龍樹&拓斗・番外出会い編
ある晴れた朝突然に
 
 今思えばそれは運命。
 一年前の六月二日。
 横浜は開港記念日で。市立の学校である俺の高校は休みだった。
 天気はいいし、目覚めはさわやか。なんの予定も入れてない休日。
 いつになく朝から普段読みもしない新聞を開いてみたりして。
 中に折り込まれた広告が俺を呼んでいたんだな。
 
 
 喫茶店『El Loco』開店のお知らせは、シックでおしゃれなデザインのチラシで、コーヒーの無料券と粗品の引換券がついていた。
「お食事にもご利用下さい。か……」
 場所は駅前商店街。俺んちとは反対方向に歩くことになるけど、十分寄り道の範囲内。
 それは俺を誘惑するのに有効だった。
 俺は向坂拓斗。高三。
 親の海外赴任のせいで、受験生の俺だけが広い一戸建てで一人暮らしを始めることになってしまったのはつい二ヶ月前。
 それなりに家事をして、結構快適に暮らしてはいたんだが、なんと言っても困るのは食事。母親が置いていってくれた俺にも出来そうな料理のレシピ集だって、手に負えなかった。買った野菜は多すぎて使い切れずに腐ってしまう。飯を炊けば、半端な量が残ってしまうし。床飯になった冷や飯はあまりに不味い。不慣れで要領悪いせいか、作る手間もかかってしまうし、洗い物も嫌気がさしてくる。しかも、台所が汚いのだけは生理的に許せない。自然楽なコンビニの弁当とかインスタント食品に頼るようになってた。
 ただ、問題があった。いかんせん口に合わなくて。
 不味いわけではないが美味しくもない。暖め直しの揚げ物はじっとりしてもたれるし、マヨネーズ系は分離して全滅。サラダはへたするとすえた臭いがする。文句言うくらいなら作れば良いんだけど。飯も炊いたことがない俺が独学するには料理って奥が深すぎるんだよ。出発前に母さんに習ったりもしたけど、甘く考えてたんだなぁ。
 とにかく、コーヒー好きの俺はその日を『El Loco』に出かける日と決めた。
 開店は十時半……てことは、少し早めに行かないとね。コーヒー無料とか、粗品とかにつられて近所のおばさんたちが集まっちゃうだろうし。
 俺はチラシと財布を持って家を出た。
 
 
 その店はあんまり大きくなかった。開店祝いの花輪がいくつか店周りを飾ってて。通りに面した窓からは、スペイン家具らしいデザインのテーブルとイスが見えた。
 ボックス席は三つくらいで、後はカウンター?
 シックなオーク材の扉には十時半に開ける旨書いてあって、誰もいなかった。開店三十分前だけど。コーヒー飲むだけに三十分並ぼうとは思わないのかな。開店当日のチラシでは、反応が遅いのかもしれない。
 俺は改めてチラシを見直してみて、笑ってしまった。がっついて早く来すぎた自分が恥ずかしくて。粗品にしろコーヒーにしろ、数を限定はしてなかったし、サービス期間も一週間あったんだ。何も一番乗りする必要はないって考えて、コーヒーを飲むのに良い時間をみんな選んだって事か……。
 家まで戻ろうかと思ったけど、戻るだけで十五分はかかる。
「いいや待っちゃえ」
 そうやってドアの前に立った。
 開店まで一人だったら、ちょっとこっぱずかしいぞと思ってたら、開店十分前に俺の後ろに二人並んだ。リタイア組の老夫婦ってとこか。
 五分前にドアの鍵がはずれた。その時俺の後ろには十人ぐらい人がたまってて。
「あ、いらっしゃいませ〜」
 ハスキーボイスで言いながら、女の子が出てきて張り紙をはずした。
 少し化粧が厚めかなとは思ったけど、結構美人。瞳が大きくて、シャドウがたっぷり。まつげが長くて濃い系の顔だち。ふっくら厚めの唇は濃い赤紫色に染まっていて色っぽい。メッシュにしたセミロングの髪はオレンジやら黄色やピンクやらが入り交じった茶髪。服装もサイケデリックな色で、年寄り連中には受けないだろうけど、コケティッシュで魅力的だ。
 そんな彼女がにっこり笑って俺たちを誘った。
「どうぞお入り下さい」
 支えられているドアから中に入った。
 中にも生花が沢山置いてあって、花屋かと思うほど。
 花に囲まれるようにしてその人はいた。
 踏み込んだ途端、真正面にいた彼と目があって。
 吸い込まれそうな金色の瞳がかっちりと俺をとらえた。
 俺は思わず目をそらした。
 どうしてだか怖かったから。
 それでもつい惹きつけられて、瞳を見ないようにして観察した。
 花に負けない美しい人。
 金髪に近い茶髪は緩やかなウエーブで、絶妙なラインで形取られた細面の輪郭に影を落としている。日本人らしくないかっちりした顔立ちはギリシャ彫刻って感じ。何かに驚いたようにぽかんと開けられた口元は、きちんと閉じれば理想的な形をしていそうだ。肌も透き通るような青白さが基調で、日焼けによって健康的な小麦色を得ているらしい。ものすごい長身で、細身だけど骨格的にがたいがいい、男らしい体格なわけで。それでも美しいという表現しか俺には思い浮かばなかった。
「……いらっしゃい」
 低く穏やかな声が発せられて、俺は誘われるように目の前のカウンター席に着いた。
「とりあえずこのコーヒー、お願いします」
 真正面に立つ彼の顔を見ないようにサービス券を差し出した。
「ありがとうございます」
 すっと手が伸びて俺の券をつまみ取った。視界に入った彼の指は長くて、綺麗に短く切りそろえられた爪から根元まで、男っぽく関節は強調されていたけど優雅だった。
 瞬間見とれて、思わず見上げた先で、見下ろしてきていた金色の瞳に出逢った。視線が合った瞬間に、今度はにっこり微笑んで。なまじ精密に整ってる分美しさは半減するけど、その笑顔はとっても親しみやすかった。
 今度は怖いなんて思えずぼんやり見とれた。よく見れば瞳の色は茶色。光の加減で金色に見えるんだった。
「マスター、七番八番サービスブレンド併せて六つですう」
 後ろに並んでた人たちはほとんどボックス席に入ったらしい。
 金払わない客ばっかで気の毒だよな……。
「あの」
「はい?」
「メニューを……」
 もう一度優雅な指先が降ってきた。カウンターの上にあったメニュー立てから、コンピューターで打ち出ししたらしいカラー印刷のパンフを取って、直に渡してくれたんだ。
「すみません」
 コーヒーの値段は……。ブレンドが三百五十円。豆の種類によって八百円まで。まあ、普通かな。
 それと、ケーキ。四百円前後で十種類。レアチーズとか、チョコレートケーキとか、業者物らしいメニューが挟んであるのに、小さくスペシャルなんて書いてある。
「この、スペシャルってなんですか?」
「手作りで、日替わりなんです」
「へえ……」
 彼が指さした先には小さな黒板が下がっていて、本日のスペシャル・『ガトーオランジェ』と書いてある。
 食事の方は……。
 カレー、ピラフ、サンドイッチにスパゲティ。バリエーションを数えると十種類くらい。この辺もまあ普通。おすすめランチとかあるんだろか。
 メニュー見ながらちらちらとマスターの動きを伺っていたら、サービスブレンドは各テーブルまとめてだったけどちゃんと豆挽いて煎れていた。
 いい匂いが漂って……。うん、匂いは合格だ。
 ほどなく目の前に香り豊かなコーヒーが置かれて……。カップはなんだか高そうなブランド物。ちょっと気後れしちゃう。
 そっとカップに口つけて熱さを確かめてから一口飲んだ。
 コーヒーが口の中に広がった途端にマスターの方を見上げてた。
「……美味しい……。こんなの初めて飲んだよ」
 たかがコーヒーだけど……俺は感動したんだ。
