天使は聖なる秤の夢を見るか
 
 
 気怠い空気が漂う中、樹の横で仙水が身を起こした。
 ベッドが軋み、ずり落ちるように樹は寝返りを打った。自然に頬寄せる形になった仙水の腰は、無粋なパジャマに包まれている。ほんのり暖かく、固い筋肉質の……。
 こんなもの必要ないのに、と、心の中で毒づきながら、怠そうに樹は身を起こした。
 薄暗がりの中で、ほんのり光彩を放つエメラルド色の髪を無造作に掻き上げる。仙水と一つベッドで眠るようになってからついた癖である。
 人格交代は樹にとっては突然起こる現象で、それが樹を戸惑わせ、溜め息をつかせる。確か、眠りにつくときはナルだった。目覚めたときも彼女なら、はにかんだ微笑みを浮かべながら、樹の頬に口づけをくれたはずである。
 この、冷たい空気をまとった男は……。
「誰……? 忍……?」
 無言のまま仙水は立ち上がった。ゆっくりとカーテンを開ける。
 逆光の中に浮かび上がった仙水の身体は引き締まっていて、しなやかな筋肉の隆起が、それの付きにくい箇所との差を強調し、およそヒトの形でこれほど完璧なラインはないだろうと誰もに言わしめるであろう美しさを持っている。
 そう、妖怪である樹にも目眩を起こさせるほどに、それは輝いて見えた。
 今すぐ後ろから抱き締めてしまいたい。
 あの下半身を包む邪魔なパジャマをはぎ取り、全身にキスの雨を降らせたら、仙水はどんな顔をするだろうか。
 実際、同じベッドで眠りながら、樹を文字通り拒絶し続ける仙水に、焦れていた。
 力関係が逆だったら。ストレートだろうが何だろうが、思いを遂げることは簡単だったのだ。
 けれど。
 仙水が、いや、忍が圧倒的な力を持っていなければ……。今ほど樹は執着していなかったかもしれない。
 鈍く生暖かい陽光に身をさらして、仙水はゆっくりと振り返り、微笑んだ。
「忍……?」
 表情自体は誘惑に満ちた無垢な美しさを持っているのに、瞳の奥は暗いベールで包まれ樹を突き放している。
 樹は硬直した。嫌な予感がする。
 仙水忍がこういう笑みを浮かべるときは、大抵樹に骨折りな頼み事があるときである。
「連れていって欲しいところがある」
 案の定だ。
「……どこ?」
「U国……」
 聞いた途端に、樹はベッドに埋もれてしまった。力が抜ける。そのまま天井を見つめ、口を開いた。
「内戦中だろう? 何だってそんな所へ……?」
 また自殺願望だろうか?
 破壊と殺戮。
 今時の戦争は、人一人の命など、頓着しない。そんなところに身を置いて、仙水は何をするつもりなんだろう。
 問いたげな視線を軽く受け流し、仙水は嫣然と微笑んだ。樹が、この笑みを見せられただけで逆らうことは出来なくなるのを彼は知っている。
「見たいから。それだけだよ」
 声に笑いを含ませ、忍はゆっくりと言った。言いながらベッドに近づき、ゆっくりかがみ込むと視線だけで忍を追っていた樹の額に軽く口づけた。
「ねぇ、頼むよ」
 甘く響かせた声音には無意識な計算が露。それでも、忍から進んでキスをくれたという、それだけで、舞い上がってしまう自分が居る。報われることはないと分かっているのに起ち上がってしまう息子を、どう慰めようか。
 忍は樹を使いたい時だけ、必要最小限に樹の望む餌をまくのだ。それも、純情無垢な顔をちらつかせ、無意識のうちの行動だから始末に悪い。
 忍の我が儘には慣れている。あきらめの溜め息でイエスと返事をした。
 これぞ惚れた弱み。
「……一応訊くけど、何を見るつもりだ?」
 十九才の誕生日を前に、既に樹を追い越した長身の、逞しい肩をすくめた忍の返事は、あくまでも軽いものだった。
「殺し合い」
「……?」
「人間同士醜く殺し合う姿が見たいんだ。自分たちの脆さや弱さに気づかないで、一番偉いと勘違いしてる、愚かしい人達をね……、愚かしい行為を見物したいんだよ」
 憎々しげな声。それでいて、泣きそうに悲しげに歪んだ微笑み。
 こういう時、樹は忍に対しての欲望が一番高まるのを感じる。
 抱き締めて、口づけして、それから……。体中を走る血潮が、それを熱く求めて一カ所に集中する。
 忍の意志に反した戦きを確かめながら、火照りを増していく身体を愛撫する。多分、意志とは関係なしに雄々しく起ち上がるであろう彼の分身を口に含み、存分に愛して、吸い尽くして……。そしてあの……憧れてやまない秘部を舐め解き、貫く……。貫いて、何度となくその想いを吐き出して……。
 ああ、それが出来たら!!
