失楽菜園へようこそ

 茄子の色は、何でだか凄いと思う。
 味噌汁の実にすると、味噌汁全体が黒っぽく色づいてしまうし、仕出し屋の弁当に入っている、ふやけた天ぷらの衣は、まるで水性マジックを滲ませたように青黒く染まっていることもある。
 何となく、食い物に分類したくないような色なものだから、気になるのだろうか。

 

 やんわりとした日差しが入る温室は、少し汗ばむほどに暖かだった。
 作った張本人にもかかわらず、樹がそれほど長居をしたのは初めてだった。
 温室は、ヒトシのテリトリーだからである。
 ヒトシが植物相手に楽しそうに語らっている姿は、端から見れば結構奇異な感じである。
 忍にもその能力はあるはずなのに、そういう姿をあまり目にすることがない。照れや一般常識がじゃまをするのか、ヒトシほど異種族に同化できないのか、それはわからないが。
 ヒトシの役割が確定してからは、忍がそのまま温室に向かうというのは、本当に珍しいことになってしまった。
 元々、忍の頼みだからこそ作ったのであって、樹自身には園芸の趣味はない。
 忍の行かないところには樹も用が無いし、必然的に樹が温室に入ることもなくなっていった。その上、この温室では様々な野菜や果物を作っているのだが、それはおろか、花の一枝でさえ食卓を飾ったことは一度もないのだ。その存在を忘れてしまうほど、遠のいてしまったとしても責められるいわれはないと思う。
 それが。
 突然、ふらりと忍が温室に足を向けたのだ。好奇心も手伝って、忍に付いてきてみれば……。
 樹は、額にかかる髪をかき上げながら、忍の着やせした華奢な背中を見つめていた。
 気のせいだろうか。
 ヒトシの時とは違った空気に、温室全体が支配されているような気配がした。
 何となく、植物をただ愛でるにしては空気が張りつめている。
 そのためか、樹の口には下手なナンパの台詞のようなものしか上ってこなかった。
「忍がここに来るのなんて、珍しいね」
 樹の声は、確かに忍に届いているはずなのに、当の忍には何の反応もなかった。
 忍が黙ったまま見つめているその先には、たわわに実った茄子が重そうにぶる下がっているプランターがある。
 自分が作り上げた空間なのに、今は樹がよけいもののような扱いを受けている。
 茄子に嫉妬しても始まらないが、樹を無視して、忍の注意を一心に浴びている茄子が憎らしかった。
「茄子って凄いよ」
(ああ、凄いよ。忍にとっちゃ俺よかも魅力的……)
「え?」
 樹の、内部に飛んでいた思考は、忍の言葉を聞き返すことで改めて反芻しようとしていた。
 何が凄いというのだ?
 忍のような特殊な人間が、樹を殺そうとしたこともある高位の能力者が、ただの野菜を凄いと言っている。
 それでは俺は、茄子以下と言うことなのだろうか?
 樹の頭の中で、『茄子以下』という言葉がぐるぐると回りながら膨張し始め、目の前を真っ黒に染めた。足下がおぼつかなくなり、よろけてしまう。
 近くのツタが、樹の髪に触れ、小さな音を立てた。
 だが、聞き返した声すら無視して、忍は言葉を紡ぎ続ける。
「茎の色も凄いよな。花は薄紫で、結構綺麗だなって思えるんだけど、あの黒光りした茎から出てると、何だ、ただ色が薄まっただけかって、がっかりした気分になる。紫を、限りなく濃縮させたインクって感じの黒だもんな」
 延々と茄子のプランターを眺めながら語る忍を、樹はただ見つめていた。
 あの、妖怪殺しに長けた剃刀のような気を持つ忍が茄子を愛でている姿は、ほほえましいというか、情けないというか……
「インクって言えば、こないだ食った弁当に入ってた天ぷら、衣がふやけて茄子の色に染まってんの。あれなんて、まるでマジック滲ませたような色だったよな。食い物っぽくない色だよ」
 忍の言う弁当はすぐに思い出せた。夜遅くに何か食いたいという忍のために、近くのコンビニから失敬してきた幕の内らしきものだったと思う。
 確かに、あの色に関しては樹も同感である。
 しかし、何か言葉を差し挟んでも、また無視されるだろうと予測して、黙って聞いていた。事実、忍の視線は一度たりとも茄子からは外されることもなく、その言葉の一つ一つが樹に向けられたものではなかった。
