Heavenly Blue
第一回
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暮れもおしせまってのある日、舞い込んだその手紙は、まったく予期していなかったものだった。
差出人はもちろん知らない人物だが。
「誰の依頼だって?」
固まった僕から取り上げた文書を読み込む拓斗が、やはり不思議そうに僕を見つめた。
「……凄いプレゼントじゃん。でもなんで?」
うーん。
まあ、まったく覚えがないでもない。
それは拓斗もご同様の筈で。それでも、このツアーが最低でも一人あたり15万円以上するのだと言うことを考えると「なんで?」なのだ。
「まさか……あのこと気にしてるとか? あの人のせいじゃないのに」
僕らがホストをしていたカフェの支店が、つぶれたときの責任を自分に被せているらしい。
客同士のいざこざは、ありがちのことで。たまたま彼はあっちのオーナーの知り合いで、オーナーが閉店を決めたのだ。僕らはあくまでも向こうでは雇われにすぎないし、片手間の仕事だったということもあって、異論を差し挟むこともしなかった。
僕らの本当の喫茶店は、横浜にある。小さいものだが、それなりに忙しい。
それでも仕事を引き受けたのは、オーナーにかなりの義理があったからだ。
拓斗が一緒にやってくれるのでなければ、もちろんOKしなかった。
僕は桂川龍樹。5つ下の恋人、向坂拓斗も、僕の店の常連だった。
二人一緒に生活するようになって2年。医大生の拓斗のバイト先は僕の店。
学校以外の時間のほとんどを二人で過ごせる幸せという余録が付いてこその、支店経営である。それでも店は店。客が来ればいちゃつきも出来ない。
少々二人だけの時間が少なくなってきたことを気にしてもいたから、渡りに船だったのだが。
「……清水さん、気にしてたんだねぇ」
パラダイスツアーの書面を見つめてしんみりと拓斗が呟いた。
「悪いコトしちゃったなぁ」
「キャンセルして、返した方がいいよね」
「……うん。受け取るわけにはいかないよね」
僕らは、うなずきあって、送られてきた封筒にある電話番号をチェックした。
トラブルにならないように西村氏を指名すると、運良く彼がすぐ出てくれた。
「お待たせしました、西村です。桂川様というと、清水さんご紹介のお客様ですね?」
「ああ、はい。実は……」
……依頼客をさん付け?ただの客じゃないってことか?
そんなことを考えながら、断りを言おうとしたところ、大きな溜息のような笑いに遮られた。
「じつは、キャンセル。ですか? 残念ながら、それは出来ません。清水さんから、そういってきても断るように指示が入っております」
「はあ?」
「多分、そういう電話をかけていらっしゃるだろうと」
「はあ……」
「彼の気持ちですから。私どもでも精一杯のサービスをさせていただきますので」
「しかし……」
「彼、かなりの頑固者でして」
「えっ?」
西村氏の含み笑い混じりの、それでも心地よい声が彼への親愛の情を響かせていたので、思わず聞き返した。そう、彼らは親しい関係なのだろう。
「おたくの店を取り上げてしまった責任を感じて、ひどく落ち込んでいたんですよ。それで、私の方から薦めてみました。あなた方には南の海でくつろいでいただき、彼には満足感を感じて貰う。私どもはクライアントをゲット。良い案でしょう? ……いけませんか?」
「いえ、しかし……」
「プライベートビーチと、プール、小さな島はホテルそのもの。二人だけの蜜月を過ごすのに最良の場所が用意されていますよ」
僕はそこで絶句した。
どう考えても、僕と拓斗のことを正確に把握しているとしか考えられない。
「ダイビングはなさいますか?」
「あ……いえ」
「簡単な講習を受ければ、楽しめますから。是非トライしてみてください」
「はあ……」
有無をいわさずと言うほどの強引さではないが、僕らはキャンセルを取り消すこととなった。
というのも。南の島での蜜月に、心惹かれてしまったからである。
「……行くの? モルディブ……」