 妄想に身体を支配されながら、それを気取られないためにベッドで上半身を起こしただけの形で忍を見つめた。
「何のために……?」
 そんなもの見たって心の糧になどなりはしないのに。
 忍の自虐的な行動は、時を経るにつれエスカレートしていく。
 『黒の章』の内容の確認。
 否定できない状況を目の当たりにする度、忍の心は引き裂かれ、その悲鳴は音のない、その分内包された苦痛と絶望の増幅されたものになっていった。そして自らの存在否定。
 樹は、忍の心がどんどん手の届かない奈落の底に落ち込んでいくのを手をこまねいて見ているしかなかった。
 自分の望んだ通りのはずなのに。
 忍の心の悲鳴を感じる度、快感と背中合わせの悔恨がひたひたと迫ってくる。
 忍を絡め取ったと思うのは瞬間だけで、ズルズルとすり抜け落ち込んでいくのを捕らえることは出来なくて。表情には出さないが、心の中で歯がみすることが何度もあったのだ。
 愛しさの中身が少しずつ変質してきているのは予想外だった。人間という寿命の短い種に、ここまではまりこむとは……。
 今更という言葉が心の隅でちくりと棘を刺す。絶望する表情もいいが、満ち足りた笑顔が見たいなど……。そのように行動するなど、出来るわけがなかった。今の忍を否定することは出来ない。
「死にたいのか?」
「樹が殺してくれる?」
「……、文字通り命を奪うって意味でなければ何度でも……」
「どういう意味さ?」
「分かってるだろう? いつだって、俺はお前を甘く殺したいって考えてるんだぜ」
 忍は、いつものように鼻で軽く笑った。
 ここで、愛してると囁いても、多分忍はせせら笑うだけなんだろう。そんなもの、信じないと……。
 U国なんかへ行かせたくない。
 少しでも長く、お前と一緒にいたいんだ。
「なあ、遊びにしちゃ、危なすぎるよ。やめろよ」
「俺が、戦争の直中に行っただけで死ぬほど、間抜けだと思う?」 
「いや……」
 だが、傷つくだろう? また、その瞳を悲しく曇らせるんだろう?
 そんなお前が凄く魅力的なのは分かっている。俺の求めた状況なんだ。本当なら望ましい筈なんだ。しかし……。
「……でも、万が一って事もある。お前のその自信が命取りになる可能性だってあるんだぜ。お前の言う、愚かな人達のようにね」
 忍がピキッと凍り付いた。数秒だけ唇をわななかせ、それから見事に切り替えた明るい笑顔を見せた。
「見るだけだ。参加する訳じゃない。大丈夫だよ。すぐ帰るから……、ね?」
 額へのキスだけでは足りないと思ったのか、忍は樹の唇にそっと自らのを押しつけた。ついばむように軽く吸われ、樹はその瞬間に甘い痺れの中に溶け込んでしまった。
 忍が俺にキス?
 その感触を確かめるように唇に触れてみた。けれど……。
「……」
 我に返って、その虚しさに心の渇きを感じた。夢にまで見たその甘い感触は、後味のとても苦いもの。
 忍に樹の本当の心は伝わらない。忍がくれたキスは見返りのキス。取引のキス。
「いやだ」
 苦さが樹を荒ませた。
「樹?」
「絶対嫌だね。こんな苦いキスくれる忍なんか……っ! 誰がU国なんかに連れてくもんか」
 忍が瞳を見開いた。樹の剣幕に驚いている。
「樹……、お前……」
 忍の唇がぴくぴくと震え、やがて抑えきれなくなった笑いが漏れた。
「なんだよっっ」
 あっはははと声を解放した忍の笑いは、数分続いたような気がする。
 ピタッと収まった笑いの後に。無表情が忍の面を覆った。
「樹をあてにして悪かった。いいよ。少し時間かかるけど、一人で行く」
「? ま、待てよ、忍!」
「……U国、行ってくれる?」
「ああ……。そうだな、もう一度……キスしてくれたら……。忍がだよ」
 仕様がないなと肩をすくめ、忍が樹の顎をクイッと持ち上げた。そっと口づける。樹は、触れた瞬間に忍の頭を抱えた。自ら忍の唇をむさぼった。舌を入れると、忍のそれが迎えた。甘く、激しく、絡みつく。身体のとろけが樹の力を失わせたとき、トン、と突き放された。
 忍の虚ろな瞳が、微かに笑いを浮かべていた。
「もう、いいだろう?」
 悦びやとろけは、樹だけのものだったのだろうか。冷静な忍の態度は、樹を更に渇かせた。
 馬鹿やろー、地雷でも踏んで死んじまえ!