 忍は、初めての大量殺人以来、少しずつ世のしがらみから決別しようと動いていた。
 それを奨励し、手伝ったのは樹である。
 実際、家を出てから半年が経った。
 半年と言えば、少しは新生活のリズムというのが出来上がって来るものである。
 忍の新生活とは……。
*身体を苛めているとしか思えない鍛錬の数々。
*樹の用意した朝食をとる
*植物の世話
*またも鍛錬
*樹の用意した昼食
*動物と遊ぶ
*鍛錬
*もちろん樹の用意した………………
 ……ちょっと待った。
(俺は忍の召使いか?)
 樹は何となく理不尽な思いに突き当たってしまった。
 確かに忍は、要求をしたわけではない。樹が好んで忍にまとわりついているようなものだし、食事の用意も、他のものの調達にしても樹の能力から考えれば“お茶のこ”な訳で……。
 だが、始まりが、たとえ無償の奉仕だったとしても、それを当たり前にされるのは何となく哀しい。
 別に、感謝の言葉をくれなくたって、いい。自分で出来ることは、自分でやろうと努力して欲しかった。
 一応、共同生活である。
 自分のやりたいことだけしていればいいというものでもない筈だ。
 しかも、新居は未成年の忍だけでは借りられない。
 樹が兄として、架空の保証人を立てて、兄弟で住むというふれ込みで手に入れたものである。その上、次元の歪みに空間を拡げ、温室などを増やして、実際よりも広くしたのも樹だ。
(俺がいなけりゃ、何にも出来ないんじゃないか)
 そんな思いに駆られると、少しだけ忍が憎らしくなってきた。
 「貢君」という名で呼ばれても仕方のない自分は、やっぱり茄子以下なわけだ。そんな卑屈な思いに支配されると、情けないを通り越して、沸々と暗い怒りが奥底からわき上がってくる。
 忍の背中を眺めながら、ほんの少し、ほんのすこぉし悪戯をしてやりたいという気になっても、責められないよな、と、樹は思った。
 思うより先に、手の方は忍に延びていたが。
 樹は、忍が茄子の鉢を丁度持ち上げたところで、後ろから抱きすくめた。
 茄子に集中していた忍は、樹が触れた瞬間、身体全体で驚きを示したが、鉢を取り落としそうになったがため、とりあえず抑えたようだった。
「なっ、なな何すんだよっ、樹!」
 忍の狼狽に満ちた怒声はとりあえず無視して、ゆっくりと忍の背に自分の身体を密着させ、その体温を味わった。
 まだ身体の出来上がっていない忍の体躯は、樹より華奢で、その腕にすっぽり入ってしまう。
 その感触に感動しながら、一時目を閉じて酔いしれた。
 あげく……。
 丁度口元に忍の耳が来るものだから、思わず唇を這わせてしまうと、腕の中で忍がびくっと身じろいだ。
 また跳ねとばされるかもしれない。
 瞬間思ったが、そうはならなかった。茄子様々である。
「ほんの少しでいい。ちょっとの間だけ……、俺をいい気分にさせてくれよ、忍……」
「こんなことして、楽しい?」
 抑制を声にして、忍は低くつぶやいた。
「凄ーく楽しい。忍が困るのって、こういう時だからな。俺にだって、何か楽しいことがなければつまらないよ」
 話ながら、耳元に息がかかる度、忍の息づかいが苦しそうな喘ぎになっていくのが分かる。耳たぶから首筋へと、少しずつ大胆になっていくキスをしながら、忍の身体の火照りが増していくのを確かめた。
「嬉しいな。忍、感じてるね……」
「……からかってるのか?」
 低くなった忍の声には、さらに怒りの響きが増していた。
「からかうつもりは……ない。わかってるくせに。俺がどうしたいか……」
 そのつもりはなかったはずが、指先はゆっくりと忍の分身を目指して這い回り始めた。密やかな戦慄が、心地よく密着した部分から樹の全身に広がり始める。
 忍が嫌がっているのは分かっていた。拒絶にも慣れている。けれど、茄子の鉢のおかげで、無抵抗に近い忍を手に入れたら、それ以上のこともしたくなって当たり前というか、なんというか……。
 忍の体温を感じたあたりから、自分でも下半身からわき上がる奔流に押し流されていくのは分かっていた。
 忍を突き上げるように、後ろから押しつける力を増してみる。
 そうして、さらに自らの欲望を高めてしまい、樹自身も狼狽していた。
 どう考えてみても、これはフェアじゃない。