そっと僕の脇に腕を通すと拓斗の形のよい頭が寄せられた。
「うん……断れそうもないみたい」
本当は嬉しくてしょうがなかったけど、図々しいって言われそうだからそんな風に。
「龍樹さん、嬉しくてドキドキしてる……」
拓斗がくすっと笑ってつぶやいた。
「ああ……僕の鼓動は正直なようだ」
拓斗がくるんと僕を見上げた。
きらきら光る黒い眸。悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「二度目の新婚旅行だね。仕切り直しに丁度イイじゃない?」
「……そういう考え方もあるかな」
僕らの新婚旅行。とんだ邪魔が入って、僕が旅程のほとんどを費やしたのは病院のベッドだったから。
「南の島の、誰にも邪魔されないハネムーンなんて、すごいや」
「だからドキドキしちゃうんだ」
「ここも?」
すっと拓斗の手が触れたのは、僕の股間。
「あっ」
拓斗の指が服の上から僕の分身にからみついた。
「ドキドキしてるね」
「……君が握るから……」
「俺が触る前から硬かったぜ」
「だって……」
また獣とか言われるかと思い、言い訳を探した。
だが。
僕は彼が体を押しつけてきたので後の言葉を飲み込んだ。
コリッと当たるそこは、とても熱く……。
「龍樹さん、フェロモン出し過ぎ。したくなっちゃった……」
そのままかがんだ拓斗はカウンターに隠れる様にして僕のジッパーを下げた。
握り出された僕は、しめった感触に包まれて呻いた。
「拓斗……やめて」
客が来たら……なんて、いつもなら拓斗の台詞。
すぐにランチの時間である。
混む時間帯を前にした、微妙なブランクに、フェラチオとは。
「びんびんになってるくせに、やめられる?」
「もうすぐ……ランチタイムなのに……」
アアと、歯をかみしめて声を殺した。ごくりと飲み込む生唾の音に、拓斗の攻めが執拗さを増す。
「客が来て、どのくらい営業スマイル浮かべてられるかな?」
「こ、こらっ」
「……ランチタイムまで後20分。観念して、すませちゃった方が良くない?」
見下ろせば、拓斗の股間も大きなテントを張っている。
もう少しじらせば、ズボンに先走りのシミが浮き出てきてしまうかも。
慌てて僕は拓斗を立ち上がらせると、事務室に連れ込んだ。
扉は開け放し、店の音だけを拾える様にして。
性急に彼のボトムを引きずりおろす。
パソコンで埋まったデスクと書類棚の小さな部屋で、彼をデスクにつかまらせると、ひくつく蕾に即座に挿入した。
ズブッと入り込んでいく抵抗感は、適度な締め付けになって僕を刺激する。
今ではすっかり僕を受け入れるのに慣れた拓斗の体は、嬉しそうに身震いしながらクイクイと腰を揺らした。
「ああ……あんっ」
声を自分のシャツの袖を咬むことで小さく押し殺し、拓斗は自分のペニスをしごきながら僕の動きに合わせて尻を振り続ける。
「じっくり楽しみたいところだけど……切り上げるよ」
僕はテンポを速め、彼を何度も掘り続けた。
打ち付ける音、しめった肉のこすれる音、拓斗の潜めた嬌声……。
こんなに簡単にすませてしまうのはもったいないと思いつつ。
急ぐ。
後5分。
近所の会社のお昼休みだ。まとまった人数が……やってくる。
「拓斗、拓斗、出る?」
「アッあっで、でるっ。イクッ!!」
ティッシュをつかみ取り彼のペニスをくるんだ。
その手に彼の手が重なる。
強くしごきながら、僕は自分を解放した。
じわりとティッシュがしなっていく。
「ぁ……ぁ……アア……」
ぜえぜえと喘ぎながら、拓斗は椅子にもたれかかった。
僕は彼にもたれる様に覗き込み、キスをねだった。
唇を捕らえ、歯の間を割って舌を導き……。性急な行為からオミットされたそれを味わい直す。
ゆるゆると彼の内股を伝い落ちていく僕の精液。
そっとそこにもティッシュを押し当て、ふき取った。
「何でそんなにさかっちゃったの?」
「……ハネムーンて考えたら……あのときのこと思い出した。そしたら龍樹さんを……かんじたくなったんだ」
滲んだ涙に、窘める気は失せる。