 心の中で毒づきながら、それでも裏男を呼び出す。
「約束は、約束だからな」
 さしのべた手を忍が握りしめた瞬間、胸を絞るような小さな痛みが走った。
 
 
 U国は、多民族国家として、存在していた。近くの大国であるR国の崩壊と共に、その統制は壊れ、宗教も文化も異なる二つの勢力のぶつかり合いがクローズアップされてしまった。
 問題はBという地域。同一民族にも関わらず、イスラム教徒であるがゆえにM人といわれ区別される人々が多く住むBは、旧U国では国土の真ん中にあたる。
 旧U国を引き継いだ形のギリシャ正教を信仰する者主体のS側と、独立を求めるイスラム教のM、それを支援するというカソリック系のCの連合の戦いなのだが……。
 実際は、SもCも、Bという領土を自国に組み入れたいだけなのだ。そこに、Mという宗教的な異民族のための展望は存在しない。
 特に、Cという民族は、意識的にヒトラーの唱えた同一民族の優位主義に傾倒していて、その統制の取り方はナチを彷彿させるほどである。
 民族浄化作戦などというものを本気で実行し、多くのC側地域にいたS人を難民化させた。
 崩壊前まで隣人として暮らしていた者が殺し合うという、何とも言い難い愚かしさに、全体主義のマインドコントロールの跡を感じる。
「丁度真ん中のBって所だよ。お前の見たいものに出くわしやすいだろう」
「ああ、サンキュ」
 丁度忍を降り立たせた場所では、街頭のテレビで奇妙な音楽番組をやっていた。
 ちょっと美形の男がレオタード姿で謳う。
 戦え、戦え、我が民族以外は全て敵。我らこそが頂点に立つ者。奴らを殺せ、殺せ、殺せ。
 そんなフレーズの繰り返し。
「C側の番組だな……」
 歌の訳を忍に教えると、彼は肩を揺すって笑った。
「馬鹿みたいだ……。昔の日本も、こんな教育してたよね。戦争に負けた途端に教科書墨塗りして、今まで教えたことを否定したんだよね。それが全てだというように教え込んでおきながら……。その時代の子供って、だから思想的には骨のない奴多いんだろ」
 言うだけ言って、忍ははたと考え込んだ。
「ああ……、俺もそう……だな。同じだよ、樹。足下が崩れ落ちたまんま、大きくなっちまったってとこ」
 初めて気がついたというように明るく言う。
「C人の子供達だって、いずれ同じようになるね」
「ああ……、そうだな」
 見る者もいないテレビに背を向け、ゆっくりと歩き出した。
 昔美しかったはずの町並みは瓦礫の山となり、そこここに染みついた汚れは血の匂いを放つ。生活感なんてものは霧散していて、人影はどこにも見あたらない。
「鳥も、動物もいない……。ああ、虫はいるな」
「虫?」
「うん、シデムシとか、蠅とか。餌が多くて喜んでる。土が焦げて草木も辛そうだけど……」
「破壊は、新しく生まれる世界への必要悪だけどね。新しく生まれる者にはいいが、前からいる者にはいい迷惑だな」
「うん……それに、この場合は、愚かな理由だけに不毛だよ。何にも生まれやしない。宗教なんて、どっちが良くて、どっちが悪いなんて決められないんだしさ」
「自分に受け入れられないものを否定するのは人間の常さ。狭量なんだよ。それに、一皮むいて見れば、結局領土の奪い合いで、欲がらみさ。いずれ分かるだろうが、どっちが勝っても、中心にいるM人は何も得られないだろう」
「M人のための戦いなのに?」
