朝食には花を添えて


 ジューッと言う音が、俺を起こした。
 一緒に、バターの香り。
「今日はオムレツかな?」
 ベッドの中で伸びをしながら独り言。
 起きると朝食が出来てるのって、何となく幸せ。
 程なくコーヒーのいい匂いが漂ってきて、俺は鼻をひくつかせた。
 食い物の匂いに誘われるように身を起こし、パジャマの上を羽織る。
 だぶついた上着は、俺のサイズじゃない。
 長身で肩幅のある恋人のもの。
 初めて夜を一緒に過ごした後、こうして上着だけを借りて着たんだけど。
 彼はそんな俺の格好がえらく気に入ったらしく出来れば着てくれと言うんだな。
 俺としては、なんか女の子みたいじゃんて思うんだけど。
 どうせこうして起きるときに羽織るだけなら、ま、いっかって。
 ……。
 でも、パンツは履いておかなきゃね。
 彼の寝ていた場所のシーツのしわをそっとなでてから、俺はベッドを下りた。
 落ちていた服などは恋人が整理してしまっている。
 俺は向坂拓斗。医学部に通う学生で。マメな恋人は桂川龍樹さん。5つ年上の、男。
 法律上無理とはいえ、一応、結婚式も挙げた仲。
 出会って、恋人同士になってもう2年になるけど。今でもしっかりラブラブだったりする。昨日だって………………。
 思い出しただけで赤面。
「てへ」
 思わず他に誰もいないのに笑ってごまかしたくなっちゃった。
 とにかく下着、下着。
 クロゼットの中の引き出しから俺サイズのブリーフを出して履いた。
 服は……まあ、あとでいいや。
 今日は珍しく二人の休日が重なったんだし。ちょっとだけ怠惰になってやろう。
   
   
   
 そうやって、とりあえずたいした身支度もせずに俺は階下に降りた。
 ごはんだよって起こされる前に。
 食卓まで行くと、恋人はいなかった。
 すでに料理はすべて並び終わってる。
 予想通りオムレツと、ポテトサラダ。彩りはサラダ菜の緑とトマトのクシ切り。
 横にオレンジスライスの載せられたデザート皿と、手作りのクロワッサンが二つ。
 コーヒーは俺好みの深炒りで、それとは別にミルクがコップに半分。
 でも……一人分しかない。
「龍樹さん……?」
 俺は彼の名を呼んだ。
 でも気配がない。
 さっきまで……音、してたのに……?
 その時ガレージの開く音が聞こえた。
 独特のエンジン音の響きが、ショッキングピンクのコルベットで出ていった証拠。
 このコルベット。曰く付きの車で、仕方なく乗ってるんだけど。
 アレに乗ってくって事はマジに急いでたんだよなぁ。
 ガレージに向かう扉の所で、俺はボーっと立っていた。
 恋人において行かれるのって、なんか寂しい。
 特に、休日を一緒に過ごそうなんて思ってた矢先だと。
「ばあか、拓斗。しょうがないだろ?」
 こつんと頭に拳をぶつけて。
 自分で自分を叱ってみる。
 こんな出て行き方の時は理由が決まってる。多分実家。
 龍樹さんの親は新横浜に大きな総合病院を持っている。彼自身、外科医としては凄腕な部類なんだけど。
 本業は喫茶店店主。何でだか医者で居ることが嫌なんだって。
 でも、腕は確かで、知識も半端じゃない。難しい手術とかになると彼の親が頼ってくるのは仕方ないことで。
 時々こんな風に呼び出され、メスを持つことになるんだ。
 免許はあるし、彼の親は彼を非常勤で登録してるはず。
 彼は多分、診療に関わる人間関係が嫌なんだろうと俺は推測してる。
 結構人嫌いな面を持っていて、プライベートでは殻堅いんだよなぁ。
 医者してた時代に患者がストーカーになったりしたこともあるせいかな。
 そんな彼が、俺のことになるとそりゃあもう、甘い甘い砂糖菓子みたいな人になっちゃうんだ。
 だから、今日だって。二人で居れば………………。
 龍樹さんの手はまだ誰かを助けることが出来る。それは俺にとっても嬉しいことで。
 今日、助かる誰かが居るのなら、俺は我慢しなきゃいけなくて。
「つまんねーの。置き手紙くらいおいてけよ」
 一言だけ愚痴って、俺はダイニングに戻った。
 とりあえず、彼の好意は冷めない内に頂こう。
 食べてから今日の過ごし方を考えればいい。
 今からでも誰かを誘って外に出ようかな。
 いや。焼き餅焼きな龍樹さんに知れたら後が大変だし。
 ビデオ……借りてこようか……。
 いつも途中で分け解らなくする人が横にいないときは、ゆっくりじっくり観るべきタイトルがいい。
 ……あ。
 その前に。
 ベッドメイキングだ。
 洗濯と掃除も。
 龍樹さんが帰ってきたとき、びっくりさせてやろう。
 時間があったら、庭も。
 いつもいつも龍樹さんがてきぱきやっちゃうから、こういう時ぐらいは頑張らないとね。
 彼の作った朝食は、いつも通りにおいしかった。
 ふっくらとろーりのオムレツも。ピリッと辛みを含むポテトサラダも。クロワッサンだって、温め直しだけどパリッとおいしい。
 コーヒーは俺を虜にした絶品のグレードを保ってる。
 それでも何かが足りないなって思ったけど。
 それが何かはもう知っている。それを要求するのは俺のわがまま。
 だから、おいしくごちそうさま。
 食器を洗い、片づけてから、俺は二階に戻った。
 ジーパンとシャツを着てから、ベッドのシーツを剥がす。
 じっとり重くなったシーツには、ちょっと赤面。
 新しいシーツを整えて、洗濯物を抱えた。
 ランドリーに昨日使ってた下着とかを見つけ、一緒に洗う。
 洗濯機に主な仕事は任せ、俺は掃除の予定を立てた。
 曜日でどこを掃除するかはだいたい決まってるんだけど。
 今日はイレギュラー。
 目立つところからチェックだ。
「よおし。いくぞ」
 俺は腕まくりをして、玄関から始めた。
  
