天使のいる場所
「忍……、あれから、どのくらい経ったのかなぁ」
時間の概念がないところで、過ぎゆく時を考えるのは愚者のすることである。しかし、たとえ愚者の烙印を押されようが、考えないわけにはいかないと、樹は思った。
胸元に抱きしめている仙水忍は、相変わらず穏やかな微笑みを浮かべたままである。言葉を発するわけでも、樹に微笑みかけるわけでもない。
仙水の死骸は、そのまま時を止めた状態で、鮮度を保っている。けれど、鮮度を保つとはいっても、生き返るわけではない。身体というものは、現世における魂の器に過ぎないが、魂をこうして死んだ器に閉じこめ、側に置いている事自体、本当は仙水に対しての裏切り行為ではないのかと思い始めていたのだ。
病魔に蝕まれた、最も仙水の嫌悪した人間という生き物を器として存在する魂の意味は……。
今では、ただ単に、樹のための存在だった。
樹の愛した仙水は、明らかに人間だったからだ。自分の人間らしさを嫌悪してあがく仙水の姿は、非常に興味深く、愛らしかった。
次に生まれ変わるとしたら、魔界の住人になりたいと、仙水は言い残した。それは、霊界に行きたくないという遺言よりも、後に発せられた遺言である。
「忍……、生まれ変わるためには、一度霊界に行かなきゃならないんだぜ。お前が行きたくないって言ってた所に……」
問うてはみても、答えが返ってくるわけではない。
『忍の魂は、誰にも渡さない』
そう宣言してみたものの、自分の周りの空間のように、心の中まで空虚さが浸食していくのを、どうしようもなかった。
「忍……、忍ってば!」
仙水を揺すってみる。力無く、だらりと腕がさがっただけだった。樹の腕にかかる頭の重みが、右から左へと移った。
この腕も、頭も、ついこの間まで、樹を愛撫してくれ、樹の愛撫にも応えてくれていた。ごく短い間であったけれど、至福の時だった。多分、後にも先にも、あんな愛し方は自分には出来ないだろうと思えるくらい、仙水忍という男に惚れていた。
「どんな形だろうと、もう一度、お前と出会いたい……。心からそう思うよ。忍、俺の裏切りを許して欲しい」
樹は仙水をかついで立ち上がった。
「本当に、知らせてくれるんだろうな」
「うむ、まかせておけ」
コエンマが片手を上げると、仙水の身体は徐々に輪郭を淡くして行き、やがて、小さな輝く玉となってコエンマの手に収まった。
「霊界なんぞに、足を踏み入れる気は毛頭なかったはずが、大切な忍を引き渡す羽目になるとはな」
コエンマの手の中の玉を愛しげに見つめながら樹は言った。
「忍の功績は、忍の希望する魔界への転生を可能にする程度は、罪の減免に役立っている。ワシだって、忍のことでは責任を感じていたんだぞ」
「だから、わざわざ他の闇撫でを使ってまで、俺に繋ぎをとったってか?」
「まあな、忍の最期の言葉、あのままだったら永久に実現しそうもない気がしてな」
まあ、そうかもしれない。
遠い親戚の闇撫で、葵が、いきなりテリトリーに踏み込んできて、しかもコエンマが付いてきたときは、樹も逆上した。だが、考えれば考えるほど、心が揺らいだ。
人間である以上、転生するには、霊界を通さねばならない。仙水とて例外ではない。
コエンマが帰った後、忍を抱き抱えたまま、樹は考えた。悩んだあげく、一つの条件を携えて、仙水の魂を器ごと霊界に運んだのだ。
「忍が転生したら、どこで、何に転生したか、いつ生まれるのか、必ず教えて欲しい。必ずだ!」
樹の仙水に対する執着の度合いに驚きながら、コエンマは承諾した。
「だが、忍の記憶はないぞ。会っても、忍と同じ事を要求するでないぞ」
「分かっている。忍の希望が叶えばいい。俺は、また、影になって新しい忍を支えよう」
コエンマの片眉が上がった。
「樹、お前の忍に対する扱いは、蔵馬達に聞いておる。はっきり言って、お前に新しい忍の居場所を教えるのは、ものすごく苦痛だ。だが、約束だからな。願わくば、お前が、今度こそ忍の真の友人になってくれることを、ワシは期待している」
コエンマの言葉は、樹の核をえぐるように貫いた。一瞬、絶句してしまう。
「……弁解はしない。だが、心なんて、どんどん変わるものだよ。俺にとって、忍は特別なんだ。掛け替えのない……」
恋人……。そう言いたかったが、差し控えた。仙水がもし耳にすれば、必ず否定の言葉を口にするであろうことが、容易に想像できたし、あの、つかの間の秘め事をそのまま完全な秘め事として、胸の内にしまっておきたかったのかもしれない。仙水忍の別人格は除いて、やはり他の者達には妙な邪推をして欲しくはなかった。あの、めくるめくような忍との情事を、単純な欲望の産物として捉えられるのは、甚だ心外であったから。
はたして、新たな忍との出会いは、どんなものになるか……。また、拒絶の繰り返しが始まるかもしれない。
それとも…………。
「ともあれ、今の世は、忍が生きていたら、驚くかもしれないほど変わってしまったからな。お前達がどう生きていくか、ワシも見てみたい気がするよ。三年毎の武術会が続いていれば、いつかは忍も出てくるかもしれんな」
霊界に来てみて、その変わりように、樹も驚いた。きっかけは、やはり仙水なのだろうが、その変化の大きさとめまぐるしさに、すっかり浦島太郎になってしまった気分を味わった。
自分の空間に閉じこもっていた樹は、魔界の変化も、何も、全く知らないでいた。仕掛人は、やはり浦飯幽助。コエンマの功績も大きいらしい。
忍は、この変化を喜ぶだろうか。
否。
魔界の住人達の大人しさに、人間のえげつなさを反映させて、更に人間を憎むだろうなと、樹は想像した。
あの、狂った忍は、死んでよかったのかもしれない。きっと今の世は、彼には耐え難いものだったろう。罪悪感が津波のように押し寄せてくるだろうから。
「忍のこと、今度はきちんと導いてみようと思っている。壊れる前にね」
そう、追いつめるだけじゃなく、支えたい。今の樹は心からそう思っていた。
コエンマが微笑みながら頷いた。
一年後。
コエンマは、きちんと約束を果たした。
思ったよりも早い忍の転生に、これからの不安を思うよりも、樹の心は躍った。
早く忍に会いたい。
その一心で、指定された地点に、樹は全速力で走った。
障気が濃い、愚者の森の一角で、忍に出会った。
新しい忍は、生まれたての赤ん坊だった。その姿から、忍を連想させるのは、額の真ん中のホクロ一つ。
愚者の森自体には、危険度の高い妖怪はいない筈なのだが、忍を生んだ母は、木の枝に引っかかったまま絶命していた。しっかりと忍を抱きしめている。恐怖に歪んだ顔が、死をもたらした原因が暴力であることを示していた。翼の影になってよく見えないが、肩から腰にかけて、背中が引き裂かれている。腕の中の赤ん坊は、徐々に冷たくなっていく母の身体にしがみつき、泣いていた。
白く大きな翼を持つ翼人種。それが忍の種族らしい。
樹は注意深く、羽毛を編んで作られたおくるみごと、忍を母の腕から取り上げた。赤ん坊は樹の腕に収まるとすぐに泣き止み、そのまま寝入ってしまった。