「君の誘いは嬉しいけど、こんなやり方、何だか、高級料理を味わいもせずにかき込んだ気分になるよ」
今夜……ゆっくり感じ合いたかった。
それだけが僕の不満。
「後で仕切り直していい?」
「ん……」
紅潮した頬に涙を伝わせながら、小さくうなずいた拓斗。
ぎゅうっと抱きしめて、僕は彼を解放した。
時を同じくしてドアベルが盛大に鳴り始めた。
「あら? 誰もいないのかしら?」
「開いてるもの、平気よ。マスター! いるんでしょ?」
わいわいとピンクの制服のOL達が入り込んでくる。
先ほどまで静かだった店が、いきなり騒がしい場所になった。
「今日のおすすめランチはなあに?」
「あっ。チキンバスケットだ!! キッシュ付き? どうしようかなぁ」
「クラブハウスサンドにブレンドにしよっと」
「キーマカレー、ミルクティとね」
口々に注文を叫ぶ。
身支度した拓斗が出てきたときには満席となっていた。
「あっ拓斗君、どうしたの? 赤い顔して。熱でもあるの?」
常連の一人が心配そうに声をかけた。決まり悪そうな拓斗は、まだ行為の余韻が残っていてしどけない雰囲気。泣いた瞳も洗ったらしいがまだ赤い。
「え? あ、はは。ちょ、ちょっと……」
よろけた足下も、彼女たちには具合悪そうに見えたのかもしれない。
「拓斗君、無理しなくていいよ。具合悪かったら休んでて」
「きゃー、マスター、拓斗君には優しーよねー」
「そりゃ、大事な働き手ですから」
などと答えれば「うそつき〜」なんて声も。
最近の彼女たちの視線は、僕たちに均等に与えられているような気がする。
僕らの目配せや、ちょっとしたやりとりに、いちいち反応を見せるのはやめて欲しいのだが。全く。僕らの私生活は僕らだけのものなのに。
何をそんなに探りたいんだろうね。
もちろん、大事な恋人だって、言い放ちたいのは山々。
どうせ、彼女たちは拓斗の同級生のように「ビジュアル的にはOK」なんて宣うに決まっている。
それでも怖いのだ。
誰もが好意的に見てくれるわけではないから。
差別は怖い。
未だに目に見えないピンクトライアングルは存在する。
個々の人間として僕らを認めてくれる人は少ないはずだ。
「拓斗君、5,6番ランチ上がりだよ」
揚げたてのチキンをポテトチップスとトーストに添えてバスケットに盛りつけ、サラダとキッシュを添えた皿と一緒に盆に載せた。レモンとクレソンを飾る。キッシュはほうれん草とベーコン。コーヒーはモカとコロンビアを半々にしたブレンド。
「ぁ。チキンすごい味がしみてる〜」
小さな叫びと感嘆の声。これが結構嬉しい。
前日の夜から下ごしらえしてあった肉は独特のうまみを出しているのだ。
定番のカレーは拓斗が味見役。パスタをアルデンテ仕上げでタイミングよく出せれば、今日の仕事は成功。
くるくると踊るように給仕する拓斗がいてこそ。
彼が喜んで、またあんな涙見せてくれるなら、僕は南の島だろうが北の最果てだろうがどこへでも脚を伸ばしてしまうだろうな。
ぁ。思い出してしまった。
ごほっと咳払いして、品を待つ彼女たちを見渡した。
幸せそうに微笑む顔、顔、顔。
美味しいという顔は、個性が違っても似た雰囲気を持っている。
ベッドの中での恍惚の表情も、似ているだろうな。拓斗みたいに。
……店を休めるだろうか。
客商売というのは難しい。やたらに臨時休業していては、常連客をも逃してしまう。
ああ……しかし……モルディブは一週間以上のバカンスだ。
夏に長く休んでしまったときは、不可抗力とはいえ痛かった。
旅先で怪我をして入院していたんだと、言い訳しつつ。今の満席状態に戻るには1ヶ月かかったっけ……
「日程……どうしようかなぁ」
独り言をつぶやいたのだが、近くの客に聞きとがめられた。
「なんの日程?」
近くでは一番大きな会社のOLさんだ。横に数名の後輩を引き連れてきている。
カウンター席を陣取ったのは、ボックス席が既に埋まっていたから。
「いえね。旅行をプレゼントされたので。せっかくだから行きたいけど、休むのがねぇ」
「うわ。いいなぁ。どこ行くんですか?」
「モルディブなんだけどね」
