龍樹&拓斗シリーズ
優しい毒
 
2 

 一週間。
 龍樹さんのバレンタインケーキを食べてから、『El Loco』に顔を出さなかった。
 入試の日程も混んでたし、龍樹さんのテスト結果も良好だったから。採点の時、ちょっとがっかりした目の色してた龍樹さんを見て、行きにくくなっちゃったんだ。
 あれは家庭教師じゃない龍樹さんだった。
 もうすぐ彼のの誕生日がくる。
 感謝はしたいけど、期待はさせたくない。
 そんな風に思い煩ってる中に来てしまった金曜日の午後。
 学校は半日になってたし、入試も終わってしまった。ほんとなら、『El Loco』でコーヒータイムってところだろうか。
 帰宅途中で横浜駅に寄り道することにした。プレゼントを物色しようと。
 東口にも西口にも店はたくさんあるし、何か見つかるかもしれない。
 駅のホームを歩いていたら、この間の女子大生二人組を見かけた。相変わらずの天真爛漫さと暗さ。声が大きいので遠くからでも分かる。
 何となく見ていたら、大きい方が揺らいだ。キャーッと悲鳴が上がって。聞き覚えがあるから片割れのだと思う。
 俺は声のした方に走った。正直動機は野次馬根性。
 叫んでたのはやっぱり小柄なあの女子大生。
 彼女の足下にはあのヒョロ長美人。いつも暗く俯いてさえいなければすごくモテそうな端正な顔が、青白くなっていて、口元にはくっきりと二筋の血糊。
 瞳は虚ろで、あらぬ方を見ていて動かない。瞳孔は開いちゃってる。倒れた姿はそのままでは身体が痛いんじゃないかっていう不自然な形で……。
「死んじゃってない?」
 誰かが言った。彼女たちを取り囲んでた輪が一斉に頷いたような気がした。
 駅務員が駆けつけてきた時にでも、俺は立ち去っておけばよかったんだけど、ついそのまま居残ってたせいで、また……。
「拓斗君!」
 甲高い声が俺を呼んだ。
「え?」
 一斉に視線が俺に集まった。
 小柄な女子大生は、俺に駆け寄ってきて、いきなり抱きつき泣き出した。
「??? っ、あの」
 俺の名前、よく知ってたよな。龍樹さんが呼ぶの、聞いてたのかな。
 ……とにかく。
 そうやって、俺は当事者になっていた。その日一日がそれでつぶれることになった。
 駅の詰め所に行って、警察が来るのを待ち、話を訊かれた。結局俺は何にも情報は提供できず、泣いてる割にはっきり答える彼女を見てただけ。
 背高美人は、紅林綾芽(くればやしあやめ)という名だと知った。同行していた小柄な彼女は、葉山紀代子(はやまきよこ)。大学二年で、同じ学部、同じ学科。
 後期試験の結果発表を見に来た帰りらしい。やはり帰りに横浜に寄ろうって事だったんだろうけど。
「……参っちゃった」
 コーヒーを啜りながら今日の一部始終を話し、俺は愚痴っぽく締め括った。
 優しい瞳で頷いた龍樹さんは、出来立てのクラブハウスサンドを俺に差し出した。チキンは甘辛く味付けして合って、トマトソースも手作り。パンもこんがりトーストしてあって、熱々。
 何かある度、結局ここへ来てしまう俺。
 一週間ぶりだったせいか、俺を迎えた龍樹さんの微笑みは、何とも言えず嬉しそうで、美しかった。そんな風に思ってしまう俺は、既に十分彼の気持ちを弄んでいるわけで。
 自己嫌悪に陥りながら、それでも食欲は待ってくれず、皿はあっと言う間に空になる。
「何で死んだの?」
 食べ終えるのを待っていたかのように、コーヒーのお代わりを注ぎながら聞いてきた。
「心不全らしいってさ。よっぽど苦しかったらしくって、舌噛んでたって。……口元に血が滴ってて、綺麗な人だった分怖かったなぁ」
 ……思い出しても夢見悪いや。
「心不全……て? あの娘、心臓弱かったのかな」
「そんな感じじゃなかったよね。前に、二人でテニスのラケット持ってきてたことあったでしょう?」
「よく覚えてたね」
「いや、テニスウエアって、結構印象的だよね。スカートん中がチラチラッて、見える感じ。目の保養って言うか、そそられるって言うか……」
 言った途端に龍樹さんの瞳がきらって光った。俺のスケベ心を暗に責めるように。
 んーっ、責めるってのと違うか。……俺がそういうこと言うの嫌がったって感じかな。
「……それに、あの時はスズランの鉢を一緒に持ってたってのが妙な感じで覚えてたんだ」
「スズラン? そうだっけ?」
「……とにかく、見た目暗い感じでも、運動出来なさそうとかそういうのと違ってたと思うんだ。だから、変だよね」
「うん、まあね。事情聞かれた時もそう言ったの?」
「そんな話するタイミングなかった。俺はここで顔あわせたことがあるだけだって言っといたし、葉山さんがほとんど喋ってたし。でも、彼女も、そんな話し聞いたことないって言ってたよ」
……今日、ここに来たんだよ。あの二人。いつものように同じケーキセットを頼んで。だけど、背の高い娘の方はケーキには手を付けなかったな。コーヒーも……ね、小さい娘の方が砂糖とミルクたっぷり入れてやったりしてさ。一応飲んでいたみたいだけど、全部は無理だったらしい。本当はブラックが好みなんじゃないかな。甘いの苦手なのかもしれない……」
「苦手ならそう言えばいいんだ」
「うん、そうだね」
 言えないから残していたんだろうけどね。
 龍樹さんの表情はそう続けていたみたいだった。
「なんかさ、ああいうのって、端で見てても何だか苛つくよね。対等じゃないって感じで」
「まあね」
「主導権握られて、指図されてさ、よく付き合ってたな」
 俺なら我慢できない。
「楽しんでる様に見えたけどね」
「そうかなぁ?」
「辛そうだったのはむしろ……」
「?」
「いや、……気のせいかな」
 独り言のように呟いて、龍樹さんは新たに入ってきた客のお冷やの用意をしに行った。
 俺は残りのコーヒーを飲み干し、食器を重ねると、カウンターの向こうに入って俺用のエプロンをつけた。
 『El Loco』は、カウンターに六席と、四人掛けのテーブルが一つ、二人掛けが二つの、さほど大きくない店だ。それでも、マスター一人ってのは辛い。なのにアルバイト募集もしないでやっている。
 俺がいつも手伝えればいいんだけど、なかなかそうはいかなくて。今までは一応受験生だったから。
「龍樹さん、手伝うね」
「有り難い。でもいいのか?」
「うん、試験全部終わったし、これからは毎日手伝えるよ」
「それじゃ、バイト代ださなきゃね」
「そしたら、俺も家庭教師代出さなきゃ」
 つまりはチャラ。
 龍樹さんがにっこり笑った。
 毎日顔出すのが約束になってしまったけど、やっぱり、そのくらいは返したいっていうか……。
 鼻歌混じりでカップを洗い出した龍樹さんの瞳は、そんな俺との約束が嬉しくて仕方ないって感じで輝いて見えた。
 ああ、俺って自意識過剰なのかもしれない。