 美貌のマスターは、すごく嬉しそうに微笑んだ。思わず俺も笑いかけてしまうほど。
「……コーヒー美味しいから、スペシャルも食べてみたくなってきた……」
「是非試して下さい」
「じゃ、一つ」
 デザート皿に盛られたガトーオランジェは、リキュールシロップ漬けのオレンジを使ったムースとスポンジの層状のケーキ。カスタードのソースと生クリームを添えて、彩りにラズベリーとミントの葉っぱも載せてあった。六百円。
 一口食べて、また目を見張った。
「……美味しいっ」
 俺はそんなに甘い物好きってわけじゃない。でも、思わず舌で味わって、うっとりしてしまうほど美味しかった。甘すぎず、酸味が程良く効いていて、オレンジの香りがさわやか。添え物も絶妙の量。
「気に入ってもらえて嬉しいよ」
 低くマイルドなささやきが忍んできたとき、俺はニコニコで頷いていた。
 混んできた店に居座るのも悪いから、美味しくデザートを終わらせて立ち上がった。
 レジはカウンターの横にあって、マスターが打つ。
 つりと一緒に粗品だというマグカップとクッキーの袋をもらった。美味しいコーヒーとケーキ。それだけで幸せな気持ちになれる俺って、お手軽な奴だな。
「俺、毎日通っちゃいそう。家の近くで良かった」
 お世辞でなく言った。それが分かったからか、花が咲いたように微笑んで、マスターは小さな綴りチケットをくれた。
「コーヒーの回数券。お客様第一号にサービスです」
 潜めた声音は特別なプレゼントだということを暗に伝えてきていた。三十分並んだ甲斐があったなぁ。
 チリリンというドアベルに送られて、俺は店を出た。
 
 
 それから二週間。
 最初の一週間は、あまりマスターといろんな話をする機会はなかった。何しろ混んでて。
 お店って大変だ。こういうの、薄利多売って言うのかな。とにかく名前を覚えてもらって、気に入ってもらわなければ次がない。
 俺的には滅茶苦茶美味いもの出してるし、そこそこの値段だし、十分なんだけど。
 狭いのに居心地良すぎて居座るやつがいると、回転しないから痛い。
 適度に落ち着かない雰囲気を出さないといけないわけで。
 そんな要素に手を貸していたのがウエイトレスの香奈ちゃん。
 カシャーンという神経をひっかく音は全て彼女が発信源だった。
 マスターもそうそういい顔は出来ないらしく。こめかみに米印が見えるかのよう。
 俺は毎日じゃないけど週四日くらいは足を運んでいて、コーヒーを二回かけられた。最近は警戒して安手のシャツを着ていくようにしてる。
「きゃーっ。すみませぇん」
 三度目の時は真正面からやられたので、何でそんなにミスするのか分かった。
 客の女の子たち。
 香奈ちゃんの足を引っかけたり、注文の品に難癖付けたり。進路妨害とかの嫌がらせの数々。
「そこのおネーさん、わざと足かけたね? どうしてくれんだよ、俺のシャツ」
 ボックス席の三人組の方に歩み寄った。
「お客様、あの、私が弁償しますから……」
「香奈ちゃんのせいじゃないだろ? わざと嫌がらせする奴が悪いんだ」
「でも……」
 足を出してた女が、真っ赤に染めた唇をゆがめて俺のことを睨みあげた。
 自分の体の線を自慢げに強調した下着みたいな服。デザイナースブランドのアクセサリーとバッグ。服と同色のハイヒール。学校帰りには見えない、どこのお店ですかー? な感じ。
「ちょっと僕? あたしはね、たまたま足が横に出ちゃっただけなの。それに引っかかってコーヒーをかけちゃったのは彼女。ただの事故でしょ? たかが安物のシャツ一枚でぐずぐず言わないでちょうだい。ほら、これで新しいの買えるでしょ?」
 テーブルの上にバンと諭吉を一枚出した。
「ふざけんな。金出しゃいいってもんじゃねぇだろ? あやまれよっ! そんなとこに足出してること自体だらしねーだろが」
「いやーだぁ、この子、こわぁい!」
 甘ったれた鼻声でマスターの方に縋る瞳を向けた。
「マスター、助けてぇ」
 女よりずっと綺麗なマスターが、その瞬間に浮かべた冷笑には俺も凍り付いた。
「香奈ちゃん、そこのテーブル片づけて! お客様、大変申し訳ありませんでした。こちらにおいで下さい。染み抜きをしますから」
 女のことは無視して俺に微笑みかけ、手招きした。シャツが惜しくてクレームを付けた訳じゃないから、かえって後込みしてしまう。
「あ、いいんです。本当に安物なんで」
 マスターたちに謝られても困るから、そう言ったんだけど。
 俺が謝らせたい女だけがフンと鼻を鳴らしたのでムカッとした。
「いいえ。それでは僕の気が済まない。商売上、客を選ぶわけには行きませんのでご迷惑おかけしますが、お客様のようなお得意は大事にしたいんですよ」
 マスターの台詞はしっかりと三人組に聞こえるように発せられたもので。
 香奈ちゃんが片づけを命じられたのは彼女たちのテーブル。
 まだ終わってない物は残して香奈ちゃんはきちんと自分の仕事を終わらせた。
 マスターはおしぼりを二本持って出てきて、俺のシャツを叩き、染み抜きを始めた。やがて俺のシャツから褐色のシミはなくなって。
 『El Loco』は通常の空気を取り戻していた。
 普通は、俺みたいな客一人より、口コミの効く女子大生を大事にするのが当たり前で。商売ってそう言う意味でも大変なんだ。
 でも、マスターはあの客を捨てた。
 香奈ちゃんに露骨に意地悪していた高飛車な女は瞬間ムッとして、悲しそうな顔で出ていった。連れもお供のようにそそくさと。
 困ったように溜息をつく香奈ちゃんは、マスターの指図通りに別の客に料理を持っていった。
 で、俺の前にはサンドイッチ。ほかほかのホットサンドだ。
 中身はチキンとベーコン、レタスにトマトソースの色も見える、アメリカンクラブハウスサンドってやつ。
「お詫びに用意させていただきましたので召し上がって下さい」
「あ、俺、そんなつもりで言ったんじゃ……。染み抜きもしてもらったし、もう……」
 でも、美味そう。横目でちらりとサンドを見た。
「君がいらなければ、この料理は捨てなければならない。食べてもらえませんか?」
 捨てると言われては……。もったいないじゃないか。
「あ……じゃ、じゃあ……いただきます」
 貧乏性の俺は美味そうなサンドを一つ手に取った。
 クスリと笑い声が聞こえた気がした。
 振り返っても香奈ちゃんが他の客に給仕してる後ろ姿だけ。客は既に顔見知りの初日に並んだ仲間。一人はサラリーマン。一人は同じ商店街の電気屋の親父。どちらもクスッと笑うようなタイプじゃなくて……。でも、男の声だったんだ。
「……!」
 怪訝に思いながらも口にしたサンドイッチは考えを吹き飛ばすほど美味かった。
 残りは遠慮の気持ちなんてどっかに置き去りにしてたいらげた。
 えーん、美味しい、美味しい、美味しいよぉっ。
 ああ、捨てさせないでよかったぁ……。
「ごちそうさま!」
 顔を上げたら即座にマスターの金色の視線とかち合ったけど。
 怖いとも思わず、感動のままにマスターに笑いかけてしまった。
 瞬間目をぱちくりさせてから、マスターはパッと花が咲いたように微笑んだ。
「すごく幸せそうに食べるんですね」
 後ろから囁いてきたのは香奈ちゃん。振り返れば相変わらず派手な化粧で、ニコニコしてる。もしかしたら素顔の方が可愛いかも知れないって思った。その可愛い香奈ちゃんが、俺のことを観察していたんだって知って、顔に血が上るのを押さえられなかった。
 つるんと手のひらでなでて、表情を隠したつもり。
「え? そ、そうですか?」