「樹のそんな気持ち、分かりたくないし、分かるつもりもないね」
 忍の低く冷たい声音も、同じ事を主張していた。まるで、ミノルの様な話し方。いっそのこと、跳ねとばしてくれた方がよかったかもしれない。惨めな気分が、急速に欲望を萎えさせていった。
 忍を解き放ちながら、八つ当たりに近い気持ちで、樹はうそぶいた。
「そんなに俺に抱かれるのが嫌なら、さっさと誰かと交代すればよかったじゃないか。茄子が大事なら、ヒトシとでも替われば良いんだ」
 忍の頬が、カッと燃え上がった。
 痛いとことをついてしまったようだ。何気なく口にしたことだったが、後からその意味を考えて、息をのんだ。
「忍……、お前……」
 思わず口ごもってしまう。
「へっ変なこと考えるなよっ! 交代の瞬間の空白で、鉢を落としたら困ると思ったんだからな!」
 そうだろうか?
「本当に?」
 忍は茄子の鉢を棚に戻しながら、冷たく凍り付いた瞳で樹を貫いた。息が荒くなるほど、怒りが膨れ上がっているようである。
「本当だともっ。ナルだったら違うかもしれないがね」
「う……」
 ナルは……、勘弁して欲しい。
 良い娘だが、彼女に対しては保護欲ばかりが先に立ち、どうかしてやろうなんて気にはどうしてもなれないのだ。ナルは、樹の手には負えないほど純で、もろく、一途だ。弄ぶなぞ、もってのほかである。
 ナルの気持ちは十分分かっている。だが、それに応えるのなら、同じくらい本気でなければ彼女を傷つけてしまうだろう。
 自分がそんな気になれないのも、十分に分かっている。
 もしも、相手がナルだったらどんなにか楽だろう、と、思う反面、とても退屈なんじゃないか? とも思う。
 忍のような危険をはらんだ男を相手に仕掛けたゲームに、すっかり溺れている今、純情な恋愛は、ただ退屈に見えるだけだった。
 しかし、それは、樹側の事情である。
 忍は、ひたすら拒絶あるのみ。時に樹の指先に翻弄され、狂いそうになる自分を嫌悪しながら、なおさら強い拒絶の体制に出る忍は、今回も手負いの獣のように炎を瞳に浮かべていた。
「俺はそういうこと、絶対、ぜーったいヤだからな!」
「何もそんなムキにならなくても……」
 言いながらそんな忍が可愛く見えてしまう自分に、樹はクラクラしていた。
 怒れないのだ。どんな態度をとられようが。振り回されるのさえ、快感に感じている自分がいる。
「あ、なあ、忍、飯にしよう、飯に。今日は何がいい?」
 そうしてご機嫌取りに近い、卑屈な台詞が自然に紡ぎ出される。
 だが。
 差し出された樹の手は、いとも簡単に祓われてしまった。
「なっ……!」
 さすがにムッとして言葉に詰まった。
 人が休戦を申し出ているのに、何だ、その態度は!
 そういう気持ちが、表情にも出ていたのかもしれない。しばし本気でにらみ合ってしまった。
 忍の瞳は、まだ幼ささえ感じられる、無垢で深い色をしていた。樹の大好きな瞳である。そのまま吸い込まれるように見つめ続ける樹の視線には、愛しさが色に出てしまっていた。
 樹の瞳の変化に気づいたのか、忍は、不意に視線を逸らした。
「樹みたいな変態の用意した飯なんかいらない!」
 続けて忍の口から出た言葉に、樹は酸欠の金魚のように、ただ口をぱくぱくさせ、忍を見つめた。
 ツンとそっぽを向いた忍は、以前に本人が言っていたとおり、おぼっちゃまの形容がぴったりの表情をしていた。
 意地の張り合いですら、忍に勝てた試しのない自分を知っている。第一、食い下がるような真似を由としないのが信条だったはずだ。
「わかった。一人で喰うがいいさ。俺は、しばらく帰らないから。自分だけで生活して見ろ」
 ほとんど表情を変えずに、さらっと言ってのけたつもりだったが、実際には喉が震えて、うわずったような声になっていた。
 そうなると、もう、そこにいるのがいたたまれない。裏男に至急次元の扉を開けさせると、三十六計を決め込んだ。
 あるはずのない壁を背に、額に手をやり、大きく息をつく。
 情けない、情けない!
 逃げ出してきたことを、すでに後悔している。そんな自覚が、自分自身を責め苛んでいた。
 だが、ここで戻るわけにはいかない。
「どこ行こう……」
 裏男の腹の中で、暗い闇を見つめながら、惨めな気分をかみしめ、樹は小さなため息をついた。

