夢を見る獣
樹は溜息をついた。
残暑という言葉の語感は、何ともしんどいものを感じさせる。事実、日が陰るのが早くなったにも関わらず、その光線の威力たるや衰えるどころか増していく一方のように思えるほど直接的に肌をちりちりと焦がしているのだから。
白いシャツなぞ着てこなければよかった、と、樹は思った。
九月の紫外線は、今樹が着ているシャツなぞ無かったかのように、その肌を焼くだろう。
「はあぁぁ」
何度も繰り返される樹の溜息に、忍の苛つくような溜息が重ねられた。
「樹ぃ、いい加減にしろよ。そーんなに嫌なら、一人で帰れよ。いいよ、別につき合ってくれなくても」
拗ねた瞳を樹にくれ、忍は歩調を早めて先に行ってしまった。
樹は溜息の割にやけに元気な足どりで忍の後を追った。
忍が忍のままでそういう表情をするのは、とても珍しい。樹はものすごく特別な気分になっていた。
「すまん、忍、待てよ」
いつもの樹なら、すっと引いて帰ってしまっていただろうから、そういう台詞と一緒に後を追ってきた樹を、忍の好奇の目が迎えた。
その表情を手に入れただけでも、樹には収穫だった。 痛いような忍の視線を、余裕の微笑みで跳ね返せるのも、そういう所以があってこそ。
平日の動物園。
夏休みも終わって閑散としたムードの中、猛暑と人いきれに疲れた動物達が、ぐったりと寝そべっている檻ばかりが目立つ。
「だるそうだな。喰って寝て、喰って寝て、奴等幸せかね」
そんな樹の発言を、軽い溜息混じりの笑みで受け流した忍は、何とも大人っぽい雰囲気を持っていて、樹をドキッとさせた。
学生服を脱ぎ、ほんの少し大人っぽい服装をした忍は、十七の少年ではなく二十歳くらいには見える。
六月に誕生日を迎え、その少し前に過酷な血の洗礼を受けた忍の様子がおかしくなったのは、夏休みに入ってまもなくだった。
まず、あまり食事をしない。ときどき、自分にだけ聞こえるらしい架空の相手に向かって話しかけたりしている。
最近では、お手伝いの澄子も怪訝な顔一つ見せず能面を保っているが、忍の挙動に不信感を抱いているのは確かだった。
忍の両親は相変わらずの無関心で、放任主義を貫いているらしい。現に、出入りの多い樹が彼らと顔を合わせたのは一度、それも、すれ違いざまの挨拶程度なのだ。
樹が忍の家を訪問する時間帯は夜が多い。本当なら、もっと両親と鉢合わせしてもおかしくないはずなのだが。
とにかく澄子は、この忍より年上らしい忍の友人に、最近の忍の変化の原因について探りを入れてきたのだ。
忍が壊れ始めているのは知っていたが、それを澄子に言うわけにはいかないから、樹は思い当たらないと答えておいた。
しかし、食事に関しては少し心配だったので忍に尋ね、その結果が動物園でのデート(?)になってしまった。
忍の心にかかったストレスを考えれば、そういう気分転換もいいかもしれないと、忍の強硬な主張を通してつき合うことにしたのだが。
「ここで、なにがあるんだ? 朝もミルクしか飲んでないくせに、こんな天気の中歩き回ってたら、ぶったおれるぞ」
強い日差しを浴びながら、あてどもなく無言で歩き続ける忍にじれて、樹は尋ねた。
返ってきたのは、うつろな冷たいまなざし。
「幸せじゃないんだ」
「あ?」
「樹、さっき言ったでしょ。幸せかね、って……。奴等、幸せじゃないんだよ。
いつだって、こんな所出て故郷に帰りたいって思ってる。だけど、檻から出たって、自分じゃ生きていけないのも分かってるんだ。だから夢見るのさ。
野性の風の中、誇らしげに走る自分の姿をね」
どうしちまったんだーっ。忍!