「きゃー、海が綺麗なんでしょう? あーぁ、あたしも行きたーい」
周りの女性達みんなが頷く。
「ダイビング、するの?」
「うーん。やったこと無いんだけどね。体験ダイビングくらいならしてもいいかな」
「サンゴ、ダメになっちゃったんだよね。エルニーニョで」
「あら、でも、今の水温で生きられるのが育ち始めてるんでしょう?」
女性達は綺麗なものには詳しいのだろうか。
「よく知ってるんだね」
興味の対象外だった海の情報に、僕は彼女らを少しだけ違う目で見るようになったと思う。
「うふふ、友達がね、水中写真に凝ってるの。モルディブの海は、ひたすらブルーなイメージだったなぁ。なんにもしないをしに行くのも素敵そうだなって思ったの。写真見せて貰ったときに」
「ふうん……」
僕は瞬間拓斗と視線をからませた。
旅行といえばついついあちこち観光に追われてしまう。
だが、今回の目的地は……。
「青い海に囲まれて、島一つがリゾートホテルで。楽園て感じよね。まさしく」
ほう……。全員から溜息が漏れる。
誰もがホンのひとときでいいから楽園の住人になりたいのだ。
僕らも、何もしないをしに行きたい。
ぁ、メイクラブはべつだけど……
そう思い至って一人にやけてしまったらしい。
「あっ。マスター、今なんか思い出し笑いした!」
指摘を受けて、焦る。
「分かった〜、旅行は一人じゃないのね」
思いっきり指さされて僕は苦笑いするしかなかった。
拓斗の窘めるような視線が痛い。
「……大好きな人とね、行くようにって旅行プランをプレゼントされたんだ。もちろん、恋人と行くんだよ」
どよっとざわめく彼女たちは、チェッ唾ついてたのかって顔。
「じゃあ、じゃあ、拓斗君はお休みでしょ? そのあいだ」
「え? ぁ、ああ……」
「その間に、私とどこか行かない?」
な、なんですと〜っ?
不埒なことを言いだした彼女は、拓斗の腕をとってかなり真剣な瞳で拓斗の返事を待った。
「加奈子〜、ダメよっ。困ってるじゃない?」
リーダー格が彼女を押しとどめ、拓斗も初めて強ばって凍結した顔を笑み崩した。
「……済みません、俺、もう予定入れてるんで。一緒に行く相手、いるんですよ。日程がはっきりしたら、動くつもりです」
「で、お店はお休み?」
「まあ、そうなるかなぁ」
うーん、困った困った。
店番頼める人材がなぁ。
そんなとき、店の電話がいきなり鳴りだした。
「はい、エルロコです」
営業用の声で出れば、小さな溜息の後に、聞き覚えのある声が言った。
「……龍樹、あたしよ」
低めのアルトがけだるげに響く。
「麗花……?」
「どうしたの? 元気ないみたいだ。大丈夫?」
新婚旅行の時は本当に世話になった女性である。元モデルの、僕と同じくゲイの女性。一時期部屋をシェアしていたこともある。僕にとっては姉のような人だ。アメリカでペンションのオーナーを続けていたはずだが。
……アメリカからにしてはなんとなく声が近い気がする。
「……今、どこにいるの?」
「……成田よ。帰って来ちゃった……。到着ロビーにいるの」
言うなり声が震え始めた。泣いているのか?
「麗花、麗花、そこにいて。迎え、行くから」
返事は泣き崩れる声だけだった。
麗花が泣くなんて。どういう事だろう?
気丈で、クールな女性だったはずだ。
「龍樹さん、どうしたの?」
拓斗の声と一緒に客の視線が全部僕に集まった。
「……分からないけど、麗花が泣いてるんだ。成田で」
「ただごとじゃなさそうだね。行けよ、早く。おねーさん達、いいよね? 麗花さんて龍樹さんのお姉さんみたいな人なんだ。後は役不足でも俺が……」
「いいわよ、ぁ、私のオーダーはドリアに替えてね」
口々に協力的な名乗りが上がった。
僕はエプロンを外して、彼女たちを見回した。
こんなに客に甘えて良いものやら。それでもその気持ちが嬉しくて、深々と頭を下げた。
「皆さん、済みません。お言葉に甘えてちょっと行ってきます」
「いってらっしゃい」
奇妙にハモった大勢の声に押し出されるように僕はガレージに向かった。
素材:トリスの素材市場