龍樹&拓斗シリーズ
優しい毒

 

3

 『El Loco』のドアベルは澄んだ音色で客の来訪を伝える。チリリンと音は可愛らしいのに、結構どこにいても耳に入ってくる響きを持っていて、聞き逃すことはあまりない。
「いらっしゃいませ!」
 俺の声は、ドアベルほどの可愛い響きはないけれど、元気だけは負けない。
「あれ? 拓斗君、居着いちゃったの?」
 俺の声に気圧されながらも、にこやかに入ってきたのは常連の江崎さん。一流企業の課長クラスだったと思う。ハンサムで、年はまだ三十前。同期で一番の出世頭だって、前に連れて来てた同僚の人が言ってた。
 常連の客達は、たまに手伝っていたときに既に顔見知りになっている。常勤みたいに手伝うようになって、何度かこの台詞を言われてたんだ。
「あはは、受験終わったからバイトです」
 家庭教師代ってのは、内緒。龍樹さんは、自分の経歴を人に知られるの嫌いなんだ。
 俺には妹の泉さんが教えちゃったから、居直って家庭教師までしてくれたんだけど。
「飯付きだから、とってもお得なんですよ」
 これは本当。今年の春休みはコンビニの弁当の世話にならなくて済む。
 生活費さえ余裕があれば、毎日でも食べに来たかった俺は、メニューにない料理まで味わえる幸せを満喫しているんだ。
「ああ、そりゃイイや。マスターのを毎日ロハで食えるっての、確かに役得だね。俺も転職しようかな」
「ヤングエグゼクティブに給料払えるほど稼ぎありませんよね、ここ」
 龍樹さんに声をかけると、こら! と、目で叱られた。
 龍樹さんはオーダーのピラフに付け合わせのサラダを用意しながら、ミックスサンドの下拵えに入ってる。
 俺に出来る手伝いはするけど、調理は龍樹さんじゃなきゃ、客が納得しないだろう。
「マスターが女だったら、俺、すぐにでも結婚申し込むのになぁ」
 龍樹さんの手際のいい動きを見つめながら、独身貴族らしい江崎さんは、小さな溜め息をついた。
「ホントだ。マスターみたいに綺麗で、何でも出来て、優しい女の人がいたら、ほっとかないよね。みんな……」
「君も?」
「うん……。いや、だめだな。きっと俺のものだったらいいなあって溜め息ついて、物陰から見てると思う」
「なにそれ?」
「俺なんか相手にされる訳無いから、見てるだけにすると思う」
「随分気弱なんだな」
「身の程を知ってるんですよ」
「まだ若いくせに、年寄りくさいこと言うなよ」
「江崎さんみたいにバリバリなら良いけどね」
「俺のどこがバリバリだよ? 寂しいもんだぜ、仕事仕事の毎日じゃさ」
「江崎さん、かなり好みうるさいとみた」
「そんなことないよ。小心者なんだ、俺は」
「拓斗君、二番テーブル、ピラフ上がったよ」
 目配せするように笑ってた俺達に、割って入った龍樹さんの声。……ちょっぴり尖っていたように聞こえたのは気のせいじゃない。
「おっと、仕事サボらせちゃいかんな」
 江崎さんが、龍樹さんに向かってスマンというように手を振った。それに営業スマイルで応えた龍樹さん、やっぱり怒ってる。
 ピラフを運んで、追加のオーダーを伝えて。ばたばたしてる中に閉店時間。龍樹さんは、あれからずっと機嫌悪かった。表情は柔らかく作ってるけど、目が冷たいって感じで。それも、俺に対してだけ。
「おつかれさま」
「お疲れ……」
 素っ気なく言った龍樹さんは、くたっとカウンター席に座った。
「龍樹さん、どうしたの?」
「どうもしないよ」
 ってことは、絶対ない。いつもはすぐに俺の夕飯作ってくれるんだ。
「怒ってるでしょ」
「なにに?」
「それを聞きたいのは俺だよ」
 龍樹さんの瞳が揺らめいた。苦笑を浮かべて立ち上がった。
「疲れてるだけだ。……夕飯作る。リクエストは?」
「何でもいい。それより、どうして怒ってるの?」
「…………言えば君が怒る」
 むすっとして言うその言い方が、子供っぽく見えた。
「怒らないから……、言ってよ。なんか、気持ち悪いよ、胸につかえてるみたいで。
 龍樹さんがそんな風にふくれてるの、ちょっと可愛いけどさ」
 龍樹さんが不意に俺の手を取った。握りしめるって感じに力込められて、引き寄せられた。俺には振り払うことの出来ない強さで。
「?」
 あ……、すごくやばい気配。
「君に可愛いなんて言われるとは思わなかった。……ほんとに怒らない?」
 声は甘く危険な響き。いつもより更に低く響いて、俺を暗い淵に引きずり込みそうで怖かった。
「お……怒らない……よ」
 俺が退いたのに気がついたのか、手を離すとくすっと笑った。……泣き声みたいな声で。
「妬けたんだ。君が……他の男と仲良く話してるのが……ね。見てて辛かった。そんな権利ないのに。……すまない」
 龍樹さんは震えてた。自分を抑えようとしてるって感じに笑って見せた。
「客に一々妬いてたんじゃ、仕事にならないよね」
「ごめんなさい。……俺、ここに来ちゃいけないね」
「いや!」
 龍樹さんがすごい勢いで遮った。まるで縋り付くみたいにして。そんな自分に驚いたように慌てて笑みを作った。強張った悲しい笑み。
「君には来て欲しい。君が友達を望むならそれでいいから。君に会えるだけでいいから、……もう、妬いたりしないから。……来て欲しい」
 泣きそうな瞳が金色の光をたたえて俺を覗き込んでる。
「龍樹さん……、そんな風に言わないでよ。俺、龍樹さんのこと虐めてるみたいな気がしてくる。俺はただ……」
「分かってる。分かってるから……。僕の……我が儘なんだ」
 くるっと俺に背を向け、そのまま夕食を作り始めた。俺は心情的にも逃げ出すことが出来ず、いつも通り食卓を囲んだ。
 その日の夕食は何を食べたのか覚えていない。美味しいとかも感じず、喉を通った感覚すら記憶にない。沈黙だけが食卓の飾りってのは、何とも苦しい食事だ。
 じゃあと席を立った俺に、またねと言った龍樹さん。気遣わしげで弱々しい瞳が俺を追う。絡みつくような視線を感じたんだ。
 元来龍樹さんて人は、こんな風にさえならなければ何時だって冷静で、強い人のはず。いろんな武道にも長けているらしいし。
 武術の力に応じた精神力も鍛錬されていたはずで……。
 俺の態度が龍樹さんに影響する。それは、俺が考えていたよりずっと大きいらしくって……。これからどうしよう。
 俺は龍樹さんが好きだけれど、龍樹さんが望む形にはなれないから。
 ほんとは手伝うなんて事すべきじゃなかったかもしれない。