼女は夫に、一般的な妻……いや、女としての執着があるように見えるのに。今以上に関係を深めるつもりはないという。少なくとも、夫の方はもっと違う関係を望んでいるらしいのに。
「あんたはどんな夫婦になりたいわけ?」
 拓斗が今度はパンと果物の盛り合わせを二皿ずつ持ち込んでいた。店でするように腕に危なげなく皿を並べている。ウエィターじゃないんだから、と、ちょっと面映ゆかったり。
「他人行儀な同居人みたいに自由な暮らし? 経済的な理由だけで結婚したとか?」
「拓斗……」
 辛辣な物言いが、結構彼が怒っていることを示していた。
 真沙子は拓斗の怒りを肩をすくめることで受け流し、フッと笑った。
「そうね。おっしゃるとおり。実際には指輪もしない関係よ。あの人は写真にしか興味ないんだから」
 ほんの少し吐き捨てるように言って、左手の薬指が空の状態を、手をひらひらさせながら見せつける。
 おや?と僕は思わず眉をひそめた。
(彼女って……)
「じゃあ、ゲイだっていいわけでしょ? あんたがそう言うつもりなら、誰に影響受けてゲイになろうが恨む筋合いじゃないじゃん」
 拓斗の言に、僕は待ったをかける。
「彼が彼氏を選んで現在の彼女との関係を解消しようとすれば、彼女にはその筋合いが出てくるよ」
「あっ、そうか」
 黒目勝ちの瞳を見開いて、パチパチと瞬きをする様子がかわいい。
 両手でコーヒーカップを持って啜る様子は子リスみたいだ。
 そんなこと言ったら殴られるだろうけど。
「でも、恨むべきはそういう行動をとった清水さん本人に対してであって、僕らに……ってのは変だけどね」
「うん、そう、そうだよ。別にあんたらがどんな暮らしかたしようが、俺の知ったこっちゃないけどさ。人のせいにしてないで、自分の行動に責任持ってよ。少なくとも、恨むなら本当に利害関係生じてからにしてよ」
 必死に言いつのる拓斗の肩を押さえて、僕はもう一つの懸念を口にすることにした。
「清水さん不在でここで話しててもしょうがないか。後で連絡とるとして。清水真沙子さん、元モデルの麗花を知ってますか?」
 いきなりの転換に真沙子の眉がぴくりと動いた。

 To be continued

 

素材:トリスの素材市場