まるで、樹が保護者になることを、当たり前のことと考えているかのように。
「こういうとこ、忍だよな。よく見れば、目元まで忍に似ている……」
無意識のうちに笑みが浮かんできてしまう。本当に忍らしいこの赤ん坊が、どんな風に育つかは、全て樹にかかっているわけだ。
おそらくは、忍の才能も受け継いでいるはずである。
樹は、忍の生みの親を闇の手を使って取り込むと、時の止まった空間に保管することにした。いつの日か、忍が希望すれば、傷口も生々しい母の死体を目にすることもできる。
これは別に、忍を傷つけるための計画ではない。自分の母がどんなだったか尋ねられたとき、言葉を尽くすよりも、一目瞭然で分かった方が簡単だからである。
樹は、赤ん坊を抱きしめ、額のホクロにキスをした。
「忍……、お前の名は忍だ。これから、ずうっと俺が側にいてやるからな……」
屍ガ淵を横切り、脱魂洞門を抜けると、小さな野原に建つ屋敷に出会う。
元は、奴隷商人として名を馳せていた男の持ち家だったらしい。一夜にして姿を消した男が、帰ってこないだろう事を知ると、そこで隷属していた者達は、思い思いの家財などを根こそぎ持って去っていったという。造りが悪趣味な点と、男に踏みつけにされていた者たちの汚濁のすえた臭いさえ我慢すれば、結構快適な屋敷である。
そこで樹は忍を育てた。
翼人種の存在は知っていたが、その生態系に関しては、無知もいいとこだったため、苦労はあったが、忍は結構まともに成長した。
コエンマに見せてやりたいと、時々思うほどである。
ただ……。
翼人種の通例通り、忍は両性体だったのだ。生殖期が来れば、自ずとどちらかに変化するのだが、その時の感情の動きやら何やらで、どうやら選択は成されてしまうらしい。
いや、どちらでも同じ事だ。
非常に不謹慎な話だが、転生した忍に対して、樹は前世の忍そのものになることを期待していたのだ。それは、今の忍を否定することになる。性別なんて、瑣末なことだ。どちらにしたって、以前の忍とは同じになりようがないのだから。
育つ環境が違いすぎる。
性格というものは、持って生まれた素質を三分、後の七分は環境で作られると言ってもいい。
分かっていたことだが、果てしなく強くガラス細工よりも脆い、あの忍はもういない。
樹は自分の愛した忍と、もう一度会いたいという欲求を、消し去る事が出来なかった。
もっとも、だからといって、どう育てれば希望通りになるかなんて、計算したことはないが。
…………。
考え事というのは、時間の感覚を狂わせる。
羽ばたきの音が次第に大きく近づいてくるのに気づいて、樹は顔を上げた。
屍ガ淵から沸き上がる靄の腐臭をかき混ぜながら、魔界の柔らかで陰鬱な光を背に、忍が舞い降りてきた。
真っ白な羽を持つ、まさしく天使となった忍は、それなりに美しく、魅力的だった。また、性格的には素直で優しく、穏和に育っている。
樹は、忍の服装を白と決め、常にそのイメージカラーを意識して、装わせていた。忍自身は、特に抵抗もなく、そのまま受け入れているようである。
つい、この間までは、キューピーのような雰囲気であったのに、三年ですんなりとしたしなやかな肉体を手に入れた忍は、それを見せつけるように伸びやかに手足を差し出し、翼をはためかせた。
「どうした? 忍……」
誘うように黙って微笑む忍の瞳は、サファイアのような深い青色をしていて、樹は吸い込まれるように手をさしのべると華奢な身体を抱きしめた。軽くウエーブのかかった漆黒の髪が、樹の額を優しく撫でた。
重みを感じさせない身体を樹に押しつけると、忍は樹の頬を両手で包み、樹の暗い淵を思わせる瞳を捉えた。
「イツキ……。んとね、ボクのおかあさんて、イツキだよね」
「どうして?」
否定するのは簡単だが、忍の真意を確かめてからでも遅くはないと考え、逆に聞き返した。答え方というのは、大変重要なことである。特に、その相手を育てようとしている立場なら。
忍は地に降り立ち、少し背を丸めて全身に力を込めると、その身を包めるほどの大きな翼をしまい込んだ。
樹の胸に上気した頬を押しつけ、甘えるように鼻をこすりつける。
「きょうはね、シバりクビのキよりむこうまでいったんだ。そしたら、チをハうモノタチがいて……」
眉をひそめながら、樹は屋敷の中へと忍を導いた。
「あの辺には土グモの集落があるんだ。行くなっていっておいたろう?」
土グモというのは、吸血グモである。忍のような人間に近い生体を持つ種族は、上等な餌となってしまう。
「あれ、ツチグモっていうの? あかいめがみっつ、あしがふたつ、てがよっつ。それに、ちいさなてがふたつ。……、ねえ、あんなにてをもっていて、べんりだね、きっと」
「その便利な手で、お前なんか、すぐ餌にされちまうぞ」
「そんなことないよ。みんなやさしいめをしていたもの。ぜんぜんこわくなかったよ。あのね、おかあさんが、あかちゃんをいっぱいつれていたんだ。みんなおなじかおしてんの。ねえ、おかあさんて、すてきだね」
周りの者の善意を信じ切った瞳。それはそれで、樹の大好きなものなのだが……。
「俺は、お前の母さんなんかじゃない! いいか忍、今回は無事だったからいいがな、なんでも手放しで信じるんじゃないよ!」
本当に。体中の血を抜かれてひからびた身体をさらした忍の姿を考えるだけで、樹の背筋は寒くなる。
以前の忍なら、そんなことで心配することはなかったが、未だに最低限の防御の技しか覚えさせていない今、危険なところに忍を放り出すことは避けたかった。
思いがけず樹に怒鳴られた忍は、身をすくませて、後ずさった。少しおびえた風に上目遣いで樹を見つめるその表情は、以前には手に入れることの出来なかったものである。
樹は、忍を抱き寄せて、ため息をついた。忍の肩がかすかに震えている。
「忍……、怒鳴って悪かった。お前は、まだ三つなんだよなぁ。ときどき勘違いしちまうんだよ……。それにね、お母さんてのは、女なの。俺は男だし、お前を育てているけど、親じゃないんだよ。……俺は、ただの樹だよ。わかる?」
「う……ん……、イツキ……、ボクのこと、すき?」
おどおどとした口調でうかがうように、でも期待に満ちた瞳をまっすぐ向け、忍は尋ねた。
樹は殊更に瞳をなごませ、忍を抱く腕に力を込めた。
「好きだよ……、大好きだ」
そう、とても大切だ。たとえ、望み通りの忍でなくても、このあどけない天使は、樹の宝物だった。
天使の微笑みは、安堵の微笑みとなって樹に注がれた。
「よかったぁ、キラいっていわれたら、どうしようかとおもってた。だって、ツチグモのみんなは、きょうだいとかがいっぱいいるけど、ボクにはイツキしかいないんだものね。ねぇ、ボクね、イツキのことだいすきだよ。あ、きっとね、ほかにいっぱいいても、イツキがいちばんだよ」
なんの計算もなく耳元で囁く忍に、樹は新鮮な驚きと愛しさを感じていた。
そうして、少しずつ新生忍に対する違和感が消えていくのかもしれない。
「忍……、俺も、お前が一番だよ……」
ごく自然に樹の唇は、忍の唇を捉えていた。瞬間的な軽いキスだったが、忍の反応は好意的だった。