樹の顔が、明瞭にそう語っていたためか、忍は投げ遣りな顔のまま笑って見せた。
「聞こえるんだよ。分かるんだ。いろんなものの声…」
忍の瞳に苦渋の濁りを見つけて、樹は眉をひそめた。
忍が動物園で何をしたかったのか、今一理解でき無いながら、けしてつまらない理由ではないらしい。どこかに活路を求めてあがいている忍が、そこには居る。
忍の瞳を見つめながら、樹はそう思った。
「…苦しいのか?」
黙って首を振る忍。
「失言だったな。苦しくたって、素直に言う奴じゃなかったっけ」
ほんの少し苦々しげに言う樹に、いきなり背を向けると忍は走り出した。
「? どうした忍!」
その走りは、遊びでない速度だった。霊界探偵として仕事をするときのような、人並みでない速さ。
樹は、舌打ちしながら忍の後を追った。二人とも、他の動物園の客から見れば、脇を疾風が通り抜けたようにしか見えなかったかもしれない。
園のはずれの、こんもり生い茂った茂みの近くで、忍は急に足を止めた。そんな忍に危うくぶつかりそうになりながら、樹も立ち止まった。
「なっ、どうしたんだよ」
ぼんやりと力無く立ちすくむ忍に揺さぶりをかけると、遠くを見つめたまま、動かない唇から声が漏れた。
「死んだ……」
「誰が? 何言ってんだよ」
樹の問いには答えず、忍は茂みに分け入ってしまった。
「さっきまで、生きていたんだ。助けて! って叫んでた。間に合わなかったな」
足下を見つめながらぼそぼそ言う忍に、樹は背筋に冷たいものが走るのを感じた。前からおかしかったけど、それも魅力だったけど、この忍は何十倍も変。
足下には、ぺしゃんこに潰れ、踏みにじられたトカゲの死骸が一つ。
周りにある靴跡は、小さな子供のもの。
「人間てさ、何の理由もなく殺せちまうんだよな。楽しみの一つとしてね。それが本性なんだよ」
忍はしゃがみ込むと残された靴跡を人差し指でなぞった。
「こんな小さい子供が、平気でやれるんだ。どんな小さい生き物だって、同じ命なのに」
忍は側に穴を掘ると、トカゲを埋めた。死骸に土をかけながら、人間への憎悪を募らせていく様子が、樹には手に取るように分かった。
「俺だって……。
同じなんだよ、人間なんだから……。楽しみで殺せるんだ。カズヤみたいに。
ナルがね…、俺から分離してから能力が強くなったんだ。」
忍は泣き笑いのような表情で樹の方に振り返った。
「ナルの能力は聞くことなんだ。俺も聞こえるけど、ナルは、その辺のダニの声まで聞こえちまう。聞くことしかできないから、無力感を感じるんだ。弱肉強食の断末魔だって、耳を塞ぎたくなるのに、このトカゲみたいな悲鳴を聞いてしまうと、もう、気が狂いそうになるんだよ。だから、あんまり外に出たがらない」
樹は、ただ、忍を抱きしめた。
「心を閉ざせば、少しは聞こえなくなるんじゃないか?」
他にどう言っていいかは樹には分からなかった。
忍の苦痛や悩みが分からないわけではない。だが、何を言ってみても当事者でない樹の言葉は空々しく響くだけのような気がして、やけに小さく見える忍を抱きしめることしかできなかった。
樹の腕に体を預け、忍は自ら樹の胸に頬を押しつけた。忍を抱きしめる腕に力を込め、樹は愛しそうに忍の頭を撫でた。
「俺とナルとヒトシ以外は全然聞こえないらしいから。聞きたくなければ、替わって貰えばいい。
ただね、とっさに飛び込んでくる悲鳴にはなかなか馴れなくて」
新たな固有名詞を聞いて、樹の手が止まった。
ヒトシとは?
だが、尋ねるまでもなく忍の口から情報が漏れた。
「ヒトシって動物や植物が大好きなんだ。だからそういう生き物の声は聞こえるらしい」
「ナルやお前とはどう違うっての?」
忍は樹の腕から抜け出すと、木陰を見つめながら憎々しげに唇を歪めた。
「俺、また人間嫌いになった。俺とナルには、死んだ人間も見えるし、聞こえる。
あいつら、恨み辛みばっかりで、要求ばっかりで……!」
ああ、そうか。
忍やナルの能力は抑制できない限り、自らを滅ぼす方向にしか働かない。
霊にちょっかい出されていたとしたら、ここのところの忍の変化は納得がいく。
「俺は、偽善者なんだって。自分だって、殺して喰ってるのに、命を奪っているのに、他人ばっか責めるのはおかしいって。今も耳元で繰り返してる奴がいる」
忍の澄んだ瞳を濡れさせて、涙が頬を伝った。
樹には、そこにいるのが本当に忍か、それともナルなのか、分からなくなっていた。
忍のままで涙しているとしたら、何とかしてやりたかった。ナルなら、庇ってくれる家族がいるからいい。だが、忍は違う。
樹には、忍の言う霊を除去してやることはできない。見えるものにしかそれをすることは出来ないのだ。
霊は、一種のエネルギー体で、妖怪のような、質量のあるものとは異なるため、樹の能力の範疇外なのだ。
「泣いてないで、気を集めて消しとばせ! 自分を見失うな!捕まるぞっ」
手を出すことをよしとしない自分に満足していたにも関わらず、樹は忍を救おうと必死になっていた。
こいつは俺のものだ、手を出すな!