 そぞろ歩きの間の会話にしては暗い内容だが、それをお互い簡単な会話のように口にする。
「建前でしかないからだ。だいたい、宗教の違いだけで、M人なんていう名称作り出す国だぜ。大C主義と、大S主義なんて言葉、平気で出てくるしな」
「なにそれ」
「どっちも自分所が一番優れてるから、自分たちが優位に立つべきなんだっていう思想。だから、領土も人一倍必要だって事で、侵攻と支配に精を出すって訳。ヨーロッパなんて、どこの地域でも似たような小競り合いの連続がイコール歴史だけどさ。元々は大S主義が誇示されたせいなんだ、ここの場合。
 同じ人間のくせに、なんの根拠もなく自分は特別だなんて、どうして思えるんだろな。誰かを蔑むことで、自分のポジションを確かめてるのかな。愚かなことだ」
 忍は樹の言葉に苦笑した。
「あはは、耳が痛いな」
 不意に風が掠めた。樹の鋭い嗅覚でなくても、その臭いははっきり分かる。
「……新しい血の臭いだ……」
 忍が立ち止まって辺りを見回した。
「どこだと思う?」
「あっち」
 樹が顎をしゃくって指し示した方向に、忍は足を向けた。
 しばらく歩くと声が聞こえてきた。あまりに早口で、なんといっているかは聞き取れなかったが、声音の雰囲気から呪詛の言葉であることは分かった。続いて、タタタタッと軽い破裂音。
「銃声だぜ。ドラマと違って軽すぎて、間の抜けた音に聞こえるな」
 樹の言葉に反応するかのように、忍の歩調が速まった。
 焼けただれた木立を抜けると視界が開けた。
 タタタタタッ。
 また銃声。
 広場だと思ったところは、教会らしき建物が土台だけになっている場所だった。細かな瓦礫の間から声がする。
「死ね! 死ね! 死ね!」
 声と銃声の合間に、重い質量の倒れ込む音が鈍く聞こえる。
「やってるよ……。樹、見ろよ、神父だぜ」
「ほう……」
 銃声をさせ、呪詛を吐いているのは神父だった。少なくとも、神父の服装をしている男だ。
「本物かな……」
「さあ……? やってること見てると嘘臭いがね。案外本物だろう。カソリックの服だからC人らしいな」
 C人とS人という民族は、百年ぐらい昔から敵対してきたという歴史がある。殺し合い、貶め合い、復讐の繰り返し。どちらが先に始めたかなんて事は、誰も本当のことを知らないだろうし、証明もできないだろう。他の少数民族と共に、U国という統合国家の中に取り込まれたとき、二つの民族の血の歴史は、不透明なカプセルに無理矢理詰め込まれて地中深く埋められたはずだった。
 国が壊れて、それがはじけた。
 互いに穿り返した過去に加えて、新しい恨みの歴史を重ね合う。
 長い歴史を持つ宗教ですら、元の教えを歪められた形で伝えられ、都合のよいとらえられ方で実践される。
「ばっかみたいだね」
 忍の手に光球の束が現れた。気の高まりは最高潮とは言い難いが、目的からいえば十分すぎた。
 人間一人に、覚えたての技を使うなぞ、忍らしくはない。
 何体も折り重なる一般のS人らしき死骸に鉛玉を打ち込み続ける神父。
 その表情は、憎しみに満ち、罪悪感などは、微塵も感じさせない。その瞳には、殺すことで感じる一種独特な快感でハイになっている色が浮かんでいた。
 ああ、カズヤに似ている。
 樹は思った。
 カズヤの表情が今の神父に重なる。
 忍の腕がゆっくりと持ち上げられるのを、樹は目の端で捉えた。
「忍っ?