  
    
 ちょっと遅めの昼飯は結局グラタン。
 なんか、以前にもこうやって店のストックを一人で温めて食べたことあったなぁ。
 あのときも、何か足りなくて。当時はそれがよく分からなかったんだよね。
 自分で入れたコーヒーを飲みながら辺りを見回した。
 元々そんなに散らかってなかった家は片づけてみたら何となく寂しい感じ。
「あのでかい人がいないだけで、すごい空間が余分に感じるなぁ」
 わざと揶揄してみても、なんだか気分が晴れなくて。
 やること無くなっちゃうと、どーっと疲れが出た。
 ビデオ借りに行く気もなくなって、思わずテレビをつけてみる。
 ローカル局で、時代劇が丁度始まるところだった。ざっとザッピングしてみたけど、他もたいした番組がない。
 最初の局に戻すと、かたせ梨乃が、三度笠かぶってる。
 古い作品らしい。珍しいのでそのままつけておいた。
「半身のお紺」……?
 オープニングにお紺の説明が行われた。
 要するにすごく愛した人が悪い奴で彼女を捨てて逃げたんだな。
 自分の半身と思うほどに愛してたから、今の彼女は半身しかないって事で。
 で、彼女は残りの半身としてのそいつを捜してるって筋。
「探してどうするんだろう? 殺すのか?」
 話は途中だし、肝心の相手は直接的なその日の筋には関係なさそう。
 ただ、半身ってのに興味を引かれた。
 俺がお紺だったら……? 相手の男だったら……?
 そんな男でも……半身なのか?
 まあ、半身になっちゃったら欠落部分を探したくなるのは解るけど。
 だって。今の俺がその状態。
 お紺ほどのすごい状況じゃないけどね。
 推測しかできない状態は嫌い。
 疑う訳じゃないけど。
 あの朝食が、彼の愛情を物語ってるけど。
 ……朝食が無くてもいいから一言だけ欲しかったかも。
「俺の半身……早く……帰ってこないかなぁ」
 今日の仕事は難しいのかな。
「……龍樹……さん……」
 コツンとテーブルに額を載せた。
 ひやっと冷たい……。
「でも……気持ちいー」
 そのまま俺は寝ちまったらしい……。
  