 俺、食いしん坊だから、そう見えるんだろうか。
「香奈ちゃん!」
 低いけどよく響く声で割り込んできたのはマスター。香奈ちゃんは肩を竦めて仕事に戻った。
「……でも、本当にいい表情をする……」
 は? と顔を上げた。溜息をつくような声音だったので。
 穏やかな目の色なのに、視線をとらえた途端に金色に輝いて。マスターはただ綺麗なんじゃないって思った。
「こういう仕事って、お客のそういう表情を見るのが楽しみなんだよ」
「へぇ……」
 マスターはどう見たって二十四、五だ。それなのに、落ち着いちゃって、枯れ方を身につけてるような雰囲気があって。妙にその言葉は説得力があった。
「なーんか、マスターって人生経験豊富って感じだね」
「そう見える?」
「うん。頼りになるお兄さんって感じ。」
「はは、お兄さん……ね」
 俺なんかにお兄さんなんて呼ばれるの、迷惑なのかな。苦笑いが空虚に響いたのが少し悲しかった。
 
 
 『El Loco』が開店して三週間目。初めに貰ったコーヒー回数券が終わる日。十五枚もあったんだけど、後半は毎晩のようにコーヒー飲んでたから。飯はそうそう食えないけど、いくつかのメニューはもう試していた。
 どこまでも俺好みの味で、本当なら毎日毎食食べていたいくらい。
 綴りの最後をちぎったとき、なんだか悲しくなってしまったくらいだ。もう気軽に来られなくなるなぁって。
「すっかり常連さんね」
 香奈ちゃんが声かけてきたときには変な感慨に耽っている最中だったんで、つい言っちゃった。
「それも今日で終わりなんだ」
「あら?」
「俺が毎日こなくても、俺の顔、忘れないでいてくれるかなぁ」
「金の切れ目ならぬチケットの切れ目?」
「ま、そういうこと」
 はあ、と溜息。なんだか貧乏くさいかな。でもさ、俺の生活、かなりエンゲル係数高くなってるんだわ。別に、必要以上に食べてるわけじゃないけど、毎日外食にしてると結構金かかるよな。毎月振り込まれる金は、特に連絡を入れない限り決まっていて、額もぎりぎり。俺が志望校である早光大医学部に合格すれば、入学時に偉い散財することになるのは決定事項。だから、切りつめ生活は俺のためなんだ。
「マスター、彼、回数券終わっちゃうって。脚が遠のいちゃいますよ。新しいのあげないでいいの?」
 マスターは片眉を上げて俺たちの方を見た。俺は縮こまって身を竦めた。
「わ、そんなこと言わないでよ」
 まるで、また回数券欲しがってるみたいじゃないか。
「……大丈夫、毎日来なくても、お客様第一号の顔は忘れやしないよ」
 口調は穏やかだったけど、香奈ちゃんを睨み付けて。余計なこと言うなってことだろう。
 いつまでもタダのコーヒー飲みに来るばっかの客をかまってられないよね。
 俺はちょっと世を拗ねた気分になっていた。
 だから、マスターの優美な指先がひらりと俺の目の前に舞い降りてきたときは、え? って驚いた。
「今度はお得意さまカード。誕生日とかで特典もあるから。嫌じゃなかったら、この登録カードに記入して」
 なんて、登録カードを渡された。誕生日と簡単な住所、氏名を書く欄がある。
「へえ、いいね」
 俺は即座に渡されたボールペンで名前を書いた。
 無料よりも気楽だ。なんだか、タダで貰った回数券を出す度に心苦しく感じていたんで。
「……向坂拓斗って言うの? 誕生日が十二月二十日……射手座なんだ……」
 香奈ちゃんが横から覗き込んで読み上げるものだから、恥ずかしくなって俺の顔に血が上った。
「ちょっと、声出して読むのやめてよ」
「いいじゃない? 血液型は?」
「……O型。なんで?」
「魚座と相性、よくないのよねぇ」
「魚座?」
 誰が魚座なのか教えてくれないで、うふふと香奈ちゃんは笑った。
 横で黙っていたマスターは、すっと記入済みの登録カードを取り上げると、ハンコをためる三つ折りのカードをくれた。
「十個でコーヒー。二十個でデザート、三十個で食事が無料になるんだよ」
「ふうん。また楽しみが増えたな」
「五〇〇円で一個だから、コーヒー一杯だと貯まらないわよ」
「なんだ、そうなの?」
 ちょっとがっかり。俺はコーヒー一杯っていうことが多いから。
「やだな、来店の度に一個は保証だよ。それ以上が五〇〇円ごとだってば」
 慌てて言い足すマスターをツンと睨みあげた香奈ちゃんは、なんだかいつもよりご機嫌斜めだ。
「他のお客も?」
「ああ。他の客もだ」
 香奈ちゃんのつっこみに、ムッとしたようにマスターが応えて。雰囲気が少しささくれてた。
 喧嘩したのかなぁ。
「あ、じゃ、ごちそうさま」
 レジも終えたし、俺はそう言い置いて店を出た。
 
 
 女の子の肌が露わになる季節ってのは、暑くなるのが早いほど早くて。今年の梅雨明けは早いなんてテレビでも言われてたし、実際道ですれ違う女の子たちの服装は刺激的。時折目のやり場に困ることもある。
 学校帰りに本屋に寄った俺は、一際刺激的な服に目を奪われた。ぴったりした上に、背中を大きく開けた綿ジャージ系のミニワンピ。色がオレンジとショッキングピンクと黄色の取り合わせで大きな花模様で、ベルトとバッグとストッキングが黄緑。うわ、靴もだ。
 髪の毛は……真オレンジ。
 形以前にその派手な色合いで目を奪われたんだけど、まっすぐな細い足も大きく出た肩から腕も綺麗。胸はないけど、スレンダーさが目に心地よいから気にならない。
 すれ違いかけて顧みた俺とかち合った目は、明るい紫色。多分色コンタクトだ。
 って、この顔、俺知ってるよ。
「香奈ちゃん?」
「あ!」
 立ち止まってニコッ。……てのが結構可愛い。
「何、今日は買い物? 『El Loco』は?」
「今日はおやすみ」
 うふふと笑って小首を傾げて。
「学校の帰り?」
 なんて聞いてきて。
「うん。ちょっと参考書あさりにね」
「ああ、受験生なんだっけね」
「拓斗ぉ!」
 香奈ちゃんが続けて何か言おうとした時に、背後から遮るように聞こえてきた俺の名。慌てて振り返った。怒った顔してズンズンこっちに向かってくるのは亜紀美。今年の春から付き合いだした俺の彼女なんだ。
 好きだなんて言われて、ちょっと有頂天になってたんだよ俺。どうせ、これっていう好きな子いなかったし。付き合ってみようかなんて思って。だって、付き合って見なきゃ、わかんないよな。今まで別のクラスだった子なんて。
 それで、今も続いてるんだから、俺達まあまあなんじゃないだろか。
 けど、今の今まで連れがいること思い出さなくて、ちょっとあせった。
「彼女?」
 耳元にクスクス笑いと一緒に吹き込まれて飛び上がる。
 いつもは俺より少し低めの背丈の香奈ちゃんの顔が俺の目線より上にあった。最低でも十五センチは背を高く見せるポックリ靴をはいてたんだ。
「拓斗、その人誰?」
 今風に整えられた眉をキュッとひそめて亜紀美が睨んでくる。
「あ、ほら、俺の近所に出来た美味いコーヒー出す店。言っただろ? そこの人。香奈ちゃん、これ、亜紀美。俺の彼女」
 とりあえずは俺の紹介に満足したらしい亜紀美は、ピトッと俺の横に張り付いた。俺より背の高い美人を見上げてつーんと鼻先を上に向けて。
「ふうん」
「よろしく、亜紀美ちゃん」
 会釈もろくにしない亜紀美の品定めの目つきは、結構露骨に点辛くつけてるって感じだった。でも、香奈ちゃんはニコニコしてて。
「可愛い子ね。今度お店に連れてらっしゃいよ」
 なんて言って、余裕かましてる。亜紀美の鼻息が荒くなりそうな予感が、俺を暇乞いに走らせた。
「あ、じゃ、俺たち、急いでるから」