 樹の叫びと神父の悲鳴が重なった。
 彼は理解しただろうか。自分が、銃ではない力に倒されたのを。
 忍の選んだ技は、遠隔操作された気の固まりの一つ一つが鋭い矢のように貫くもの。一つ撃ち抜かれる度に、神父は驚愕の表情を浮かべもんどりうった。
 ヒクヒクと痙攣しながら、その口元が小さく動いた。
「神よ……」
 樹の声に忍が振り返った。
「私を罰するのですか……? だと」
 樹は脚色無しに、神父の言葉を翻訳した。
 それを聞きながら。
 動かなくなった神父を虚ろな瞳で見つめて、忍は呟くように言った。
「神を信じていたのか? あいつは……。あの行為を許すような神を信じていたのかな」
「神ってのは自分のための概念だ。許すも何も、自分の中での判断だからな。神様の形は、本当のところ誰も知らない。自分の頭の中で理解しやすい形に変形されたものでしかないんだし……。事の成り行きや結果から、自分の神様がどう手を下したかを考えるんだろう?」
「あいつの神様は、あいつを許さなかった……てことになるのかな。信じられないって顔してる」
「信仰よりも思想に支配されたんだ。自分が神を捨てたことに気づかなかったんだよ。……仕方ないさ」
「俺の神様は……、今俺がやったこと、怒るかな」
「神様なんて、いるのか?」
 忍の視線が樹を貫いた。
「……いるさ。樹の言う概念て奴で言うなら、……いるよ」
「じゃあ、分かるだろう? 怒るかどうかくらい」
「……怒らない。ほんとは。少なくとも俺は楽しみで殺したりはしない」
「そうだな……」
 そう、忍はね……。だけど……。
 忍が、不意に笑い出した。気が違ったのかと思うほどの勢いで、不随意の高笑いを続ける。やがて、呼吸が辛くなったのか、身体を折り曲げ背中で短く息を吸い始め、ピタッと収めて見せた。
 神父の死骸をひょいと跨ぎ、つかつかと先に歩き出す。ほとんどそぞろ歩きのノリで、それでも目指すは遠くで聞こえる爆音の方向。
「樹の言いたいこと、分かってるよ。俺の中には……」 
 言葉の途中で、瞬間的に忍の全身から気が抜けた。
 まずい。
 樹は舌打ちして、忍の後を追った。
 忍の醸し出す気は、人格が変わる度に変化する。
 カズヤが表に出たらしい。カズヤは忍の持つ人格の中でも弱い気の持ち主で、質は違うが、単純に強弱で考えるなら、ナルやマコト並みである。
「カズヤ!」
 振り返った顔は、確かにカズヤの表情。下卑たニヤつきを唇に浮かべ、目元を細めて斜に睨み付けてきた。
「おう、樹ぃ、久しぶりだなぁ。またすごい所に案内してくれたもんだ。ああ〜、ゾクゾクするぜぇ。娑婆の空気だぁ」
 思い切り背筋を伸ばし、カズヤは深呼吸した。
「嬉しければ、睨まないで、嬉しそうに笑えよ。言っておくけど、俺はここに来たくはなかったぞ。礼は忍に言いな」
 カズヤは、一瞬きょとんとしてからニヘラッと笑った。樹の首にがしっと腕を回し、後一ひねり加えれば、首がへし折れるだろうという力で樹を抱き寄せた。
「拗ねるなよぉ。忍が俺を出したって事はさ、何かあるんだろ? お楽しみがさ。さっさと終わらせて、交代してやるからさ。案内頼むぜ」
「案内も何も、忍の目的は見るだけだったはずだ。お前のお楽しみなんて、予定外だよ。自分で忍に聞いてくれ」
「つめてぇなぁ……。俺だって、仙水の一人なんだぜ」
「だから口きいてやってるだろ?」
「タカビーなヤローだぜ、スケベ妖怪のくせに」
「っ!」
 樹の握り拳の震えを見て取ると、ケケケと笑ってカズヤは駆け出した。
「カズヤ!」
「おたのしみ、おたのしみ!」
 遠のくカズヤの声をかき消すように轟音が迫ってきた。空爆の音が近い。
「ったく、何がお楽しみだ。自分がやられちまう率の方が高いだろが」
 念のため身体を亜空間の実質に合わせたまま、樹はカズヤの後を追った。
 S側の爆撃機がC側の補給隊を攻撃していた。
 補給隊だけでなく、もとはS人が多く住んでいたはずの地域の、S人の街が瓦礫の山と化していた。
 Sの炎がS人の家を焼く。炎の熱さを頬に感じて樹は舌打ちした。
「昔の戦争は可愛いもんだったよな」