「いまの……なに?」
樹の唇を指先で撫でながら、好奇心で輝く瞳を向け、忍は言った。
「キス……っていうんだ。好きな人だから、するんだよ。どんな感じした?」
樹も、忍の唇を親指で撫でながら、忍の反応を待った。柔らかでなま暖かい感触の唇。
忍は触覚に集中するかのように目を閉じた。
「キスって、なんだか、きもちいいね。ほんとに、すきなひととするからかな、……ボクからしてもいいの?」
「いいよ、忍がしたいなら……」
おずおずと樹の首に両手をかけ、忍は樹の唇に自らのを押しつけた。先ほど樹がしたように軽く吸う。そのぎこちなさと初々しさが、奇妙な色気でもって樹を誘った。
樹は、忍が身を離そうとした瞬間、強く抱きしめると、もう一度忍の唇を捉えた。何度も吸い上げ、ついばむように柔らかな感触を楽しむ。忍の学習態度は優秀で、樹の動きを真似しながら、キスを返してくるため、最初は戯れだったものが、少しづつ濃厚なものに変化していった。絡み合って戯れていた舌が名残惜しげに引き離されたとき、二人の呼吸は乱れまくっていた。
樹にいたっては、このまま続いていたら何も知らない忍と、行くところまで行ってしまっていたかもしれないと危ぶむほど、身体に火がついてしまったのを意識していた。
「忍……、今のは本当に特別なキスなんだよ。本当に一番好きな人としか、してはいけないんだ」
すべきではないことをしてしまった自分に心の中で悪態をつきながら、弁解じみた教えを口走る樹は、自己嫌悪の固まりになっていた。
忍は、まだ三つである。見た目はどうあれ、ボキャボラリーも貧困な幼児に、エラい事を教えてしまった。
当の忍は、頬を上気させ瞳が潤んでいる。
「イツキ……、ボクのこと、ほんとうにいちばんすきなひとにしてくれたの? ボクとおんなじ?」
細く華奢な腕が、絡み付くように樹の腰にまわされた。甘えるように体重を預けてくる忍は、以前樹が言って欲しかった台詞をことごとく話してくれた。樹は、感動しながらも、果たして成長してからも彼は同じように言ってくれるだろうかと不安な気分にさせられた。
「そうだなぁ、ずっと同じでいられたらいいなあ。忍が俺のことを、ずっと一番好きな人にしていてくれたら、うれしいな」
変なことを言うなという顔で、忍は樹の顔を見上げた。
「ずっと、ずっと、かわんないよ! ボクは、ずっとイツキがいちばんだよ」
あまりに真剣に言うものだから、ついホロリとしてしまった。この天使の気が変わった時には、その足下にひれ伏し、惨めに取りすがって泣いてしまう自分が目に見えるような気がしたのだ。
「忍……、俺の天使。俺だって、忍が一番だよ。ずっとね……」
端で見ている奴がいたら、甘すぎて吐くかもしれないなと、内心ため息をつきながら、その甘さが心地よくて、樹は一人微笑んだ。
「さ、ずっと俺の側にいてくれる気なら、修行に身を入れてくれよ。誰よりも強くなってくれ。お前ならきっとそうなれる」
そう言いながら、樹は忍の肩を抱き、修行の場としている地下室へ誘った。
「つよくなることって、たいせつ?」
「ああ、この世界では大切なことだよ。本当に、お前の知らないような危険が、沢山あるんだ。勉強しなさい、長く生きてゆくために……」
「うん……」
本当は、戦いに長けるより、植物や小動物と戯れる方が、忍の性に合っているのは知っていた。
土グモの連中が忍に手を出さなかったのだって、忍の性格が、彼らの毒気を抜いたからなのだろうと推測できる。だからこそ樹は、忍に防御の技しか教えなかったのだ。天使の微笑みを武器とする今の忍に、攻撃技はあまり必要ない。ただし、悪意のある連中には、忍の天使の微笑みは通用しないだろう。カモられたあげく、殺されてしまうのが関の山である。他人を疑うことや、警戒すること、懐疑心などをどうやって教えようかというのが、樹の目下の悩みだった。騙され傷つく様を黙視して、忍が気づくのを待つなぞ、到底出来そうもない。かといって、忍の美徳である部分を払拭してしまうような考え方を植え付けるのも、忍びなかった。
「飴と鞭ってのは、難しいよなぁ。飴ばっかりやってると、お前は腐っちまうし……」
期待に満ちた目で樹を見つめる忍に目を遣り、樹は大きくため息をついた。
「どうしたの? イツキ、どっかいたいの?」
「俺の手で、お前に鞭をくれてやるってのもなあ」
とてもできない。
「ねえ、イツキ……? だいじょうぶ?」
心配そうに樹の頬にふれる優しげな白い手を握りしめると、樹は裏男を呼んだ。
「実体験に勝る学習はないな」
「イツキ……?」
「忍、これから、おもしろいとこに連れてってやろう。お前の勉強の場にはちょうどいい」
忍の瞳がきらめいた。好奇心というものは、どうしようもない悪戯をすることもあるが、時には便利な道具にもなる。おもしろい所というだけで、忍は行く気になったようだ。
「ねえ、ねえ、どんなとこ? どんなふうにおもしろいの?」
うれしそうに弾んだ声でたずねる忍に曖昧なほほえみを返すと、樹は裏男の手で拡げた空間に忍を引きずり込んだ。
夕闇が、オレンジ色をさらに濃く暗い色に変えながら、丘に立つ二人に迫ってきた。
「あれはなに?」
白い肌を朱に染めるその光を指さし、忍はたずねた。
「夕焼けだ。この世界では、あの色が空を染めるとき、翌日は晴れるという。あれが出る時間を黄昏というんだ。一日の終わり、ひいては終焉を例えてこの言葉を使うときもある」
黄昏、その言葉の意味から受ける印象か、暗く寂しいイメージを浮かべてしまう。しかし、黄昏の次には、黎明がくるのだ。この忍のように。
「……きれいだね……」
魔界にない不思議な空の色をじっと見つめ続ける忍の瞳は、何もかもを吸収しようとする深淵に近い暗さを奥底に持っていた。
本当に綺麗なのはお前だよ、忍……。
胸の内で、そうつぶやき、樹は忍の肩を抱いた。
「行こう。あの色は少しずつ暗くなって、すぐに闇がくる。気温も下がるし、闇に棲む者達は、結構気が荒いぞ」
忍の肩は、まだ樹の脇に収まってしまうほど小さい。華奢な体を樹の体に預け、忍は樹に合わせて歩き始めた。
人目の多いところに出る前に、樹は忍に似合う服装を探して用意した。髪を整え、羽を畳んだまま窮屈そうにそれを着込む忍は、初めて出会った頃の仙水のような容貌になった。この忍、成長するほどに、まさしく生まれ変わりという感じで、面影が強くなっていく。ただし、以前の、全身からわき出る力強さは全く感じられない。ちょうど、ナルや、ヒトシでいた時のような、雰囲気なのだ。
人間界は、ずいぶん変わってしまっていた。そこここに、生前の仙水をはるかに越える気の持ち主が、普通の顔をして闊歩している。
テレビを覗けば、アイドルとして、妖怪の女が登場している始末。
「これじゃ、魔界にいるのとさして変わらないのかもしれんな」
「ここ……、どこ?」
「人間界って奴だ。昔は、本当に、人間ばっかりで、妖怪なんて、ちょっとしかいなかったんだけどね」
人間界という言葉、仙水の嫌いな言葉だったな……。
仙水の好きな人間以外の生物達を、すべて添え物のように表現してしまう、その名称が、彼は気に入らなかったのだ。