「あらら。じゃーまたねー」
 亜紀美の手を引っ張って駆け出した。
「拓斗? 急にどうしたのよ」
 まだこっち見てるかなって思って振り返ったら、香奈ちゃんの派手な後ろ姿は長身の背中と一緒に小さくなっていった。あの長身……長くて後ろに束ねてある金髪みたいな髪……。くるっとそれが振り返って、金色の瞳が瞬間俺を刺し貫いた気がした。やっぱりマスターだ。すぐまた背を向けてしまったから、俺のこと気づかなかったんだろう。だから、ズキッときたのもきっと気のせい。
 何だ、マスターと一緒だったんだ……。
 やっぱりなって少し寂しくなった。休みの日に二人で買い物って……デートじゃん。
 なんでだろ。
 俺は自分が彼女連れのくせに、二人の後ろ姿が羨ましかったんだ。
「なぁに? あの変な人ぉー。オカマみたい。でかくて、めちゃくちゃ厚化粧じゃない? あーんな人目当てに店通ってんの?」
「え、違うよ。だから、いったでしょ。コーヒーもケーキも、すっげー美味いんだって」
「ほんとにー?」
「ほんとだよ。それにあの子、マスターの彼女かも知れない」
「そうなの?」
 疑り深そうに見るなよ〜。
「そうだってば」
「拓斗ぉ、今日どうする?」
「亜紀美、参考書買ったのか?」
「ううん。いいの見つからなかった。ねえ、お茶しよーよー」
 亜紀美が俺の腕を抱きしめてきた。柔らかい感触……胸……だよな。
 ドクンと熱が走って慌てた。
 亜紀美は時々無邪気にこういう事して来るんだけど。ちょっと困る。一応、定期的に自家発電なんかで手を打ってるけど、やっぱおれも若い男ってやつで。くっちまうぞって怒りたくなるときもあるんだ。
「よせよ」
 くそっ顔が熱いよ。
 そう、俺達清い交際してます。俺は医学部受験ていう大きな目標あるし。自制がきかなくなるのが怖くて極力その気になるようなシチュエーションは避けてるんだ。つまり童貞。よく聞く話では、経験しちゃうと我慢しにくくなるって話だから。
 亜紀美はぷうっと膨れてまた俺を睨んできた。
「……拓斗って、あたしのことほんとに好き?」
「何だよ急に。嫌いなら付き合ってないって」
「あの子よりあたしのこと好き?」
「……ああ」
 悪い、亜紀美。(多分)を付け加えさせて。
 本当はね、こういううざったいこといわれるのは好きじゃない。
「今度そのお店、連れてってね」
「ああ……」
 俺んちに来るときでもなければそんなチャンス無いわけだけど……。自分の部屋に連れ込むってのは今の俺にはやばいんだよなぁ。歯止めになる要素がなさすぎるから。
 
 
 それから一週間後。
 親父からの振り込みを待って生活費を引き出してから、俺は『El Loco』に直行した。
 カウンターの向こうで、相変わらず美しいマスターが、人間であることを主張するように微笑んでいた。たとえて言えば、白いバラ。あでやかで、でも赤ほど妖しくなく、清潔な色気……っていうのかな。高貴な感じ。広い肩幅を覆う真っ白なシャツと、それに負けない白さの肌が、幾重にも重なった花びらを思わせる。まさしく大輪のバラ。
「やあ、いらっしゃい」
 穏やかで柔らかい声は、低くて深みのある音として耳に響く。優しい声だなぁ。
 でも、今日は何か変。
「あれ……?」
「え?」
 そうだ。マスターの声に重なるハスキーボイスの『いらっしゃいませ〜』(注・ハート付き)が無い。静かな中で、マスターの声だけしっかり聞くの、初めてかも知れない。
「香奈ちゃん。休み?」
「……辞めちゃったんだ」
「へ……え……」
 あんまり寂しそうに微笑むから、どうして? とも聞けずにいた。別れちゃったって事かなぁ。
「……新しい人、雇わないの?」
「なかなかいなくて。そうだ、君、バイトしない?」
 あちゃ。去年までなら二つ返事でOKだったんですが。
「あー、俺、受験で。結構志望校きついとこ狙ってるから……」
 マスターの瞳がちょっと暗くなった。何気なくついでのように言った割には偉くでかい溜息ついてくれちゃって。
「ああ、そうだね。目標あるんじゃ……余裕無いね」
 断って悪かったかなぁ。でも、ほんと余裕ないし。
「第一、俺じゃ香奈ちゃんの代わりつとまらないじゃない?」
「どうして?」
「看板娘。まあ、マスターがいれば大丈夫だろうけどさ」
「なんで?」
「結構ラブレターとか貰うでしょ? お客さんから誘われない?」
「ああ、まあ、少しはね」
「なーんて、謙遜もあんまりすると嫌みだなぁ。結構冷たくあしらっててさ。俺、知ってるよ。女の子泣かしてるじゃない?」
 半ばからかうつもりでそう言った。マスターは瞬間眉をひそめ、苦笑して。
「……こまったな。僕だって、好きな人くらいいるんだよ……」
 悲しそうな物言いは、なんだかすごく切なく響いた。
「ああ、そっか。そ……だよね」
 別れたにしたって、すぐ別のなんて考えられないよな。俺って、軽率だ。
「……君は?」
「あ?」
「好きな人……いるんでしょ?」
「……。彼女は一応いるよ」
「一応?」
「告白されるまで、その子の存在知らなかったんだ。で、別に嫌いじゃないから付き合ってる。遊びに行ったり食事したり……。ただね。なんて言うか……、どこまで本気で好きかって聞かれたら、まだよくわかんなくて」
「未だに瀬踏み状態?」
「うん。相手のことよく知らなきゃね」
「適当に遊んじゃおうとか思わないの?」
「うーん。でも、女の子って、いろいろ大変でしょ? 俺、妹いるから、重ねて考えちゃうんだ。妹が遊ばれて傷ついたら、やっぱり頭来ると思うし」
「まじめだなぁ」
 マスターは呆れた口調で言ってたけど、嫌みではなかった。
「……時々ね。やばいって時ある。いきなり犯りたいって思ったりしてさ。そういうの、まずいよね。どう考えても、性欲だけの反応だからさ」
「しょうがないな、若い中は。この世で一番嫌らしい奴は自分かもって思って落ち込んだりした時なかった?」
「あはは。中学ん時思ってた。Hな夢ばっかみて」
「誰でもたいていはそうなるんだって」
「うん。俺はね、部活でくたくたになるまでトレーニングしてやり過ごしちゃった」
「僕もだよ。部活って何?」
「陸上。400メートルとかの中距離やってる。もう引退だけどね」
「へえ……。そういえば、肉付きがそんな感じ……だね」
 って、ああ、俺、今日は短パンだったっけ。例年にない真夏日ってのでめちゃ暑かったから。上はタンクトップだけで、これから走るのか? って格好。
「分かるの?」
「長距離の人って、余分な筋肉は重荷になるから痩せてるでしょ。短距離は逆にスピード重視だから、無酸素運動の爆発的なエネルギーのために筋肉たっぷりで。中距離はどっちも必要だから、適度にパワーと持久力持った別タイプの筋肉が程良くつくわけ。でしょ?」
「詳しいんだね。マスターも陸上だったの?」
 俺が尊敬の眼で見てたからか、くすぐったそうに笑った。
「いや。中学、高校では剣道部。他に幾つか道場回った。少林拳とか、テコンドーとか合気道とか……。大学で運動生理学を少し習ったんだ……」
「へえ……」
 武道……ねぇ……。全然似合わない、なんて言ったら怒るだろうなぁ。
 でもさ、武道って、荒くれな感じするじゃないか。偏見かも知れないけど、戦うことと無縁に見える優しげなマスターが、武道を幾つもやってたって……なんか不思議だね。
「……一応有段者だから、喧嘩は御法度。凶器持ったことにされちゃうからね。精神的にも結構鍛えられたんだ。これでもやる時はやるんだよ」
 うっわぁ。俺、また露骨に顔に出てた?