 科学の進歩だかなんだか知らないが、収拾のつきにくいほど威力を増してしまった武器の数々は、それを使う側の人間を翻弄してしまう。
 手に負えない武器を手にしてしまった者の行く先は破滅。暴発による自刃か、生じた敵によるものか。いずれにせよ、暴力は暴力を喚ぶだけなのだ。
 忍に似ている……。
 ふと樹は思った。
 人間という脆い器で、しかも子供のような心で持つには強大すぎる能力。
 樹が背を押してやらなくても忍は壊れ続ける。能力が研ぎ澄まされるほど内側から風化するように崩れていく忍。
 分かっていてもより強力な武器を作り出してしまう感覚は、理解できるなと思った。
 かろうじて命の火を残している者達に嬉しげに手刀をふるってはトドメを刺していくカズヤはそんな武器商人にとっては恰好の客である。
「忍は?」
「あー?」
 うるさそうに聞き返すカズヤに声のボリュームを上げて聞き直した。
「忍はぁ、どうしてる?」
 ニヤニヤしながら仕事を中断したカズヤは、樹の側に駆け寄ってきた。
「寝てる。あいつは俺のやること、見るの嫌いだからな。だから、ちゃんと夢で教えてやるんだ。俺のしたこと、あいつに知らせるんだよ」
「嫌がってるのに?」
「当たり前だろう? 自分でやりたくてもできないことを俺にやらせときながら、それが汚い仕事だからって目をつぶってようなんて、ちょっとずるいよな。だから、俺は見せてやるんだ。忍の記憶に残るようにね」
「やな奴だなー。お前」
「お前に言われたくねーな」
 フフッと笑いながら、カズヤは仕事に戻った。
 ズシャッという、肉を斬る鈍い音は妙に現実感のない響き。同じように、爆音もやはり間の抜けた音に聞こえる。
 全く何もかもが馬鹿げている。
 他よりも上に立ちたいという向上心が歪んだ形で発揮された結果。もしくは何の裏付けもない間違ったプライド。
 同じ言葉を話しながら、わざと異なった文字で表現しようとする心持ち。
「宗教ってそんなに大切か? 同じ種族で殺し合うほどに」
 足下で虫の息でいる男にふと声をかけてみた。
 男は力無く開いた唇を微かにわななかせてそのまま事切れた。
 答えは何だったろうか。
 永遠に分からない。
 元々樹は妖怪だし、主に徘徊していた場所は日本である。大陸ならではの民族同士の領地への執着など、本当に理解など出来ないだろう。
 忍にしたってそうだ。忍は日本人だから。
 理解の及ばないことに対して、自分の秤を押しつけるのはどうだろう。
 あの神父には神父の言い分があったろう。それがたとえ納得のいかない言い分だろうと、片面だけで全てを判断することの危うさを考えると、耳を傾けるべきだったのではと思う。
「仕方ないか……」
 自分の秤しか、基準がないのだ。
 誰でも。
 はじめの一歩の線を引く基準は誰でも自分の秤で測るもの。
 つくづく人間というものは無器用に出来上がっていると思う。客観のための最初を主観で始めなければいけないなんて。
 まあ、妖怪だって同じだが。
 要は、いかに客観にすり替えていくかなのだ。
 客観的に見てカズヤの所業は、認めることの出来ない悪行だった。
 もちろん、人間の範疇で、だ。
 樹自身から見れば、どうという事のないことである。弱肉強食なら、当然の結果であるから。死にかかっているものは、そのまま死んでいくか、餌になってほんの少し死期が早まるかのどっちかである。大した違いはない。
 今この場で、自分が実行したいとは思わないが、同情や哀れみの心は湧き出ない。
 新鮮な血の臭い、肉の焦げる臭い、瓦礫の埃臭さ、どれもそれほど魅力的には感じなかった。
 美しくないからだ。
 同じように、カズヤも美しくなかった。
 樹の好きなスラリとしたしなやかな長身と切れ長で悲しげに微笑む瞳を持つ端正な面は、カズヤになった途端に下劣なものに変化する。
 何もかもを憎み、蔑み、破壊する心。
 憎々しげに歪められたカズヤは、それでも仙水の一人なのだ。
 忍はカズヤに悪夢を与えられ、またも引き裂かれるのだろう。
 引き裂かれ、身悶えする忍は美しい。淫靡な美しさで樹を誘う。
 それなのに。
 半身の樹がそれに哀れみの目を向ける。壊れていく経過は楽しみたいけれど、純粋に楽しむには愛しすぎるのだ。