「……、人間以外にも、花、虫、動物達、いろんな生物が共存している世界だよ。魔界と基本的には同じだが、強いて言うなら、人間以外のこの世界の生物達は、偉く寛容で穏和だ」
「ふうん……。なんだかうるさいとこだね」
さんざめく雑踏やら生活音やらを全身に浴びた忍は、ほんの少し苦痛に眉をひそめた。
「どこへいくの?」
長く歩くことに慣れていない忍は、小一時間も歩くと音を上げた。
「この辺だと聞いたんだが……」
とりあえず、忍を引きずったまま、高架下の暗がりを遠くから覗き込むようにして、樹はきょろきょろと辺りを見回した。
「ねえ、おなかへったよ、イツキ」
「だから、おもしろい物食わせてやるって! 忍が、初めて見る物だぞ」
「おもしろいものじゃなくってもいいよぉ、はやくぅ」
ダダをこねる忍。そんな姿、目にすることがあるなんて、考えもしなかった。
(か、……かわいい……)
心の中でつぶやきながら、樹は忍の頭を撫でた。声だけは、威厳を持たせるように努力して。
「もう少しだから、我慢しろって!」
高架をくぐり、赤いちらつきを見つけて樹はほっとした。膨れっ面の忍を、前に押し出す。
「忍、あそこだ!」
コエンマから聞いていた場所に、それを見つけ、樹の口元には、久しく現れなかった皮肉な歪みが生じていた。
コエンマの言うとおりなら、あの赤提灯の向こうには、仙水忍の死期を早めた男がいるはずである。死期を早めたとともに、つかの間の満足を、樹の与えることが出来なかったものを与えた男が……。
明るい笑い声に囲まれた屋台の暖簾をくぐると、とたんに沈黙が走った。
「お揃いだったか……」
樹の低い声を耳にし、忍はそこにいた連中と樹の顔を交互に見比べた。
「い……樹っ?」
甲高い叫びにも似た声を上げたのは、次元刀を使って樹の顔に傷を付けた男であった。とりあえず、昔自分をサイコ野郎と罵った男はおいといて、屋台の向こう側で冷静に観察している目に視線を合わせた。
「本当に、ラーメン屋をやってたとはな。元気か?」
「ああ、絶好調って奴かな」
ニヤッと笑って、一升瓶からコップになみなみと酒をついだ。すっと樹の前に差し出す。
「まあ、ちょっとなまり気味なのが気になるけどね」
仙水の時もそうだったが、今の浦飯も、有り余った気を押さえて普通の顔をして暮らすのに力を使っているというストレスが、ほんのり滲み出ていた。以前戦った時より、がたいも大きくなり、線も厳つい感じになっている。
「ずいぶん……強くなった……な……。六年前とは段違いだ。今なら、仙水を捻り潰すのも簡単だろう」
酒をあおりながら、忍を脇に抱き寄せ、樹は挑戦的な笑顔を浦飯に向けた。
小鼻の脇をかきながら、浦飯は屈託のない笑みを浮かべた。
「そうかな、仙水が生きていたら、やっぱり仙水も強くなっていたりしてさ。……俺、あいつに勝ち逃げされたまんまなんだぜ」
「お前、仙水の死骸と一緒に雲隠れしたんじゃなかったのか?」
相手にされていないという意識がないのか、桑原が脇から首を突っ込んできた。興奮しやすい直情型なのは相変わらずらしい。忍が、面白そうに奴を見ている。
「ねぇ、せんすいってだれ?」
たどたどしく聞こえる忍の声は、一座の注目を集めた。
「誰だ? それ……。お前、仙水と二人っきりで時を過ごすんじゃなかったのかぁ?」
「そうしてるよ。確かに……」
樹は、愛しげに忍の頭を撫でた。安心しきった表情で、忍は頭を樹の胸に押しつけた。
「……面影があるだろう? 忍だよ。さあ、忍、ご挨拶しなさい」
またも沈黙。驚きと好奇の注視の中、はにかんだ笑顔を浮かべて、忍はペコリとおじぎをした。驚きの種類は異なっているが、樹は、彼らのこの表情見たさに暖簾をくぐったのかもしれないと、自己分析していた。
「しっ、忍って、仙水……?」
「そうであって、そうじゃない。転生した彼は、新しい忍なんだから……。そうそう、浦飯、忍も俺も、ハラペコなんだ。自慢のラーメンを食わしてくれないか?」
「あ? あ……ああ」
一瞬の間をおいて、浦飯は鍋の蓋を開けた。麺をほぐす手を休めずに、それでも忍を目の端で観察している。
「おいおい、何の目的で、こんなとこ来たんだよ? どうも、お前って腹の中で何考えてるか、不安にさせる奴だよなぁ」
桑原の声音は、訝しげに響いた。今にも、その手に次元刀を取り出しかねない不穏さが、全身から滲み出ている。
「まあまあ、桑原君、もうちょっと話聞こうよ」
相変わらず少女のような顔立ちの蔵馬が割って入った。穏やかな声音ではあったが、やはり瞳の奥に油断ならない刃がちらりと光る。
「樹、君に一つ訊きたい。今頃になって姿を現したのは、その、新しい仙水を僕らに見せるためなのか?」
樹は、軽く肩をすくめた。
「間違えないで欲しい。こいつは、仙水じゃない。ただの忍だよ」
蔵馬は、しげしげと忍の顔を覗き込み、もの柔らかに微笑み掛けた。忍はいつものように、天使の笑顔でもってそれに応える。
蔵馬の瞳に、安堵とも感動ともつかない光が宿った。
「この瞳、翼人種だね。仙水は、ほんとに天使に転生したんだ」
「ほう、物知りだね。その通りだよ。愚者の森でこいつを見つけたとき、俺もちょっと驚いたんだ」
「ほんとに天使か……。魔界にそんな種族がいたんだ。知らなかったな」
浦飯がどんぶりを二つ差し出した。雰囲気は、すっかりラーメン屋の親父である。だが、この男、魔族であり、現魔界の君主である。三年毎のトーナメントは、未だに効力を持って運営されているらしい。
湯気の立つラーメンがよほど珍しいのか、忍は瞳を輝かせながらその匂いに鼻をひくつかせた。
「ねーねー、イツキ、これがおもしろいもの?」
「そうだよ。熱いから、気をつけてお食べ」
箸を割ってやって渡しながら、樹は忍に微笑んだ。
「ああ、箸はそう持つんじゃない。こうだよ、忍」
箸を握りしめてどんぶりにつっこんだ忍に、持ち方を変えてやり、食べさせる。最初の一口を飲み込むと、忍は幸せそうに言った。
「おいしいね」
「良かったね。作ってくれたお兄さんにありがとうは?」
「うん、おにいさん、ありがとう」
魔界の最高君主の作ったラーメンというのは、結構貴重かもしれない。その最高君主は、忍の「ありがとう」を聞くと、相好を崩した。
「おうよ、いつだって好きなだけ食わしてやんぞ」
「う、浦飯いっ」
桑原だけが、懐疑的な声を出して浦飯をたしなめる。
「大丈夫ですよ、桑原君。翼人種というのは、魔界でも穏和で有名だったんです。はっきり言ってしまえば、他種族の獲物として好適種なんですから。おかげで、めっきり数が減ってしまって、ほとんど彼らの存在は伝説と化している始末です。彼らの武器は、戦意を喪失させてしまう天使の微笑みだけと言っていいらしくて。……僕も、実物を見るのは初めてなんですがね」
蔵馬の知識は、生半可ではない。いい加減なことはあまり口にしない男なのをみんな知っているから、桑原もとりあえず静観することを選んだようだ。
「イツキ、たべないの? おいしいよ」
「忍、おかわりするかい?」