 

 樹が消えた壁を見つめ、忍は深いため息をついた。
「どうしろって言うんだ。俺に……」
 樹のお稚児さん趣味につきあうのは、どうしても抵抗があった。たとえ、樹の巧みな指に体が翻弄されたとしても、気持ちがついていかない。
「体が気持ちいいのと、心が気持ちいいのは、違うよな。両方そろわなきゃ、やっぱり俺、出来ないよ」
 茄子の鉢に向かって話しかける。
 茄子は、微かに葉を揺らした。それは、肯定とも、否定ともとれる曖昧な返事だった。
 ヒトシだったら、もっと明確な答えを聞いているのかもしれないが、所詮茄子と人間では感じ方が違って当然だし、茄子の意見を素直に聞けるかと言えば、忍の場合は無理だった。
 そんなとき、当のヒトシが少しむくれたような口調で声をかけてきた。
「忍、俺、腹へってんだけど」
 続いて、ミノルが薄笑いを浮かべて割って入った。
「忍は考え過ぎなんだよ。適当にあしらっときゃいいのに。それより、飯、どーすんだよ? 喰いたくないとか言っちゃってさ。お前、用意できんのか?」
 ナルはナルで、しくしく泣き出しながら、それでもキッとした瞳で睨み付けるように忍に訴える。
「樹が可哀想よ。あんな言い方して。……女だからご飯作れなんて、言わないでね。あたし、樹の味方なんだから。樹が帰ってくるまで、あたしも眠るわ。起こさないでね」
 さっさと奥の方に消えていくナルを顧みながら、カズヤが言った。
「ナルって、おさんどんできたっけ? あいつ、お嬢だから、そういうこと期待出来なさそうだぜ。とにかく、忍、責任とってもらおうや」
 自分の中でせめぎ合うにしては、やけに自分が不利なものだから、忍はどっと疲れを感じた。
「食い物の恨みって奴か? 他人事だと思うって、よく言うよな……。いいさ、結局一人分喰えば、みんな腹いっぱいなわけだよな。わかった、なんとかすればいいんだろう? 俺が!」
 さて、そうは言ったものの、忍は台所に立ってみて、呆然としてしまった。
 食料がない。冷蔵庫はほぼ空っぽ、もちろん金もない。
 樹がどうしていたかといえば、やはり、アレである。他人様から内緒で分けていただいていたわけで……
 能力の違いで、それは忍に真似できることではない。
「……温室なんか、行かなきゃ良かった……」
 結果論だが、やり付けないことをして墓穴を掘るというのは、ありがちなことだ。
 実りという美しい自然の営みを眺めようなんて気を起こした自分を、忍は呪った。
 実りとは、一般には次にくるものが収穫で、それだからこそ、自分の所で出来たものを眺めるのが楽しくなるのである。つまり、ヒトシの温室に関して言うなら、無関係なことなのだ。ヒトシ以外の者が見れば、実りの後は終末しかない。
 実がもがれるときの植物の悲鳴は静かで、痛みやあきらめ、やるせなさと、ほんの少しの希望が混ざっている。一つの死、あるいは別れが、別の場所での新たな生を約束してくれるからである。
 花から実を結んだもの達は、積極的に「私を食べて、種を運んで」と、歌う輩もいる。
 それでも、ヒトシは嫌がった。忍のように、声を聞くのは嫌なのではなく、友人達に死を与える行為自体が耐えられないと言う。
 ヒトシは、加工されたものでもダメで、口に出来るのは死とは関係のないミルクだけなのだ。従って、大抵の場合、食事の時はミノルに眠らされている。
「どうしよう……」
 周りに言われなくたって、忍の腹は自己主張していたわけだし、まず食料の調達を考えねばならない。
 忍は、やけに広く感じられる台所で、考え込んでしまった。
「本当にどうしよう……」
 台所の小さな窓から指す陽が、少しずつ入り込む角度と色を変え、やがて静かに消えていった。
 真っ暗になった部屋で、たたずんだままだった忍は大きく伸びをした。
 そして。
 ゆらりと辺りを見回したあげく、その瞳は温室への道をさしてとまった。