もしも自分にも手が出せたら、そう叫んでいたかもしれない。
樹の声にハッとしたように、忍の中で誰かに置き換わった。冷静な、人を小馬鹿にしたような余裕の表情が、ミノルの自己主張のようだ。
忍に比べれば、はるかに弱い気だが、常にベストコンディションで臨める冷静さがミノルの長所である。
妖怪を弾きとばすように、ミノルが全身から気を発散させると、その場の空気のよどみが変化した。
「消えた……。それにしても、人間だけは、本当に嫌な奴多いな。死んでまで迷惑かけてくれるんだから」
「忍〜!」
樹がもう一度抱きしめようと一歩踏み出すと、ミノルは飛び退いた。
「おおっと、俺にはそういう趣味無いからね」
「じゃあ、忍に代われ!」
「ダメだね。忍だって、趣味じゃないんだから」
「おまっ、それ、嫌がらせかっ?」
歯がみする樹に微笑みかけるその表情が、肯定していた。
樹は長く大げさな溜息をついた。
「じゃ、お前でもいいや。忍やナルのときも、ちゃんと飯喰うようにさせろ。澄子がうさんくさがってる。喰うとき交代したっていい。忍に死なれちゃ、困るんだ」
やけに真剣な口調のせいか、ミノルの表情が変わった。
「玩具が無くなってしまうからか?」
皮肉な言葉を口にしながらも、少しうれしそうに微笑んだ。
「どう思われたっていい。俺にとっちゃ、忍は特別な存在なんだよ」
それは本当だ。樹にとって、忍は宝物なのだから。余所者に壊されたのではたまらない。
忍を苛めていいのは俺だけなんだから、と、頭の中で呟く。
「……とにかく、声には馴れて貰う。もっと、強くなって貰わなくちゃな」
「ああ、…そうだね」
ミノルが珍しく優しい笑みを浮かべると、忍の表情が抜け落ちた。
周りに先ほどの鳥達が集まり始めた。
「誰?」
樹の問いは、鳥の羽音にかき消された。
やがて、鳥達が忍を取り囲むように静止したとき、現れた忍の顔には、見慣れた忍本来の、大人と子供が同居したような不思議な表情が浮かんでいた。
これこそが俺の忍だ。
眩しそうに手をかざして忍を見つめ、樹は思った。
目があった瞬間、忍は、そのまま凍結してとっておきたいような微笑みを浮かべた。
空気が、少しずつ暖かい温もりを持ち始めている。 忍が人間を憎む理由が、幾つあろうが構わなかった。要は、忍が強く生きてくれればよかった。
壊れたなりに強く。
誰にも傾かず、樹だけを拠り所にしていてくれれば、それでよかった。
樹は、自分の独占欲の強さを自嘲しながら、一歩踏み出して鳥の海をかき分けた。
「そいつらは、何て言ってる?」
忍の唇に触れた鳩に嫉妬しながら、樹は尋ねた。
「西から雨雲が来るから、そろそろ帰った方がいいって。樹のこと、綺麗だけど、怖いってさ」
くすくす笑いながら、忍は樹の手を取った。
手と手が触れた瞬間、樹は電流が走るのを感じた。まるで、子供の恋愛ごっこの様におののきが走る。
忍から、そうしてくるだけで、こんなに反応してしまう自分に改めて驚き、その新鮮さを味わった。
「握り返さないんだね」
忍は気づいてか、わざとと思えるほどの力を込めて樹の手を握った。
お互いの体温が混ざり、融け合い、一体になる。
樹は、ほんのちょっとの間、このまま死んでもいいかも、という想いに駆られた。
寄り添うように脇に立つ忍の発散する体温を感じて、すぐに思い直したが。
「今日は、ご免な。変なことつき合わせて」
忍の素直な眼差しに、樹は言葉を失ったままブンブンと首を横に振った。
「確かめたかったんだ。沢山の声の中に身をおいたら自分がどうなるか。結果、今は、もっと強くなりたいと思う。ちゃんとするからね。学校も行くし、飯もちゃんと食うよ。心配しないでな」
「折り合って行くしかないものな」
忍の手を硬く握り返しながら、樹は自分にも言い聞かせるように呟いた。
鳥達が優雅に舞いながら後を追ってきた。
「大丈夫、帰るから。君達もお帰り」
忍の声に応えるように、一回り旋回すると、鳥達は元来た方に飛び去っていった。
「その能力も、動物とかに限っていえば、いいときもあるな」
「肉が食えなくなるけど…」
「それは、弱肉強食って奴だろう?」
「まあ、そうなんだけどね」
握っていた手が、樹の肩にまわされた。
「いいんだ、何とかなりそうだから。見ていてよ、樹。これからもね」
「ああ」
忍がたった一つの宝物。忍の温もりのためなら、何でも出来そうだ。
(まいったな……。捕まっちゃったよ)
鳥達の飛んでいった空を振り仰ぎながら、樹は心の中でそう呟いた。
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