 苦笑混じりに言われて、顔にデカデカとイメージ合わないって書いてたのに気づいた。
「あは、あはは。ごめんなさい。マスター穏和そうだから、なんか……ね。試合とか出てた?」
「うん、たまに。……たいしたことないけど」
 強くてこの美貌だったら、女の子達がほっとかなくてスターだよな。きっと、目立たないランクだったんだ。
「俺はね、インターハイ出たんだよ。決勝まで行けなかったけど」
 これしか自慢できないってのもちょっと悲しいが。俺のタイム、結構いい線行ってた。でも、年齢的にハンデありだ。二年留年してるから、年齢制限に引っかかっちゃって。一年の時しか出てない。小さな試合とかは一緒に走らせて貰って、トレーニングもがっちりやってたのは自分のため。
 先生との取り決めで、俺が自主的に試合は辞退したことになってる。留年を宣伝したくなかったんだ。
「この夏合宿付き合ったら引退なんだ。選手はとうに引退したし」
「何だ。試合あったら応援に行こうと思ってたのに……」
「だめだめ。試合にならなくなっちゃう。マスターのとこに女の子群がっちゃって」
「そんなことないって」
 あるんだな。店見れば分かる。日増しに増えていく女性客。たいていは常連化して……。マスターは女の子全般に愛想なしにしてる位なんだけど、それがまたいいって。見るからに高嶺の花過ぎるから、愛想なしゆえに安心してミーハー出来るんだそうで、キャピキャピうるさいくらい。だから最近の俺は閉店間際を狙ってることが多い。休みの日は開店してすぐくらいとか。近所の女子大生やOLさん達が集まる時間は避けてるんだ。
 香奈ちゃんが辞めたって事は、コーヒーかけられる心配ないけど、よけい落ち着かないだろう。マスターと話してると、俺までからかいの対象になるんだよね。
「もしかして、客のいなさそうな時間を狙ってた?」
「……ま、ね。おネーさん達って、結構きわどい事言うでしょ。ちょっと苦手なんだ」
「やっぱり。実を言うと、困ってるんだよね。ほら、君と一緒に並んでたお客さん達が、苦笑混じりに最近すごいねぇなんて言ってくれちゃって。僕のコーヒーが好きで来てくれる人たちを大事にしたいのに」
「マスター目当てってのが心外?」
「うん。腕で客呼べなきゃしょうがない」
「十分腕で呼べるよ。その人達だって、文句言いながらも通って来るんだろう? 俺みたいに」
「コーヒー何度もかけられても来てくれるのなんて、君くらいだ。感謝してる」
「俺、マスターのコーヒーの虜だもん。どうしたらこんな美味しく煎れらるの?」
「企業秘密。って言いたいとこだけど。説明できない。勘でやってるから」
「勘……?」
 ほんとかよぉ。要するにセンスって事か。それじゃ真似できない。
「強いて言うなら、美味しい顔を見たいって願いながら煎れてることくらい……かな」
「うん。そういうのが大事なのかもね」
 マスターがニコオッと嬉しそうに微笑んだ。
「分かって貰えると嬉しい」
 プライド、高いんだなぁ。
 マスターにとって、容姿は邪魔なんだ。
 商売なんだから、客は客なんだけどね。気持ち的にはそういうこだわりあるんだよね。
「ところで、注文、まだ聞いてなかった。ブレンド?」
「いや、今日はマンデリンとモカの七対三を煎れて」
「何かいいことあった?」
「分かるの?」
「君がその配分選ぶ時って、いつもご機嫌だから。君のご機嫌ブレンド……でしょ?」
「わはは。かなわねー。模試がね、思ったより出来よくて。合格予測の率が上がったんだ。まだまだだけど、一つステップアップの気分で」
「なるほど」
「生活費の振り込みもあって懐もあったか。……俺、にやけてた?」
「いや。気分が弾んでるって感じ。入ってきたときから。……そうか、模試ね……。頑張ってるんだな」
「まあね。あ、今日は飯も注文させて。自分へのご褒美なんだ」
「うちの料理がご褒美? それじゃ、腕ふるわなきゃね。何食べる?」
「あー。そうだなあ。キーマカレーとフルーツサラダ」
「了解」
 マスターは、奥の冷蔵庫に行くと包みを幾つか持ってきた。俺の分のカレーとサフランライスだろう。実を言うと、注文を受けてからゆでるスパゲティや全部作るサンドイッチ系は、あんまり頼まないようにしてる。
 俺は、初めてこの店で座った椅子を定位置にしてるんだけど、そこからだと彼の動きが逐一見えるんだ。この店のメニューはどれも美味しくて大好きだけど、忙しい彼に余分な仕事を増やさせたくないって思ってしまうほど、コマネズミのように動く。手だって、神業か? って言うほど素早くてきぱき仕事をこなすわけで。ウエイトレスが居なくなったのに、あまり客を待たせない。マスターだけ、時間の流れが違うんじゃないかって思うほどだ。客によっては、にわかウエイトレスになってカウンターまで取りに来ちゃう人もいるけど、マスターはお礼を言いながらも実は喜んでないみたい。
 洗い物は食器洗い機を常用。もちろんヘビーな汚れは落としてから。
 冷凍しても味の再現性の高いものは、みんな一人分ずつわけて保存してあるらしい。レンジでチンしたりオーブンで焼いたりして、綺麗に盛りつける料理は、結構素早い仕上がりだ。ただし、サラダ系はやはり注文を受けてから作ってる。生ものだからだそうだ。ま、味を左右するドレッシングはまとめて作っておけるらしいから大丈夫だけど。
「君は、パスタ類とか嫌いなの?」
「え? 嫌いじゃないよ」
「うちでは注文したこと無いね。見た目で魅力無い?」
「いや、美味そうだよ。十分」
 リサーチって奴か?
 急にどうしたんだろうと思いながら、素直に応えていた俺は、急にパッと答えが頭に浮かんで苦笑いしてしまった。
「……サンドイッチもあんまり頼まないようにしてるでしょ。気を使ってくれなくてもいいんだよ。お客は好きなもの注文する権利があるんだから」
「やだな。考えすぎだよ。ごはん系の方が、腹持ちいいからだって」
「……それならいいんだけど……」
 浮かない顔で言われて溜息が出た。
「マスターの作る物は、みんな美味しいと思う。俺だけじゃなく、客みんなが美味しい顔、するでしょ? リピーターも多いじゃないか。自信持ってよ」
「……うん……」
 俺、何かいけないことを言っただろうか。マスターの眉が歪められて、瞳が金色に輝いた。少し潤んだ結果だ。
 つまり俺の言った何かが彼を悲しい気分にさせたってことで……。
「あの。ごめん、何かヤなこと言っちゃった?」
 ぶんぶんと頭を振ったマスターは、無理矢理笑おうとした。
「嬉しいこと言ってくれるから……。ちょっと感動しちゃった」
 金色の瞳に見据えられた俺は、つい、コーヒーカップに目を落とした。
「…………君の恋人になれる人は幸せだろうな」
「……え?」
 何でそんなこと言うんだろう……。
「君から特別な元気をいっぱい貰えるんだろうから」
「……それって、俺が何か言った結果? だったら、恋人とか関係ないと思うけど?」
「恋人なら、いっぱいチャンスがあるじゃないか」
「そうかなぁ」
 そうは思わないけど。現に、俺の彼女である亜紀美は、そんな風に思ったこと無いだろうと思う。
「……俺は言いたいこと言うだけだもん。それでどう反応するかは聞いた人次第だろ?」
「……まあ、そうだけど」
「俺から見れば、マスターとこうして喋るの、結構救いだったりして」
「なんで?」
「俺、今年の春からいきなり一人暮らしでさ。海外赴任の親父に母親も妹も付いてっちゃって。俺だけ受験だからって残されたんだ。一人って気楽だと思ってたんだけど……」
「ただいまを言う相手が居ない? 生活費ってそういうことか……」
「学校以外の話し相手も、いたほうがうれしい。迷惑かも知れないけど」
「そういうのも仕事だから。迷惑なんかじゃないよ。愚痴ってくれてもOK」
「ほんと? 俺、本気にしちゃうよ?」
「うんいいよ。本気でも」
 にっこり微笑まれてドキッとした。男なのになんだか……、そう、色っぽいって言う表現がぴったりの微笑みで。
 甘えちゃってもいいのかなぁ。仕事の範囲って本当だろうか。
 今度の誕生日で二十歳になろうって男が、お兄さんが欲しいってのも変な話だけど……。俺の社会生活に差し支えのないところで愚痴れる相手が居たら嬉しいなぁ。
 付き合ってる女には愚痴れない。亜紀美が聞いてくれないだろうっていう以前に、俺の中でそれは出来ないことに分類されている。
 プライド……、見栄?