 

「あんた、ホント何考えてるかわかんないね。……することはわかってるみたいだけどぉ」
 はすっぱな言い方をして、女はクスクス笑った。
 樹は、嫌悪を感じながら、それでも女の乳房に唇を這わせ、堅く突き出た隆起の頂点を舌で転がしたあげく、一気に噛んだ。悲鳴ともうめきともつかない声が、女の口から漏れた。
 顔は、忍にそっくりな、どちらかといえばマニッシュな女だったが、身体も仕草も、忍とはかけ離れた奴だった。
 声をかけてきたのは向こうだったけれど、相手にしたのは自分である。
 女に触れた途端に後悔していた。しかし、とりあえず、身体の燃えかすを何処かに吐き出してしまいたかったのだ。
(この女を忍だと思って抱いてしまおう)
 無意識のうちに頭にそんな計算が浮かんだかもしれない。
 だが、とてもそうは思えなかった。
 忍は、こんな女と同じじゃない。たとえ、どんなに顔が似ていても、忍とでは月とスッポンだ。
 女は、樹のそんな思いには全然気づかず、巧みな技にもだえ、身体をくねらせている。
 うねる蛇を連想させる女を見ているうちに、何もかもがどうでも良くなってきた。
 早く終わりにしたいという思いもあった。
 そこで、いきなり女を荒々しくうつぶせにさせると、肛門の方を貫いた。そのまま、首を持ってのけぞらせる。女の腕が空をかきむしった。
 抗議の悲鳴を上げて女はあらがったが、樹の指が徐々に喉に食い込むにつれ、力は抜けていった。事切れる最後の瞬間の締め付けが樹を刺激し、動かなくなった女に思い切り吐き出していた。
 瞬間的な脱力。
 後味は良くないが、いつか忍としてみたいという望みは大きくなった。
「忍、楽しみで殺せるのは、人間だけじゃないんだぜ」
 死体を冷たい目で見下ろしながら、身繕いをすませると、樹は外へ出た。痕跡なぞあっても、誰も樹まで到達することは出来ない。
 妖怪が人を殺せば、厳しく霊界で裁かれるのは知っている。だが、そんなことはどうでもよかった。
 自分は霊界に反旗を翻した元霊界探偵のパートナーである。気にする必要なんてなかった。
 気にするとしたら、忍に知られないようにすること……、それだけだった。もちろん、人を殺したことより、女を引っかけて寝たことを。
 樹は、自分の容貌が人間の女に及ぼす効果を十分知っていた。ちょっと優しくしてやれば、大抵が落ちる。食い放題と言っていい。もっとも、そんなことはひどく退屈で面倒くさいことだったが。
 やはり、手に入りにくいから燃えるのだと思う。
 忍は、樹にとって、玩具であり、宝物であると同時に高嶺の花でもあった。だからこそ、貢ぐ君とういう立場に甘んじていられるのだ。
 けれども、自分の魅力ってものを、その辺の女で再確認したくなってしまうということも、ときにある。
 特に、あんなあしらわれ方をしたときには。
 樹の念頭に、忍と、その辺の女との立場や考え方の違いがなかったのがいけなかった。
 何の確認にもならないわけである。
 その辺に思い至って、樹は特大のため息をついた。
「俺って、愚か者だ……」
 本当に。
 冷静が売りの自分が、やることなすことちぐはぐになっている。
 冷たい瞳と、熱い涙を併せ持つ一人の少年のために。
「忍、ちゃんと飯喰ったかな」
 独り言が口をついて、改めて驚く。
 一人で生活できなくなっていたのは自分の方だった。
 樹は、苦笑とともに、忍の好物のケーキ店を目指して、裏男の腕に飛び込んだ。

 