忍は、樹の方のどんぶりを覗き込み、それからにっこり笑って頷いた。樹が忍の前にどんぶりを置くと、欠食児童のような勢いで樹のどんぶりも空にした。そんな忍の様子を、樹は瞳をなごませて観察する。
「すっかり保護者じゃないか」
樹と忍のやりとりを見つめながら、浦飯はニヤッと笑った。
「もっと食うか?」
浦飯の問いに、忍は首を大きく縦に振った。
「樹、彼はいつ転生したんだい?」
蔵馬は、あくまでも知的興味でもって忍を見つめているらしい。
「忍はまだ三つなんだよ。誕生日が分からないのが辛いけどね。俺が出会ったときは、死んだ母親の腕のなかで泣いている赤ん坊だった」
「……三つ……?」
全員の視線が忍に注がれた。忍は注視を全く気にせず、三杯目のどんぶりを両手で傾け最後の一滴までつゆを啜った。
「ついこの間までは、ぷくぷくした手足の、キューピー状態だったんだけどね。人間なら中学生か、高校生って感じに見えるだろう?」
笑いを含んだ声で、樹は語った。
「丁度、俺が初めて仙水と出会った頃が、こんな感じだったな」
剃刀のような眼光を持つあの忍とはほど遠い今の忍は、外見は同じような素材だとしても、全く違って見える。
「こいつは箱入りだから……」
愛しげに忍を抱き寄せる樹を冷徹な瞳で見つめながら、蔵馬が言った。
「で……、俺達にそれを見せるために来たのか? 喧嘩を売るにしては、あまりに力の差がありすぎるようだけど」
「……昔を懐かしむ仲でもあるまいし、何の用だよ」
桑原の言うことも、もっともだった。何故、彼らを選んだのか、自分でも分からない。かつて敵だった男達である。あの時は、仙水の目的のために本気で彼らを倒そうと行動した。
しかし、予感があった。今の忍を導くのには、彼らを訪れるのが最も効果的であると樹の第六感が告げていた。
浦飯から与えられた四杯目に集中している忍を横目で確認すると、樹は声を落として言った。
「困ってるんだよ。俺は、基本的に無責任を信条としてきた男だから……」
だから? と言うように、誰も言葉を発せず樹の次の言葉を待っている。
「忍がね、強くなるためには、辛いことも教えてやらなきゃならないんだが。俺にはその試練を与えることが出来ないんだ。天使に生まれ変わってしまった忍に、強くなることを強いるのは、間違っているのかもしれない。俺のわがままだが、忍が、誰の餌食にもならないように、自分で自分を守る術を会得してくれればと思っている」
「で……? 俺達にどうして欲しいんだ?」
浦飯は頬杖をついて、樹の顔を覗き込んだ。他の視線も、全て樹に固定されている。
「俺達は、これから一年、人間界で過ごす。忍に、出来るだけいろんなことを見せ、経験させたいと思っている。お前達のような者の存在も、はっきり見せておきたいと思ってね。何しろ、住んでいたところが愚者の森のはずれなものだから、強力な力の持ち主を見たことがない。人間界で、どう力を押さえて過ごしているか、見せてやって欲しい」
「何のために?」
「目標を定めるためだ。俺が何を望んでいるか、忍に分からせるため……、と、言ってもいいな」
「貴様、性懲りもなく、また歪んだ導き方を……!」
蔵馬の瞳に険悪な炎が浮かんだ。そっと右手がうなじの方に動き、十八番のバラの花が取り出された。
「気のせいか、以前より気が短くなったようだな、蔵馬。誤解しないで欲しいものだ。俺一人を見るより、いろんな奴を見せて、選択肢を拡げてやりたかっただけだよ」
食べ続けている忍の髪を優しく撫でながら、一歩も退かないといった目つきで蔵馬と真正面から対峙した。静かに火花が散る。
「まあ、確かに、樹一人を見て育った方がアブナイ気がするな、俺は……。いろんな奴を、いろんな生き方を知って、自分がどんなにアブナイ奴と一緒にいるか、理解した方が身のためだよ」
桑原がぼそっと言った。
「確かに……。そうかもしれん」
うんうんと頷く蔵馬。
「それに、こいつ、可愛いよな」
浦飯が、手を伸ばして忍の頭を撫でた。餌付けをされた状態の忍は、樹以外の者に、初めて自分に触れることを許した。ほんの少し腹立たしい思いが樹の胸によぎる。そうして、忍が色々な事を知るにつれ、樹を一番だと言ってくれなくなるのが辛かった。
「……失敗だったかな」
「え?」
「いや、何でもない」
あっけらかんとした調子の浦飯に聞きとがめられた日には、そう言うしかない。
浦飯は、わだかまりなぞ微塵もないといった真正直な視線を樹に向けた。
「それで、住む所、決まってるのか?」
「いや、今日来たばかりだから、これから探す」
「ふうん……」
ほんの数秒考えただけで、浦飯はトンと自分の胸を軽くたたいた。
「俺んち来いよ」
ガタガタと周りの反応が激しくなった。
「う、浦飯ぃー」
「幽助、それはちょっと……」
「何だよお前ら、別に問題なんてねえだろ」
「け、蛍子ちゃんどうすんだよ?」
「蛍子ぉ? かんけーねーよ。あの、何考えてるのかわかんねぇ仙水は気に入らなかったけどよ、こいつは、素直で可愛いじゃないか」
忍は、ほめられたのが分かったのか、うれしそうに微笑んだ。
「樹、ほんとにかまわねぇからな。こいつ等がなんと言おうと、泊まる所なかったら、何日だっていてもいいぜ」
「……太っ腹だな……。さすが、魔界の王だ」
実の所、浦飯のこの申し出には、樹も少なからず驚いていた。確かに、この忍はあの忍とは別人なのだから、彼の言うとおり問題にはならないのかもしれないが、樹という、かつての敵が漏れなくオマケについてくる状況である。
「太っ腹といえば聞こえはいいけど、要するに何にも考えてないのよね」
低いトーンに押さえた可愛らしい声に、桑原と蔵馬が固まってしまった。
「……?」
ゆっくりと振り返った樹の目に飛び込んできたのは、大きな瞳をさらに大きく見開いて腕組みをしている女性だった。地味なスーツ姿でいても、一際人目を引くであろう美人。だが、容貌よりも実の濃い中身が彼女を輝かせているようである。勝ち気そうな口元が、慈愛を滲ませながらもひん曲げられている。
「幽助? 関係ないってどういうこと?」
彼女に詰め寄られた浦飯は、やんわりと作り笑いを浮かべて後ずさった。
「け、けけ蛍子、言葉の文って奴だよ。それより、どうしたんだよ、こんな時間に」
「教育実習の帰りよっ。どうせなら一緒に帰ろうかと思って寄ったのにっ。あんた、何考えてんの?」
蛍子の強烈な蹴りが、幽助の鳩尾にまともに入った。
「ったーっ、話聞けよ、こら」
強大な力を持つ魔族が、どう見てもただの人間の女の尻に敷かれている。避けられないわけがないのだ。それなのにまともに受けている。
「浦飯の弱点て……、これかぁ」
ぼそっとつぶやいたのを、蔵馬が聞き逃さなかった。
「幽助に聞こえたら大変ですよ。確かに弱点かもしれないけど、実力以上のパワーを引き出すキーでもあるんですから」
「あいつら新婚なんだよ。蛍子ちゃんはまだ学生だけど、このあいだ籍いれたばっかりでさ」
暗に二人とも、樹が幽助の申し出を断るように勧めている。
「確かに……、野暮な話だよな」