 とにかく女によしよしして貰うわけには行かない。かといって、学校の友達にもやっぱり見栄はある。
 じゃあ、何でマスターかって言うと、完全に負けてるからだ。今更見栄張ってもしょうがないだろうという歴然とした差を感じるから。
 まず見た目は勝負にもならないだろ?
 頭だって。この三週間で、どんな客にも合わせられるほど知識が広いのは分かった。記憶力も抜群だけど、洞察力とか推理力とか……とにかくすごいと思ったわけで。
 有段者ってことは腕にもある程度自信があるらしい。
 しかも。穏やかな雰囲気で嫌な顔せず人の話を聞いてくれる。ちゃんと聞いてくれてるから差し挟む言葉も適切だ。
 出来た人だと思う。
 仕事ってことは義務感からしてるのかも知れないけど、それでもいいからお兄さんになって貰いたい、なんてな。
「じゃあ、そん時はよろしく!」
 ほくほく気分で俺は払いを済ませて外に出た。
 俺の遠回りの帰宅路は、これで決定だ。
 小遣いの続く限り、『El Loco』に寄ってしまおう。たかがコーヒー、されどコーヒー。元々俺は豆とかも気分で選んで煎れたりする大コーヒー飲みで。B級のマニア……てとこだろうか。そんな俺の目から鱗が落ちるほどの美味さのコーヒーに、愚痴の言えるお兄さん付きとなれば、はまってしまうのは当然だ。
 
 
 『El Loco』は金曜日が定休。学校が休みの土曜は、いつも朝一でコーヒーを飲みに行ってしまう。
 さあドアを開けようというその時。
「たーくとくん!」
 甘ったれたハスキーボイスに、は? と振り向いたら。派手な化粧の、でも可愛い顔が俺を見下ろしていた。またポックリ靴を履いてる。そんなに背の高い女だと、マスターぐらいしか釣り合わないだろうに。
「香奈ちゃん! 何だよ。辞めたんじゃなかったの?」
「あ、もう聞いたの? 今日はお給料取りに来たのよ」
「あ、ああ、そっか」
「残念ねー。あたし目当てに通ってきてるんじゃなかったんだぁ、やっぱり」
 ちょっと拗ねた顔して俺の腕を軽くつねった。
「なんなの? やっぱりって」
「あんなに可愛い彼女が居るのに、マスター目当てなんてダメよぉ」
「何言ってんの? コーヒー目当てに決まってるじゃないか」
 マスター目当てなんて、女子大生じゃあるまいし。男の俺がなんで?
 俺の顔色を読みとった香奈ちゃんは、拍子抜けの体で唇をすぼめた。
「あら、そうなの?」
 言って怪訝そうに眉をひそめ、それからニヤリとした。
 香奈ちゃんて、こんな意地悪な顔をするんだ……。軽いショックを受けて、ぼんやりと紫色の目を見つめた。
「コーヒー目当てならどんどん来てやって。でも、マスターと親しくならない方がいいわよ」
「……なんで?」
 やっぱりお兄さんみたいに思っちゃ迷惑だったのかな……。
「余計な悩みを抱えないですむようにね」
「悩み……?」
「マスターはいい男だけど、いい人じゃないから」
「はあ」
 どうもよく分からん。あれだけの人なら俺から見れば、十分「いい人」なんだけど。
「……とにかく入らない? 拓斗君がそこまで言うんなら、あたしもマスターのコーヒー、飲んでおかなきゃ」
「……飲んだこと無いの?」
「まあね。あれで結構人使い荒くて、飲む暇なんて」
「へえ……」
 ドアを開けながら意外な気分で彼女を見つめた。ずいぶん冷たい言い方だったんだ。
「いらっしゃいま」
 マスターの声が停まったのは香奈ちゃんを見て。
「なんだい? 二人一緒なんて」
「拓斗君とデートなの」
「な、何言って」
 しれっと冗談言った香奈ちゃんにも驚いたけど、マスターはめっちゃ暗い顔になって、店内が暗雲にわかにまき起こりって感じになったのにも焦った。俺はさっさと自分の定番の席に着いたんだけど、香奈ちゃんは隣に陣取ってしまって……。ちょっと、やばい気がする。
 マスターはまだ香奈ちゃんのことが好きなのに、どうして彼女はそんな意地悪をするんだろう。諦めて貰いたいからか?
「これから出掛けるから拓斗君お薦めのコーヒーを飲んでいこうと思って」
「給料取りに来たんじゃないのかい?」
「もちろんそれもあるけどね。ブレンド、下さいな」
 途端に表情を隠してしまったマスターは、黙ってコーヒーを煎れ始めた。
「なんで、あんなこと言うのさ?」
 俺は声を潜めて香奈ちゃんを責めた。彼女はフフンと鼻で笑って、マスターの方を顎でしゃくった。
「面白いじゃない? マスターのあの顔、見た?」
「ひ、人の気持ちをそんな風に弄ぶなんていけないよ」
 香奈ちゃんはすっごくいやそうな顔になってプイッとむくれた。
「あの人は少しそういうのを経験した方がいいの!」
「そんな……」
「自分が誘えば靡かない人なんていないと思ってるんだから。誰もが思い通りになるわけじゃないって思い知ればいいんだ」
 暗い目をして低く呟かれる台詞は、俺がくちばし突っ込める雰囲気ではなかった。
「香奈ちゃん……?」
 何があったんだろう、二人の間で。俺はつっこんで聞けるわけもなく当て馬をやらされて、気まずいままにコーヒーを飲んだ。
 
 
「……香奈ちゃん……元気かなぁ」
 最後の客を送り出した後。
 翌日の開店一周年を祝って配る記念品の用意をしながら、何の気なしに口にした台詞がマスターを豹変させた。穏やかで優しい理知的な男から、嫉妬むきだしの美獣に。
「なんだい、急に」
 エプロンをはずしてツカツカと俺の方へ近づいてきたマスターは、すっと目を細めて俺を睨みおろした。俺が頭の中で他の女を思い浮かべるのも許せないのかな。
「今、何考えててそんな台詞が出たのかな? 言わなきゃ放してあげない」
 ガシッと抱き込まれて、まだ窓の鎧戸を閉めていないのを目で必死に合図した。外から抱き合ってる所が丸見えになる。いくら何でもやばいだろう。別に、俺たちの関係を隠そうとは、もう考えていないけど。夜、外から丸見えの所では、客の入りに影響しそうで……。
「……言うから、窓、閉めて」
 片眉を上げた彼は、俺を片腕で抱きしめたまま、もう片方をのばして鎧戸を閉めて回った。
 桂川龍樹さん。一九〇センチの長身とギリシャ彫刻のような整った美貌を持つ。料理が上手くて、愛情も嫉妬も深い俺の恋人。男同士で馬鹿言うなって彼の親には言われてるけど、一生を共にしようって誓い合った仲だ。出逢って一年、恋人になって……まだ三ヶ月近く。
 俺の恋人はすごい焼き餅焼き。俺が男女を問わず他人と仲良くしている所を見る度俺を放すまいとする。
 セックスの回数が増えたり、門限を早めようとしたり……キスや愛撫をねだるときもあるし、喧嘩ふっかけてくるときもある。所かまわずやりたがって抑えるの大変なんだ。
 見た目も頭も極上で、冷静でいればとっても理知的で優しい上に、最近分かったところでは金持ちで腕もある外科医だったりもして。しかも忠実。
 選り取りみどりの恋人を選べるはずが、一つも勝ち目のない俺みたいなただの男にぞっこんてのはある意味よくしたものかも。
 彼の場合は全部極上でそろえたはずが、その分恋愛に関してツケが回ってるらしい。だから俺なんかに引っかかって、いつも泣かされてるわけだ。惚れた弱み全開って感じに。
 人間どっかに落とし穴があるもんだよなぁ。
 おっと、嫉妬深くて絶倫スケベってのも落とし穴に入ってるか。
 とにかく今日の場合は、俺の頭の中でのことだから、持っていきようでどうにでもなりそうだった。
「明日は俺たちが初めて会った日だろ。開店一周年てことは。それで香奈ちゃんのことも思い出しちゃった」
「……香奈に惚れてたのか?」
「っ! 違うよっ! ……俺なんか、相手にされなかったもん」
「そういえば香奈が辞めたって言ったら、ずいぶん残念そうにしてたな」
「なっ。俺は龍樹さんがあんまり寂しそうに言うから……。龍樹さんと香奈ちゃん別れたんだって……それで辛いんだって思って……」
「僕と香奈?」
 ものすごーく下手な冗談を言われたって顔で不思議そうに見つめられて、俺はなんだか腑に落ちなくて。
「だって……。あの頃は龍樹さんがゲイだなんて知らなかったし、ほんとに辛そうだったじゃないか」
 龍樹さんは、なんでだろう? と考え込んで、やがてぽんと手を打った。
「……君が香奈目当てだったんだって思うと悲しくなってさ。君に片思いの僕からしてみれば辛い出来事だよ」
「うっ」
「香奈と二人で店に入って来たときは、必死に我慢したけど、泣き出したかった。デートだって言ってただろう?」
 そ、そうだったのかぁ!