 そうして樹は苦手なカズヤにも手を差しのべる。
「カズヤ、終わりにしろよ」
「馬鹿言うなぁ! 足りねーよっ、ぜんっぜん殺し足りねー」
「そんな、ほっといても死ぬような奴ら殺しても、つまらんだろうが。さっさとこっち来いよ」
「無抵抗だからおもしれーんじゃないか! ボロクズみたいにくたばるこいつらの声、最高にひ弱で可愛いぜ。なあ、ここでは俺が王様さ。腕をもごうが、首を飛ばそうが、思いのままだ」
「弱虫のストレス解消か?」
「ちがう!!!」
 邪魔するな、と、怒りにまかせて叫んだカズヤは、一瞬無防備になった。
 背後に迫る爆音は、鼓膜をつんざくばかりに大きくなりカズヤを取り囲んだ。
 小型ミサイルがすぐ側で炸裂した。
「!」
 とっさに裏男の開けた異次元への入り口にカズヤを突き飛ばした。
「あああああああっ」
 悲鳴。
「ってぇよっ。馬鹿野郎っ」
 異次元空間の上も下もないところで、ぐるぐると回るように転げるカズヤは、右腕を左で抱えるようにして叫んでいた。
「……右腕、どうした?」
 ヒクヒクと、動きが小刻みになってうずくまったカズヤが叫ぶのをやめてから樹は尋ねた。
「見せてみろ」
 手負いの獣に近づくのは危険だが、カズヤなら対処できる。
 本人は認めないだろうが、気から見ても、仙水の中で尤も弱い部類に入る人格である。
 抑えつけることも、痛めつけることさえ、カズヤなら可能だ。
 痛みのためか、カズヤはまるで飼い犬のような従順さで左手をどけて見せた。
 樹は口元を歪めて笑いかけた。
「珍しく素直だな」
「うるせぇっ」
 右腕は、ちぎれていた。
 ほんの少しの皮で繋がり、ぷらんとぶら下がっている。揺れる度に支える皮は細くなっていくようだ。
 グチャグチャとした傷からしたたり落ちる血液には細かな肉片やらが混ざって、足下にねっとりとした池を作っていた。
「こりゃひどい。仙水ともあろうものが、随分間抜けなことになっちまったもんだ」
 喉の奥からクックと沸き上がらせた笑いを含ませ、樹はカズヤの腕を引っ張った。
「っ!」
 プチンと最後の皮が切れ、腕は樹の手に渡った。
 カズヤの出す気が変わった。痛みのせいか、間抜けと言われたショックのせいか。
「逃げるのか? カズヤ……」
 追い打ちをかけてみたが無視された。
 うって変わった気の強さに、樹の瞳は見開かれた。
 今までの誰とも異なる気。
「また新人登場か……?」
 マコトの図々しいほどの明るさ、ナルの優しさ、ヒトシの無邪気さ、ミノルの冷静さ、カズヤの荒っぽさ、……忍の虚無感とも異なる。
 熱いようで冷たい。空っぽなようで充実している。
「お前……、何だ?」
 不気味な奴だ。
 動作の全てが緩慢で、無表情な仮面が蝋面のようなこの男は、仙水の中でも異色である。
「ジョージ……」
 ぼそっと言葉を吐いた。ほとんど唇を動かさないで。声まで無表情だった。
「情事? あ、名前か……」
 忍とは異なる無表情な瞳が樹を眺めていた。
 ゆらりと左手が差し出された。
「?」
「腕……」
「腕?」
「俺の腕、返して」
「返せったって、こんなにグチャグチャじゃ、くっつかないぜ」
 それでも、樹は正当な持ち主に腕を渡した。
 ジョージは受け取った腕をためつすがめつ眺め回しながら言った。
「くっつける気はない」
 腕をぽいっと放り出した。
 傷口を指でこじりながら、鼻歌を歌っている。低いハミングは、無表情なままの顔には似合わないグレンミラーのムーンライトセレナーデ。
「何してる? 痛くないのか?」
「痛い」
 平然と言いながら、肉片をこじり続ける。やがて骨が、二、三センチ剥き出しにされた。
「あの腕は使えないから、もっと良いものに改造する」
「改造?」
「銃だ。そう、名前は気硬砲にしよう。射程距離は二十メートルくらい。パワーは散弾銃程度でいいかな。カズヤに扱わせるんだからあんまり凄いとかえって上手くない。気の充実度に威力が左右されてしまうから……、まあ、仕方ないな。フォルムは……そうだな、銃身はワルサーP38風、細長くて黒光りしてるのがいい。腕とつなげるから、丸い感じになっちまうけど、ま、いいだろう。骨から直接充填して、と……」