蛍子を連れて屋台から離れた幽助は、忍の方を振り返りながら事情を説明しているようであった。
忍はぽかんと口を半開きにして、蛍子と幽助のやりとりを見つめていた。
「ボクたちのこと、はなしてるの?」
樹を見上げる瞳は、ほんの少し不安げな色が流れていた。
「そうだけど、心配するな。俺達のせいじゃないからね」
「そうだよ、あれは、あいつらの挨拶のようなもんなんだから……」
桑原が優しく言う。
時折聞こえてくる荒げた声の出現頻度が減っていき、穏やかな空気が二人を囲むと、忍は、ほっと息をついた。
「浦飯! 申し出はありがたいが、俺達は」
「何言ってんの、遠慮しなくたっていいわよ!」
樹の声は、蛍子の文切り調に遮られた。未だに機嫌の悪そうな顔をしながら近づいてきた蛍子は、忍に視線を合わせると、瞳をなごませ微笑んだ。後ろで浦飯がVサインしている。
「家なんかで良かったら、いつまでいたって構わないからね。最悪場所がなかったら、幽助に出てってもらえばいいんだから」
果たして、この蛍子の申し出をまともに受けていいのやら。蔵馬と桑原の表情をうかがってみると、どうやら止めるのはやめたらしい。
「…………いいのか? 本当に……?」
幽助と蛍子が二人同時に頷く。
正直言うと、忍の正体を隠さずに住みつけるのはありがたかった。世慣れている樹と違って、忍にとっては全てが目新しい世界なのだ。魔界や霊界が以前よりも人間界に浸透しているとは言っても、異質なものに対する人間の反応が、急に寛大になるとは思えなかった。少なくとも、そういう所に忍を投げ込むのは、もう少しこの世界に慣らしてからと考えていたので、渡りに船状態だったのだ。
「……では、お言葉に甘えて……。忍がこちらに慣れるまで、少しの間やっかいになろう。忍、改めて御挨拶なさい、祝福をね」
「うん……」
忍は背筋をぴんと伸ばし、突然両の握り拳を胸の所にもってくると、上半身に力を込めた。とたんに樹の用意した白いコットンシャツは破かれ、その背に大きな白い翼が広げられた。シャツの抵抗に合い、抜け落ちた何葉かの羽が、美しく奏でられたカノンのように、はらはらと舞い降りてくる。夜目にはまるで白雪が降るように見えた。
「あわわ、なにやってんだよう! んなとこ誰かに見られたら……」
思わず桑原が立ち上がり、あたりの人目を確認する。
忍は、そんな桑原に近付くと、にっこり微笑んだ。桑原の頬が、ほんのりピンクに色づく。魂を抜き取られたかのようにぼんやりと忍の笑みを見つめ動かない桑原に、忍はゆっくりと口づけた。
「わああっ! 樹! あいつ、何なんだっ? いきなり!」
浦飯の慌てぶりは、早くも先ほどの申し出を後悔していると暗に言っていた。
「桑原! 桑原ってばよぉ」
その場に力無くへたりこんだ桑原を助け起こし揺すりながら、浦飯が呼び続ける。
忍は、桑原に背を向け、蛍子の方に向かった。忍の瞳に捕まった蛍子は、そのまま忍の口づけを受ける。桑原を放り出して、浦飯は倒れかけた蛍子を支えた。
「このガキ! 何しやがる!」
一瞬びくっとした忍は、それでも浦飯の首に両腕をかけた。
「すきなひとには、してもいいんだよね」
「なななっ」
忍を払いのけようとした浦飯の手が止まった。天使の瞳の威力を目の当たりにして、樹はヒュウと口笛を吹いた。
忍が身を退いたとき、さすがにへたり込んだりはしなかったが、浦飯も少し頬を赤らめた。口元を隠すように片手で覆い、夢見心地な表情の蛍子を抱き寄せて、まじまじと忍を見つめる。
「何……だか、変な気分だ……」
「……、天使……の口づけ……」
呆然とした表情の蔵馬の口から、こぼれ落ちた台詞は、樹の笑みを誘った。
「よく知っているね。忍の口づけは、祝福の口づけだよ。ほんの挨拶だ」
「ある種の媚薬にもなるそうだね。ああ、俺は遠慮しとくよ」
近寄ろうとした忍を両手で押し止め、蔵馬は言った。
「そう……、周りを魅了する力を手にすることができる。カリスマ性を高めるんだ。俺達には何もないが、天使の祝福を家賃代わりに提供しよう。忍! おいで」
樹に手招きされると、軽やかに身を翻し、忍が樹の側に寄り添った。
「妖怪にも効くんだろうか……。まあ、幽助には必要ないような気もするけど」
蔵馬の問いに、樹は肩をすくめるしかなかった。
「実例を目にしたことがない。……が、それを求めて魔界でも翼人種が狙われることがあるらしいから……、効くんじゃないか?」
「どのくらいの効力があるか知らないが、その天使に、やたらにキスするなとまずは教えるべきだな。見ろ、たいていのことじゃ驚かない奴等でさえ、動揺してる」
「もちろん、教えてあるさ。とくに君、一度拒否した君には、忍は二度と近寄らないよ。そういう意味ではね」
どうも、蔵馬とは気が合いそうもない。何となく普通の会話でさえ争いの原因になってしまいそうな感じで、二人の視線が合う瞬間には、暗い火花が散ってしまう。そんなピリピリしたムードを、敏感に察した忍は樹の服を握りしめ、その背に隠れるようにして蔵馬を見つめていた。
「イツキ……、ボク……どうしたらいい? このひとおこってる……。ボク、いけないことしたのかな」
たどたどしい物言いに、蔵馬ははっとしたようににわかづくりの微笑みを浮かべた。
「忍……くんのせいじゃないよ。ごめんね、驚かせて。その……、僕はそういう祝福は必要なくてね」
忍の顔に、安堵の微笑みが浮かんだ。
「いい子だね、誰かとは大違いだ」
「樹!」
浦飯が呼んだ。既に動揺は去り、けろっとしている。
「お前ら、蛍子と先に帰ってろ。蛍子が全部面倒見てくれるから」
蛍子はといえば、まだ警戒心を完全に解いたわけではない硬い表情で、浦飯の横に立ち、こちらをうかがっている。
浦飯はああ言っているが、素直に蛍子に付いていって良いものか。迷っていた樹をおいて、忍は蛍子の方に飛んでいった。
「本当に、ほんっとおーに、いいのか?」
浦飯ではなく、蛍子に向かってたずねてみた。
蛍子は、人なつこそうに微笑む忍と樹を交互に見比べ、ふっと息をつき、今までの暗さをかけらも残さず明るく笑った。
「構わないわ。本当よ。さっきも言ったでしょ。もしも手狭なら、幽助に出てってもらえばいいのよ。あなた達は、居たいだけいても良いわ。ただし……」
「ただし?」
「自分たちのことは、自分たちでしてね。それと、天使の祝福? あたし達には必要ないわ。自分たちの力で勝負したいから」
しなやかで艶のある髪を揺らし、小首を傾げると、蛍子はウインクした。
「早くいらっしゃいな」
けっこう、勝ち気なお嬢さんだ。それに、芯も強い。
「わかった。忍、行こう」
翼をしまった忍に自分のコートを掛けてやり、蛍子の後に続いた。
「イツキ……」
忍が小声で呼びながら、樹の袖を引いた。
「あのね、あのね、ケイコってひと、やさしいよ。ボク、すきだな。ああいうひとが、おかあさんになるんだね。くちびるがふれたとき、あのひとのきもちがながれてきたんだ。すごく、すごくあたたかいきもち」
「気持ちが?」
「うん、どうしてかな、こういうのははじめてだよ」
また一つ……、能力が発現したのだろうか?