 あの時の俺は、全く違う捉え方していたんだ。
「……香奈に会いたい?」
「いや、別に……」
「会いたければ新宿二丁目に行けば会える」
「え?」
「ゲイ・バー『エリザベス』でホステスしてる」
「ゲイ……バー?」
「香奈は源氏名で、本名は板橋香一郎」
「ぶっ」
 それってつまり……香奈ちゃんて……男?
 それじゃ、俺の思いこみも圏内じゃないか。
「龍樹さん、あの……」
「ま、会っても君は振られるけどね。香奈って、ストレートなんだ」
「はあ? それでもそういうとこ……勤めてるの?」
「女性的な自分の容姿を最大限に利用してるんだろう。金になるから頑張るってわけ。この店を手伝いに来てもらうのにも給料だけじゃ足りなくて、女子大生を餌にしたんだ」
「はあ……」
 俺は呆れてものが言えないって感じだった。香奈ちゃんの女っぷりは完璧だった。香奈ちゃんに意地悪していた女たちだって、嫉妬でそう言う行動に出たんだろう。憧れのマスターに一番近い女をけ落とすために。
「香奈は、嫌がらせされても怒らなかったろう? 女子大生にちょっかい出されるのを楽しんでたよ。ちょっとマゾ入ってるよね」
「……じゃ、俺は香奈ちゃんの楽しみの邪魔してたわけ……? なんか間抜けだ……」
「君のそういうところに二度惚れしちゃったんだ。直情型の正義感で、優しくて……、とっても誠実。可愛くて、綺麗で……」
 そのまま何もかもすっ飛ばしてベッドに連れていかれそうなキスをもぎ離すようにして止めた。
「おだてたってだめ。俺が香奈ちゃんのために喧嘩してるとき、面白がってみてたんだよなぁ」
「面白がってなんかいない。素敵だなぁって見とれてた。……怒ってるの? どうしたら許してくれる?」
 オロオロと縋ってくる恋人を虐めてやりたくて、俺は怒っているふりをした。
「ばか……。そういう甘ったるいこと言うのやめなよ」
「拓斗く……ん」
 悲しそうに俺の名を呟く唇をチュッと吸って突き放した。
「店をさっさと閉めて、全部きちんとしたら風呂に来て。一緒に入ったら許してあげるから」
 狭い風呂場への誘いはそのまま、しようという誘いと一緒だ。龍樹さんは急に顔を輝かして大きく頷いた。
「うん!」
 現金だなぁ。
 呆れながらも微笑ましく思ってしまう俺は、既にすっかり彼の虜。
 猛スピードで仕事を済ませようと飛び回ってる彼を後目に風呂の用意をしに行った。
 湯船を綺麗にして新しい湯を入れる。十五分くらいかかるから、その間に二人分のバスローブとタオルを用意した。下着は……どうしようかな。一応出しとくか。
 二人分のパンツを並べて考え込んだ。
 俺のと龍樹さんのとはワンサイズ違う。
 龍樹さんは背が高いし、細身だけど逆三角形のマッチョ体型って事もあって、それなりに身につける物のサイズは大振りだ。俺は……贅肉ないし筋肉もそこそこで、ただの細身。
 彼の男の好みって俺な訳で、つまり細くて適度に筋肉ついてるってのがいいらしい。
 服の上からじゃわかんない感じなんだけど、香奈ちゃんはやっぱり細くて……男に置き換えて考えてみれば、龍樹さんの好みじゃないのかな?
 香奈ちゃんにウエイトレス頼んだのって、口説きの第一歩だったんじゃ……。いや、既に口説いて、香奈ちゃんと喧嘩になったとか……。
「龍樹さんの場合、ストレートってのはとりあえず問題にしないらしいし」
「……問題にするよ。君のことで、どれだけ悩んだか。分かってくれてたんじゃなかったの?」
 後ろから耳元で囁かれて飛び上がった。耳たぶをなぞるように舌の感触。
「ア……」
「なに独りごと言ってたのかな?」
 腰を抱きしめられて、ジーパンの上からワシッとアソコを握られて慌てた。
「うっ……ふ」
「香奈のこと疑ってるんだろう? 悪い子だね。僕をすぐ疑ってかかるんだから……。考えてみて。僕が、香奈が辞めた後ウエイトレスを身内以外で雇わなかった理由」
 ああ、喋りながらうなじに唇這わせるの、止めてくれよ。ゾクゾクしちゃうよ。
「って……?」
「女の子も、ゲイも、プライベートに食い込んでこようとするからだめなんだ。変な期待をしないドライな香奈はうってつけだったんだよ」
「じゃあ、何で辞めたの?」
 龍樹さんの手は、話と全然連動せずに俺のベルトをはずしてパンツのボタンをはじいた。
「ギャラが足りない。女子大生で埋まる店ってのに、どうしても僕が慣れなくてね。つい冷たくしちゃうから、香奈からしてみれば面白くない仕事になっちゃって。もっとも、予想はしてたから、最初から軌道に乗るまでって約束だったのさ。定着して落ち着けば、ペースも決まるでしょ?」
 シャツを引き出されて中に手を入れられて。這い回った熱い手のひらが俺の乳首を見つけるとくるくると転がした。
「あっん……香奈ちゃんは、辞めさせられたって……」
「……今だから言うけど、君にコーヒーかけたりしたの、わざとらしい。僕の気持ちを知っていて君を遠ざけようとしたんだ」
「俺が龍樹さんの毒牙にかからないようにって?」
 そんな揶揄を受けて情けなさそうに困った顔をしながらも、俺が自ら受け入れたという経緯があるから、泣き出しはしない。
「というより、僕への意地悪だと思う」
「そうなのかな? 余計な悩みを抱えないで済むように、龍樹さんとは親しくならないほうがいいって言われたけど……」
「あの野郎ッ!」
「怒らないでよ。過ぎたことでしょ。香奈ちゃんが男でストレートだったら、龍樹さんに嫉妬するの、俺は分かるなぁ」
「どうして?」
「分かってるくせに。俺だってこの野郎って思うときあるくらい、龍樹さんはもてるから」
「そんなこと言われたって困る」
 ホントに困惑げに呟くから笑っちゃう。
「香奈ちゃんとしては可愛くて上出来な人だけども、男としては龍樹さんみたいなのにコンプレックス持っても可笑しくないかもね」
 俺よりも背が低くて華奢な男なら……どうしてもね。
「……そういや、自分が誘えば靡かない人はいないと思ってるけど、誰もが思い通りになるわけじゃないって思い知ればいい……とか言ってたな」
「そんなこと言ってたんだ……」
「俺、てっきり香奈ちゃんが龍樹さんのこと振って、俺を当て馬に諦めさせようとしてるんだと思ってた」
 フッと笑いを含ませた吐息が俺の首筋をなでた。
「あの子は隙あらばって調子で君が彼女と仲良かったとか、いろいろ意地悪を言ってね。僕を落ち込ませようとしたんだ。君の顔見て、声聞くのだけが楽しみだった僕が、そんな人を雇ってはいられないだろう?」
 キュッと乳首をつねられて、息を詰めた。
「……っっ、じゃあ、普通の男、雇えば良かったじゃないか」
 首筋から、はだけた肩に柔らかいキスが降りてきた。ジッパーをおろしてずり落ちたパンツを脚に絡ませたまま、下着の中に入ってきて俺のペニスを弄ぶ手を押しのけようとしたんだけど。断固とした力が抗いを受け付けずにやわやわと俺の力を奪っていく。
「普通の男が、僕と一緒に仕事できると思う?」
「あー。龍樹さんの正体が分かるまでなら……。いや、龍樹さんさえ迫らなければ大丈夫じゃないの?」
「君みたいに逃げないでいてくれる人、少ないんだよ」
「そう……なのかな?」