 突然雄弁になったジョージは、初めて瞳を微笑ませた。気持ちよさそうに語るその表情は、至福の時を今過ごしていると無言の中に語っていた。
「どうやって?」
「名前の通りさ。気を練って銃を創り上げる。素敵だろう? 仙水の身体ならではだ。カズヤの気では人間が使う銃程度の威力しかないだろうけど俺が最高のものを作ってやる。これ以上無いって程綺麗なやつ。ふふっ」
 本当に嬉しそうに笑う。
 優雅に血染めの指先を舞わせながら、仙水の右腕の骨の中心からエクトプラズムに似た物質をたぐり寄せ、粘土細工でもするようにイメージ通りの銃を形作ろうとしている。
「……何故、カズヤに扱わせるんだ?」
 樹の問いに、ジョージは片眉をぴくっと上げ、横目で笑った。
 判りきったことを聞く奴は間抜けだとはっきりその目が言っている。
「他の奴には必要ないからさ。カズヤは弱い。それに、銃を使えば返り血を浴びなくてすむ。カズヤは構わなくても、俺達は構うからね」
「あ、そっ」
 忍の中にこういう人格も隠れていたのは意外だった。
 武器を必要としない忍の中に、武器を愛する心があるなんて……。必然性すら感じられない。
「ジョージ?」
 ん? と、目を上げた彼は、全く手を止める様子はない。邪魔をするなと言いたげな、咎める様な目の色である。
「お前は、何故生み出されたんだろう?」
「……知らない……」
「お前の役割は?」
「武器の手入れ」
「カズヤのためのか?」
「それだけじゃない」
「武器は他の奴らには必要ないだろう?」
「武器として持つんじゃない。防具として持つ」
「防具?」
「そうだ」
 煩そうにそう応えると、ジョージは作業に集中するつもりであることを樹に背中を向けることで伝えてきた。
 防具…………。
 武器を必要としない者のための防具としての武器。
「……カムフラージュか? 能力を見せないための……」
「聞かなきゃわからん奴は馬鹿だ」
 冷たい物言いに、樹は思いっきりムッとした。
「あー、そうかよっ」
 身じろぎもしない背中にそう言葉を投げつけて、裏男の腹から出た。
 普通、足場のない空間に一人取り残されれば、その不安感に恐怖してしまうものである。人間なら。
「少しそこで反省してろ!」
 捨て台詞は高飛車に響いたが、人間界を徘徊する羽目になった樹はそれこそ足下のおぼつかない気分を味わっていた。
 場所は歩き慣れたアジト周辺。
「……ばっかやろう」
 独り言が口をついて出た。
 不愉快だった。
 忍の中にジョージのような奴がいること自体。
 樹を馬鹿にし、無視するあいつ。
 スモーク張りの茶店の窓ガラスの前を通りかかり、ふと自分の姿に目を留めた。鏡代わりにして自分と対峙してみる。
 実際にはエメラルド色である髪は薄い茶色に見えるように反射率を変えてある。
 瞳も同様。暗いところで見据えなければ色素の薄い茶目にしか見えない。
 いつもの冷笑が消えて、不機嫌にへの字型になっている口元に目が行った。
「こんな事でカッカしているなんて、まるで俺は人間みたいだ」
 自嘲の笑みが浮かぶ。
 人間てのは不思議だ。時と場所と、対峙する相手により、万華鏡のように変化する。忍の場合、それは多重人格の、別個の個性としてはっきり現れてきているが、何も多重人格とまで行かなくても誰もが幾つかの仮面を持っているものだ。
 同情、歓び、悲哀、愛、憎しみ、怒り、嫉妬、羨望……。
 自己の保全本能に基づく演技。
 あの神父だって、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた時もあっただろう。
 俺は?
 俺はどんな顔して忍を見てる?
 忍にはどんな風に見えているんだろう。
 そんなことさえ気にかかるようになっては重傷だ。
「俺は忍に関することだと人間らしくなっちまうらしい……。情けないが事実だ」
 苦笑する表情は何とはなしに嬉しげだった。
 忍のために。
 あの武器オタクとも付き合おう。
 樹は早々に裏男を呼びだした。
おしまい
 
ふりだしに戻る