  
  
 それに気づいたのは心が求めていたからかも。
 通用口ののがちゃがちゃって音。
 鍵開けてる……。てことは。
「龍樹さん!」
 俺はガタンと椅子を蹴倒しながら立ち上がった。
 ガレージサイドの通用口に走った。
 丁度中に入ってきたコート姿にバフッと飛びつく。
 一歩だけ後ずさって、俺を支えた大きな胸。ちょっとだけドキドキしてる。
 俺の態度だけで、彼は俺の気持ちを察したようだった。
「ああ、拓斗君、ごめん。今朝はあわてちゃって。実家に呼ばれちゃったんだ」
 龍樹さんは、ほんの少し焦った顔でそんな風に言い出した。
 黙ってればギリシャ彫刻みたいな美貌で人を圧倒する彼。人間味を帯びた表情は、俺をホッとさせるけど、美貌を崩すことにもなる。
 それでも俺は彼を美しいって思うんだ。
 冷たい美貌より、暖かい彼の微笑みの方が好き。
「やっぱりね。……何? 事故かなんか?」
 とりあえず、おかえりなさいのキスを贈ると、彼はすまなそうに微笑んだ。
「近くの工事現場で鉄材がなだれたんだって。怪我人の中に頸椎損傷の人がいたから。やり方間違うと下半身不随になっちゃうしね」
 そういや、龍樹さんはその手の手術を何度もこなしてたみたいだったよね。
「電話……何時来たの?」
 俺には聞こえなかった。
 電話の音なんて。
「君はぐっすり寝てたからね。昨日やりすぎたかなって思ってオムレツにしておいたんだけど……」
「だいたい急いでる割に、何で俺の朝食用意してるわけ?」
「作りかけてたし。君が起きたときに何もないのは困るでしょう?」
 う、そりゃそうだけど。
「龍樹さん、自分は食べないで俺の作ってたの?」
 そうだよ。洗い物は俺の分しかなかった。
「そんな顔するなよ。作ってる間につまんだよ。心配しないで」
 俺の頬をひたりとなでると、そっと俺の唇をついばむ。忍んでくる舌に絡め取られ吸われながら、俺は龍樹さんの柔らかい髪を梳くように彼の首にしがみついた。
「お昼は?」
「オペが終わってから軽く食べた。食堂で」
「……夜は?」
 聞きながら俺の腹がグウと鳴った。
「君はまだなんだね」
 微笑みを含んだ声音がチュッとキスの音でとぎれた。
 髪にキスされた。彼の癖。
「何か作ろう。ちゃんとした食事が食べたい」
「……俺も……今日はずっと足りなかった」
 呟いた途端に、龍樹さんがエッと覗き込んできた。
「ご飯、まずかった?」
 心配そうに聞いてくるので笑っちゃう。
 俺は笑いながら頭を振る。
「一つだけ……足りないものがあって。一番大事な調味料なんだよ」
「そ、そう?」
 頭の中で何を入れ損ねたんだろうって検索してるね?
「龍樹さんは……そうじゃないのかな」
「は?」
「俺の物足りなさは……。龍樹さんがいなかったから」
 途端に固まって俺を見下ろす瞳は金色に輝き始めた。
 龍樹さんの、穏やかな琥珀色の瞳は、時々輝きを増して俺を妖しい気分にさせる。
 元々美味しい料理でも、普段からもっと美味しくする隠し味に慣れちゃってる俺としては、この瞳が目の前にないと完璧な満足を得られないんだ。
 食卓の飾り……いや、一番のメインディッシュ。
 それが、この美しい恋人の笑顔。
「明日は、一緒に朝ご飯作ろうね」
「一番の調味料つきでね」
 俺は龍樹さんに、もう一度抱きついた。
 ちょっと照れくさそうな顔が美味しかった。




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