そう思いながら、樹は忍とのキスは差し控えようと考えていた。
樹の、そんな考えには全く思い及ばず、忍は樹の腕にからみつき、甘えるように言った。
「あのね、あのね、ユウスケってひとも、ちょっとこわいけど、いいひとだね。それに、クワバラってひとも……とってもあったかだ。にんげんかいって、みんなこう?」
新しい出会いと経験に興奮気味な忍は、蛍子に聞こえないように声を潜めながらも、弾んだ気持ちを隠しきれないという風に瞳を煌めかせた。これからの生活への期待は、蛍子たちのおかげで不安を大きく上回ったようである。
「……、そうだな、忍、それは自分の目で、耳で確かめなさい。俺には答えられないんだ。自分で決めることなんだよ」
「ふうん、じぶんできめるの……?」
「そうだ」
樹にとって、その状況はけして楽しいものではなかった。それは、忍が樹の腕から一歩抜け出した印であったから。以前の樹なら、このようなシチュエーションに忍を自ら置くことなぞ考えもしなかっただろう。壊れていく仙水を傍観することでその腕に取り込んでいった過程を考えると、今はまるで正反対の行動をしているようなものだ。
仙水が忍でいるときに、苦痛や苦しみをおくびに出さず、樹に正直に見せてくれなかったのが、胸にしこりとなって残っているのかもしれない。常に一緒にいて、常に忍の腹心として動いてきたし、最も忍に近しい者だったはずなのに。多分、仙水忍にとっての樹は、樹にとっての仙水忍とは全く質のちがう存在だったのだ。そういう意味では、殺し合った出会いの時より、ちっとも歩み寄ってはいなかったのかもしれない。コエンマや蔵馬の示唆したとおり、樹の忍への想いは歪んだものだったのだろう。それを、仙水も無意識に感じていたのではないか? 身体を合わせながらも、一番大切な部分で、樹を拒んだのだから。
寂しく、胸の痛い事実だった。ナルの存在などを考えても、忍の拒絶が、樹に対して完全なものではなかったのはわかっている。だからこそ、身体に触れることは許してくれた。だが、心は……。
閉ざされた垣根越しに仙水忍に触れるようなものだ。
だから、樹は、変わろうとした。この、生まれ変わった忍はやり直しのチャンスだと思った。
雁字搦めにしていた腕を少しずつほどいて、樹は忍を一人立ちさせるように動き出した。そうして、自分で立った忍が、樹を選んでくれれば……。こんなうれしいことはないだろう。
樹が、忍の向こうに仙水忍を見ていたとき、その瞳に走った切なさをくみ取ったのか、忍は不意に足を止めると、樹の唇に自らのを合わせた。
軽く触れただけだったが、忍の瞳は潤んでいた。
「どうした?」
「イツキ、かなしそうだったから。……イツキのなかにいる、くろずくめのふくをきたひと……。あのひとは、なんなの? ボクは、どうしてあげればいい?」
「そう……だな、忍がもう少し大きくなったら話したい。今は、こうして、俺の側にいてくれればいい。それだけで、俺は幸せになれるよ」
「ほんとうに? ほんとうに、それでしあわせ?」
「ああ」
「だったら、ボクもしあわせ!」
忍は破顔すると、それだけ言って、軽やかな足どりで蛍子の後を追った。忍の読心能力が弱いものであったことを、樹は神に感謝していた。奥底まで見透かされるようになっては忍を側におくことは出来ないだろう。忍と蛍子の後ろ姿を見つめながら、これ以上この能力が育たぬ事を、樹は切に願っていた。
蛍子に案内された浦飯家は、こぎれいなマンションの一室だった。
「急だったから、あんまりかたずいていないけど、この部屋を使って。狭いけど、我慢してね」
そう言って明け渡された部屋は、2LDKの間取りの中でも、一番日当たりが良さそうな南東向きの部屋だった。十分かたずいたこぢんまりした部屋。蛍子の趣味なのか、パステルカラーで統一されている。
「一番良い部屋じゃないか……。俺達にはもったいないな……」
「いいのよ、どうせ、二人とも寝に帰るようなものなんだから。忍君、これから仲良くしようね」
「うん!」
そう返事をしながら、忍がほんのり頬を赤らめたのを、樹は見逃さなかった。たったそれだけのことで、既に胸の内に荒々しい風が吹きまくってしまう。これから、ますますそんなことが多くなっていくのは分かり切ったことだが、それでも後戻りしようとは思わなかった。
まるで俺は自虐行為をしているようだな……。
そう思うと苦々しい笑いが、腹の底からわき上がってくるのだった。
「樹! はやく、はやく!」
忍の呼び声は、いつもよりずっと弾んで聞こえた。
「忍、あんまりはしゃいで不用意に翼を出すなよ!」
樹の声は、忍のに反比例するように不機嫌に響いた。
浦飯家に世話になり始めてから半年、たどたどしかった物言いが見た目とギャップを感じさせないほどの成長を見せた忍は、すっかり浦飯や蛍子に馴れてしまった。
以前仙水と共に過ごしたときのように、浦飯の家でも、樹はその能力を発揮して2LDKを大きな住空間に押し広げていた。その上、昼間は基本的なハウスキーピングを受け持つことにして、少しでも借りは返そうと考えていた。蛍子と浦飯はそれに頼るようなことはしなかったが、気は心と言うではないか。新婚の家庭に居候するというのは、やはり心苦しいものがある。ほんの少しでも借りは返したい気分だったのだ。だが、樹のそんな思いも、忍には通用しない。子供というのは概して甘え上手で、気が付けば、浦飯家で浮いた存在になっていたのは樹だった。
その日、忍がはしゃいでいたのは、浦飯に案内されて四人で幻海という人の残した山に行くことになったからである。四人で、と、いうところがネックであった。忍の外出は大抵樹と二人で、というのが常だったはずが、最近は四人、もしくは三人である回数が日増しに増えつつあったのだ。
今でも、忍は樹を一番と思ってくれているのだろうか。全く自信がなかった。
「……、ここがどんなとこか、分かるか?」
延々と続きそうな長い階段を昇りながら、はしゃぎながら先を行く蛍子と忍を見つめ、浦飯が樹に声を掛けた。
「目的はわからんが、妖気が強い。この山には、かなりの数がいるんだろう? とりあえず、今日からここに泊まるんだな?」
「そうだ。蛍子には、飯作りに通ってもらうことになってる。ここは、バアさんが俺達に残してくれた土地なんだ。こっちの世界で歓迎されにくい奴等が、身を寄せている。ここには、何重にも結界が張ってある修行場もあるしな。俺も、そこでなら遠慮なく力を出せる。お前の目的に合うかはしらねーが、忍に見せるのも面白かろと思ってさ」
「まあな……。気楽でいいかもしれん」
浦飯は樹の気のない返事に眉をひそめながら、歩を速めて樹の前に出ると、真正面から樹の瞳をのぞき込んだ。
「なあ、あの忍は、仙水みたいに才能って奴、持ってるのかな」
「たぶん……、全てを受け継いでいるはずだ。……そう信じたいね」
「ふ……ん……」
品定めをするような忍に向けられた浦飯の視線を追い、樹はつぶやいた。
「才能はあっても適性はないかもしれない」
「あ……?」
「あの忍は、……そうだな、ナルやヒトシだ。お前が会ったカズヤやミノルとは違う。確かに、今の忍のような優しく素直な面を、仙水も持っていたが、それの裏返しの面である、冷酷で激しく下劣な側面を今の忍は持っていないかもしれない。仙水があそこまで強くなれたのは、両方持ち合わせていたからこそなんだ。ナルや、ヒトシだけではいくら才能があっても、ああはなれないだろうな」
「そう思うなら、なんだって忍に強くなれなんて言うんだよ?」
樹ののんびりした物言いに、浦飯の声音は次第にいらいらとしたひびきを持ち始めている。ストレスの増大した浦飯の身体から発散される気は、障気すら感じられ、弱い妖力の持ち主なら触れたとたんに消し飛んでいただろう。
「さあ……、夢かもしれん。仙水忍と再会したいっていう……。俺は、あいつの喜ぶことなら、何だってしてきた。同胞を殺すこともいとわなかった。……魔界の穴だって、俺にとっちゃどうだって良かったことなんだ。あいつが、ずっと、俺を必要としてくれてれば……、それで良かった。なのに、あいつ、死んじまいやがって……!」
「お前、天使の忍に、カズヤやミノルが隠れていないかどうか、確かめたかったんだろ?」
「そう……取っても、いいかもしれないな……」
「で、見つかったか?」
「……、いや……。今のところは……。俺は、環境と経験の積み重ねがある程度性格を創ると思っている。忍には、カズヤやミノルが形成されるだけの経験がない」