「……香奈には悪かったけど、防波堤のつもりでもあったんだ。個人的には落ち着かない若い女性客は歓迎しにくいし」
「それで俺みたいな男捕まえようと網張ってたってわけ? 俺、蝶々になった気分だな……。っふ……んんっ」
 体は正直だ。龍樹さんの愛撫で勃ってしまった俺を、更に元気づけるように先っぽを指でにじられて。噛みしめて押さえた口から喘ぎが漏れてしまう。
「網なんて張ったつもり無い。だって、君との出会いは運命だもの」
「……マジで信じてるの?」
 グイッと腰を回されて彼と向き合えば、金色の瞳は真摯な光で俺に素直になってくれと懇願してくる。
「信じてるさ。こんなに好きな人、ただの偶然で会えるなんてあり得ない」
「……だからさ、そういうこそばゆいこと言うの止めてよ」
「止めさせたかったら僕の口を塞げばいい……」
 積極的にふさぎに来た唇を手で押し返した。
「待って。『El Loco』ってどういう意味? 前から聞きたかったんだ」
「……愚か者……」
 はいはい、どうせ俺は愚かです。
 後ろから這い降りて俺の奥の奥を目指す指先の感触に震えながら、抵抗を試みた。
「何拗ねてんの? タロットカードにそういうのがあるんだよ」
「へえ。どうしてそれにしたの?」
「カードの意味が根無し草とか、文字通りの愚か者とか、定職に就かない遊び人とか……目的のつかめない綱渡り人生とか……僕に相応しいからさ」
「……今もそう思ってるの?」
「いや。今の僕は……世界のカードだな。完全な幸福、成功……。何もかも手に入れて幸せだから……。君がいるから。君のために僕の人生はある」
「だから……!」
「おだてでも口説き文句でもない。事実だ」
 真顔で言われて、ノックアウト。
「龍樹さんたら……」
「そろそろ僕の口を塞いでくれないかな……。さもないと口説きのマシンガントークを始めるよ」
 そんな脅し文句で締めくくられて、慌てて彼の口を塞ぎにかかった。
 舌を抉るように入れて、彼の口の中をめいっぱい愛撫しながら、手の方は彼の服を脱がせようとせっせと働いていた。俺の体が彼の素肌を求めていたから。
 出会いの時は怖いと思ったのに、そこに踏み込んでみて、こんなに温かく得難いものに出逢った。
 幸福って、人によって違う。龍樹さんは何でも持っていて、でも、店の名をあんな風に決めるほど孤独だった。
 俺は龍樹さんほどの悲哀を感じたこともないけど。
 ちょっとの間彼と離れていたときの、あの寂しさだけはもう経験したくない。だから今、すごく幸せだと思える。二人でいられることを感謝してる。
 龍樹さんの力強く動悸する大きな分身を引き出し、両手で包んだ。
「う……っああっ」
 龍樹さんの喘ぎが大きくなって俺に降りかかってきた。最初に優しい声だと思ったそれは、今では果てしなく色っぽいものに感じる。
 熱く、硬く、張りつめたこれは、俺達を繋ぐ大事なもの。大切に撫でさすりながら勃起した桜色の乳首にも歯をたてた。
「た、拓斗っ」
 せっぱ詰まった声音は俺と同じ気持ち。
「これ……これが欲しい。早く……欲しい」
 追いつめるように彼を扱いた。
「あっあっ拓斗っ! だめっ、待って。風呂場行こう」
「連れてって……早く……して……」
 もつれ合いながら風呂場に入った。湯気でけぶった小さな部屋。はやる俺の手をそのままに彼は湯船の湯加減を確かめた。
 ひょいと抱き上げられて、俺は仕方なく彼から手を離し、肩にしがみついた。脚は彼の腰を締め付けるように絡ませて。そっと湯船に二人で沈んだ。ザバアッと勢いよく湯が流れ出ていく。
 とっくに満杯になっていたのに、止めるのも忘れて脱衣所で始めてしまったせい。
 キスを繰り返しながら湯の中で後ろをまさぐられ、よじって増やされた指を受け入れた。早く早くと急かすようにひくついてしまう俺のアヌスは、欲しかったものをあてがわれた途端に挿入のリズムに合わせて弛緩と収縮を繰り返した。もとはきつく締めておくところだ。飲み込むのにもコツがいる。彼は俺のリズムを心得ていて、弛緩した瞬間に上手に押し入ってくる。
「ああっあああっ」
 初めての時だって、かなり時間をかけて俺を気遣いながら入れてくれたんだけど、それでも痛かった。涙が出るほど痛かったのに。今はほんの少し苦しいだけで充足感が俺を支配している。
「拓斗……」
 全部入れると、一仕事終わったときのように俺の名を溜息混じりに囁いて。一つに繋がった感激を吐息で伝えてくる。
 ホントの所は、一気に入れてピストン運動して早く出してしまいたいものなんだ。出さないで保たせる努力って、精神的にも体力的にもエネルギー使うって、俺も分かってる。
 我慢に我慢を重ね、イきたい気持ちを別のことで紛らわせてまでそうするのは、最大限の悦びを俺と分かち合うため。俺を気持ちよくするためなんだ。
「動いて……。龍樹さんをもっと感じたい……」
 彼の感じやすい耳元に囁けば、俺の中の彼が更に膨張する。
「はあんっ」
 ビクビクビクッと彼を締め付けてしまった。
 うっと息を詰めた後、ほうっと吐く溜め息は、とてつもなく妖しい。
「ああった……くと……」
「……気持ち……いい?」
「ああ。いい……よ」
 彼が腰を回すように俺の足の間で動くたび、ザバザバと湯が揺れる。
 ゆっくり撫で回すような速度だったり、これ以上は無理というほど加速度をつけたり……、その度にめまぐるしい感覚が俺をかき回す。
「ああっああっんんんっ」
 悲鳴に近い裏返り方の俺の声は、そのまま絶頂への階段を上がり始めてしまった証明で……。
「ああっ、もうダメ……、イクよっ」
 せっぱ詰まってうわずった悲鳴のような宣言と同時の激しい突き上げは、俺を急速に追い上げ……。
「あああああったつ……きっさあああああん」
「拓斗ぉぉぉぉっ」
 きゅうっと抱きしめ合って、互いの体の爆発を受け止めた。この瞬間の充実感は、どう表現したらいいか分からない。言えるのは相手が龍樹さんの時でないとダメだってことだけ。
「ね……龍樹さん」
 心地よい倦怠感に包まれてお互いの肌の温もりを楽しみながら、俺は逞しい恋人の名を呼びかけた。
「なんだい?」
 抱き込みに来た腕にしがみついて一人笑う。
「俺、最初は龍樹さんのことお兄さんみたいに思うって言ったでしょ?」
「ああ」
「龍樹さんに近づきたかったんだ。俺の中で近い立場って言ったら、お兄さんだったから……。こういう関係、思いつかなかったから……」
「いいよ、お兄さんでも」
 微笑みを含ませた声がキスと一緒に降ってきた。
「ダメだよ。龍樹さんは俺のパートナーだもん」
「ありがとう……。大好きだよ、拓斗」
 感動に震えた声はくすぐったい。
「俺もだいだいだいだぁい好き!」
 ぎゅっと抱きしめる体はしなやかで堅い。俺の素敵なパートナー。
(落とし穴があるなんて思ってごめんね、龍樹さん)
 心の中でちょっぴり謝って、笑ってしまった。
 龍樹さんのことを獣呼ばわりしてる俺も、同じスケベな獣だってこと。
(俺達、根っから似たもの夫婦だよね……?)
 俺は龍樹さんの愛撫にとろけていきながら心の中で彼に囁いていた。
 
おしまい
ふりだしに戻る