 鼻歌交じりの台所仕事。
 結構楽しい。
 野菜ばかりで、ちょっと淡泊な感じはしたが、それはそれ、精進料理だと思えばなんと言うこともない。
 茄子は、衣をつけて天ぷらにしたり、みそを使って甘辛く炒めたり、唐揚げにしてショウガ醤油もうまい。
 小さなキュウリとトマトはサラダに使った。カボチャが、ちょうどい大きさになっていたのもラッキーだった。これも、天ぷらと唐揚げと煮物にした。
 芋類がないのが寂しかったが、根菜のたぐいは結構良いできだった。大根とにんじんは、煮物にもしたが、なますもうまい。
 米が米びつに残っていたのも良かった。それに、冷蔵庫に卵が少し。
 やってみればこの通り。何もないようで結構食べれらるじゃないか。
 皿を並べた食卓は、結構豪華に見えた。


 

 樹が、壁を抜けるのと同時に、温室の方で忍の悲鳴が聞こえた。正確には、忍の中の誰かの、だが。
「どうしたっ?」
 そっと帰ってきたという、自分の立場も忘れて、樹は声のする方に走った。
 温室では、仙水一族の誰か、……おそらくはヒトシが、鉢を見つめてわなわなと震えていた。
 樹は鉢の植物を見てめまいを感じた。
 茄子である。
 茄子はどこまでもついてまわるのか……
「……茄子がどうした?」
 もういい加減茄子から離れたい気分だが、泣きそうなヒトシの顔を見て我慢した。
「僕の友達がいくつかいなくなってる。トマトと、キュウリと、カボチャと、白インゲンも、それに、ほうれん草や大根に人参も。みんな、僕が知らないうちにもがれていて、それも、僕たちの誰かがやったって!」
「喰ったのか?」
 ヒトシはただブンブンと首を横に振った。
「わ、わかんない。僕、ミノルに眠らされていたんだ。起きてみたら、腹減ってなくて、それで……。僕、友達喰っちゃったの?」
「……たの? と、聞かれてもなぁ。他の奴を出してみて」
 恐慌状態のヒトシは、それでも樹の言うとおり、他の誰かを捜すために瞳を閉じた。
 やがて現れたのは、やけに明るい笑顔の奴だった。
 とっさに、「こんな奴は知らない」と、思えるほど、いつもの忍達とはかけ離れた、アットホームな雰囲気の、親しみやすい笑顔の持ち主。
「お前、誰だ?」
 にこにこしながら、樹の手中の包みをさっと取り上げるあたりが素早いそいつは、あっけらかんとした調子で言った。
「ずいぶん短い家出だったね。その上、忍の好物持ってくるなんて、樹はやっぱり忍の下僕だな」
「ほっとけ! 人が聞いたことに答えろ!」
 気持ちを逆なでされた腹立たしさに、思わず語調がきつくなってしまう。
 この新参者は、にっこり笑って胸をえぐる感じがミノルに似ていて、尚外面の良さは倍加している。
「とにかくお帰り、樹。でもって、お初にお目にかかります。俺はマコトって言うんだ」
 一見物わかり良さそうにほほえむマコトは、その後瞳の奥に暗い炎を揺らしながら、樹の胸に人差し指を突きつけた。
「あんたが忍を甘やかすから、俺が出てきたんだぜ。簡単に放りだすんなら最初から甘やかしちゃダメだよ」
「はあ……」
 ごもっともで。
 どうやらこの人格、ヒトシの友達を葬った張本人らしい。
「温室の野菜、料理したの、お前か?」
 マコトは肩をすくめて肯定した。
「ヒトシが泣くの分かっていて?」
「俺にどうしろって言うんだ? 冷蔵庫も食品ストックもほぼ空っぽで、軍資金もゼロ。それで腹すかした青少年が、犯罪もせずに喰おうと思ったら、まず身近なものを犠牲にするのが当たり前だろう?」
「つまり、そういう状況に追い込んだ俺が悪いとでも?」
 マコトは大きくうなずいた。
「そうでなきゃ、俺が分離するわけないだろう? 植物と話せる奴らも、そうでない奴らも、同じくらい料理が苦痛なんだから。それぞれ理由は違ってもね。俺が出てこなきゃ、ヒトシの大切なお友達と一緒に共倒れだよ」
 なんだか説得されてしまいそうな勢いに、樹はたじたじだった。
 何となく、この人格は、何か……そう、オバタリアン……て奴がこんな感じじゃないだろうか。有無を言わさぬ口調がそこにある。
「ヒトシが種まきゃマコトがほじくる……てか。何と言っていいか……」
 ヒトシに同情しながら、こんな人格まで持ち出してしまう忍の律儀さに、樹は笑ってしまった。
「何がおかしいのさ?」
「いや、別に……。つまり、これからは、マコトが家事をやってくれるのかな?」
「俺はお手伝いさんじゃないからね。だけど、自分たちのことは自分でするよ」
 良い傾向なのか悪い傾向なのか、こうなるとよく分からない。
「樹、早速だけど、この入リストにあるもの揃えてくれよ」
 渡されたリストには、びっしりと忍とは似て異なる細かい筆跡で、品物の名が書き連ねてあった。一部を読み上げてみて、樹の瞳は見開かれた。
「松阪牛のステーキ肉、キャビア、フォアグラ? スモークサーモンと車エビ、松葉蟹……トリュフぅ? ……何なんだ?これは……」
「今日の夜と、明日の分の材料。辛気くさい精進料理は今日だけでいいからね」
 確かに、樹が揃える場合、金は使わない。ちょっと潜り込んで失敬してくるだけなのだから……。
 しかし、しかしである。
「ちっとは遠慮ってものがあるだろう?」
「なんで?」
「何でって……」
「タダで手に入るんだから、いいじゃない」
 タダじゃないんだよ。タダじゃ……!
 オバタリアンな忍は、結構凶悪だった。
 樹は、自分の小市民さが身にしみたのと同時に、頭痛の種が一人増えたのを確信した。
「そうだ!」
「ああ? まだあるのか?」
「うん。パセリと、クレソンの苗。ヒトシに増やさせるんだ。ラディッシュや、ハーブもいいな。樹、温室は、もっと大きめにして、菜園にしてくれよ。そうそう、マッシュルームや椎茸とか、エノキにシメジ……そんなのを育てる室も用意してね」
「菜園に……むろぉ?」
 ヒトシのお友達をこれからも食べるつもりらしい。そのための投資ということだろう。
 よくもまあ、同じ身体を使ってるにしては、この男、無神経というか……。
 樹のげんなりした表情を読んだのか、マコトは、きらっと目を光らせて、樹の胸を軽く小突いた。
「今、俺のこと、無神経だと思ったでしょ」
 ドキンとすることを言う。
「俺の役目は、無神経でなきゃ出来ないことをすることなんだからね。料理って、結構残酷なことしなきゃならないんだ。まあ、いつも出来たものを取ってくるだけの奴に分かれって言う方が無理だろうけど」
 一日やっただけで、ここまで言うか?
 そう思いながら言葉を飲み込んだのは、忍が、マコトをひねり出すのに、それなりに悩んだであろう事が想像できたからだ。
「分かった。善処しよう」
 マコトは、屈託のない満足げな笑みを満面に浮かべてうなずいた。
 人格が違うだけで、こんなにも笑顔まで違って見えるのだろうか。少し寂しげに笑う忍や、遠慮がちにはにかむように微笑むナルが懐かしかった。そして……。
「ヒトシはどうしてる?」
 何だ、そんなこと? と、言うように、肩をそびやかし、マコトは言った。
「大丈夫。言って聞かしておいたから。ヒトシのお友達だって、せっかく生まれて何の役にも立たないまま枯れていくのは情けないだろうからね」
 はあ、さいで。
 何を言っても無駄だろうし、変な話、これが普通の人間……なんだよな、と思う。
 樹はマコトと折り合っていくことを仕方なしに認めることにした。
 しかし……。
 ふと、今日殺した女の顔が浮かび、マコトは苦手な部類かもしれないと思った。

 

 果たして、自分の存在に意味を見いだせる奴が何人いるのだろうか。
 自分に関して考えるなら、みんなの出来ないこと、嫌がることを進んでするのだから、意味は確かにあるのだろうと思う。
 大きくなった菜園を見渡しながら、ヒトシの哀しそうな顔を思い浮かべ、それでも手はその日使う野菜にのびる。
「言うは易し、されど、行うは難し……だよね」
 目の前の鉢に語りかけてみても、彼らはけして応えない。


 

誰もいないところで、マコトは寂しげに笑った。