「……それが……望みか…………? お前の……、本当の……」
幽助の低い声は、冷たく響いた。樹の顔にも冷ややかな微笑みが浮かぶ。
「……俺には出来ないさ。あいつに地獄を見せるなんてね。……出来るわけ、無いだろう? 俺は、忍を愛してる」
「だから他力本願を決め込んだってのか?」
「ま……ね……。仕方ないだろう? あのままじゃ忍は長く生きられない」
それは詭弁だろう、と、浦飯の瞳が責めていた。
その通りである。他人を偽ることが出来たとしても、自らを偽ることは出来ない。樹は、忍に地獄を見せて、仙水の面影を取り戻したかった。あの危なげな悲しい微笑みを。どこまでも透明で硬質な光を放つ忍の魂を、ほんの少し爪で引っかいてやる。表情を歪めた忍が、仙水に重なる。それを想像するだけで、仙水との至福の時の思い出がふくれあがり、身体の芯が熱くなる。
樹の矛盾した欲望は、自分でも持て余し気味なものなのだ。
「浦飯、お前こそ、忍に何を望んでいる? お前だって、あの仙水忍と合いまみえるのが希望なのだろう?」
浦飯の溜息には笑いが含まれていた。
「無理にとは言わない。もっともっと、スゲぇ奴に出会っちまったからな。勝ち逃げされてるってのが引っかかってるだけだ。それだって、あの忍が仙水ほど強くなったとして俺が勝ったとしても、俺が仙水に勝ったことにはならない。いくら生まれ変わりだって、忍は仙水とは違う。……なあ、樹、お前、本気で天使の忍を地獄に蹴落とすつもりか?」
「蹴落とすなんて、人聞き悪い……。俺が、何で悩んでると思ってるんだ。天使の忍も愛してるんだよ、俺は……」
「ったくぅ、何してるんだよぉ、二人ともぉ」
忍の声に目を細めて樹は首を巡らした。にこやかに手を振る忍に先に行けと合図を送る。
「最初はね、本当を言うとがっかりしたんだ。コエンマから釘を刺されてた割には、忍に接してみるまで分かってなくてね。だが、俺の悩みは、今の忍も愛しいからこそなんだ。新しい生活も楽しかった。けれど……どんな楽しみでも、慣れてしまえば退屈になるもんだね……。もっと、もっとと刺激を追求してしまう……。そう、たとえば、お前が強い奴を求めて戦いに臨むように……。欲望ってのは底なしだ……。俺は、ストイックな男じゃないんでね」
「わがまま……だな」
「そうだ、俺のわがままだ。だから、押しつけたくはない。視野を広めてやりたいってのも、俺の本気……なんだよ」
「困ったわがまま野郎だな。矛盾した欲望を抱えて右往左往してる。それに振り回される周りの者の身になって見ろってんだ。俺は、あいつに地獄を見せる役なんて、絶対やらないぞ。身を守るために強くするってのは、協力したっていい。だが、あいつを裏切るような真似はしたくない、何があってもな!」
爛々と光る魔族の瞳で凄んで見せた浦飯は、それだけ言うと、蛍子と忍のいるところまで一足飛びに駆け上がって行ってしまった。
「わがまま……ね。あの浦飯にだけは言われたくなかったよな……」
浦飯の背中に大きなため息をぶつけながら樹はつぶやいた。
「樹ぃ! どうしたのぉ? 早く、早くぅ」
忍が元気よく駆け下りてきた。両の足を使って動き回るのも、かなり上手になったものだ。魔界にいたときは、その大きな白い翼を見せつけるようにはためかせ軽やかに動いていたものだったが。
樹の浮かない顔をのぞき込みながら、忍はその吸い込まれそうに妖しい青い瞳でもって樹の視線を捕らえた。
忍のキスをさけるように視線をはずし、樹は忍の頭を胸に抱きしめた。
「樹、どうしたんだよ。本当に変だよ、最近」
忍は樹の腕から抜け出しながら、ほんの少しムッとした声で言った。
心配そうな忍に、先ほどまでの浦飯との会話を聞かれなくてよかったと思いながら、樹は優しく微笑みかけた。
「忍は、今、幸せか?」
「? ……どうしてそんなこと聞くの? 本当は、うんて、言わなきゃいけないのかもしれないけど、樹のつまんなそうな顔見てると、僕は幸せじゃない気がしてくるな」
眉をひそめて言う忍の言葉が、樹の胸を締め付けた。
ほんの少し逞しくなった忍のしなやかな肢体をまっすぐ見つめながら、樹はそれを抱きしめている自分を思い浮かべていた。保護し、慈しんでいた自分とは対照的に、この天使を折れんばかりの力を込めて抱きすくめ、その初々しい身体全体を淫らな爪痕で埋め尽くしてしまいたいと思っている自分の存在を感じ、めまいを覚える。
「忍……、俺の幸せが、おまえの幸せだというのか? 本当に?」
「変……かな……。僕、樹が好きだから……。そういうの、変?」
樹は静かに頭を振った。
「変じゃないよ……。うれしいよ、忍」
喜ばしいことが必ずしも幸福なことではない。忍の気持ちは樹にとってプレッシャーとなっていた。痛いほど真っ直ぐにぶつけられてくる、そんな気持ちに応えることなく下卑た想いを抱いている自分に嫌悪感を持ちながら、尚、それこそが自分であるという自覚もあるものだから始末に悪い。うれしいと答えながら、眉根を寄せて歪んだ笑いを浮かべてしまい、忍の不興を買ってしまうのが最近の常だった。
「さあ、行こう、忍」
いつまでもこんなところでぐずぐずしているわけにはいかなかった。忍を訓練するためにここに来たのだ。予定の一年は、まともな訓練に入らぬうちに半分過ぎてしまっている。力を得た忍がどう変化するか、樹は期待も想像もすまいと決意していた。忍や、自分に対してプレッシャーを課すだけなのだから。
幻海の寺は、とっかかりで感じたよりも多くの妖怪達を収容していた。魔界のような弱肉強食が当たり前の世界で生まれた者達にしては、やけに穏やかな暮らしぶりであった。強い者、弱い者、美しい者、醜い者……。すべてが一緒くたになっている。
「この寺周辺の森にもたくさん魔界から来た者達が住み着いているんだ。きちんと棲み分けができているし、平和なもんだよ。みんな、初代の煙鬼が制定した法律を守っている」
「法律……ね……」
魔界にあって人間界のような秩序なぞ、何ともそぐわないような気がして、思わず口元に苦笑いが浮かんでしまう。現に、忍の母のような、単なる暴力の被害者は今でも存在しているのだ。もちろん人間界にもそれは存在している。だが、魔界のようにそれが当たり前だった世界で法律を振りかざし、おとなしく守っている奴がいるなぞ、ちゃんちゃらおかしいではないか。
「魔界と人間界は、そんなに似てきちまったのか? 俺にとっちゃ、あんまり嬉しくない変化だな。魔界は、弱肉強食のあの雰囲気が好きだったのに……」
浦飯は、樹の言葉を聞くと、ふっと笑った。
「全然似てねーよ。仙水じゃないけどさ、人間の方が罪深かったり醜かったり、すること多いしな。ま、その分可愛かったり、綺麗だったりする部分もあるから、帳尻は合ってるんだろうけど」
仙水は、マイナスの部分しか認めることができなかったが、浦飯は違うらしい。
「あいつは、白黒はっきりしてるのが好きだった……」
「そうだな」
「綺麗なものに少しでも汚い部分があったら、あいつはその存在自体を許せなかった。白と黒の混ざった灰色なんてのは、もってのほかだった。だからあいつは、自分も灰色だったんだ、って知ったときに壊れちまったんだよ」
「仙水って人、理想が高かったんだね。プライドも……。自分の理想と現実のギャップに押しつぶされるなんて、かわいそう」
伏し目がちに、蛍子が口を挟んだ。蛍子と忍の存在を失念していたことに気づき、樹はぎゅっと胸を掴まれる思いがした。
忍の視線は、じっと樹に注がれている。
「仙水って……、仙水って、誰? 前に訊いたとき、教えてくれなかったよね」
忍の瞳は、尋ねながら、答えを聞くのを恐怖しているかのように青白い炎を揺らした。揺れる炎を真っ直ぐぶつけながら、そっと樹に近づき、両の手で樹の頬を捕らえる。樹は、キスを避けようと、忍の手から顔を背けて逃れようとした。
忍の瞳が暗く燃えた。頬に食い込むほど指先に力が入る。
「……、教えてくれないつもり? いいよ、それなら……。ちょっときついけど、キスしなくても読める……」
「待て、忍」
「だめ……、待てないよ……」
苦痛に顔をゆがめながら、忍は目を閉じて樹の中に見えない触手を伸ばし始めた。
「あの、黒い服を着た人……なんだね。樹がいつも悲しい瞳で見つめてる……、あの人なんだ」
「やめろ……! 俺の心を覗くのは!」
「名前は……。仙水……忍…………? 忍?」
樹が振り払う前に、忍は必要な情報を入手してしまった。忍の手は、おもむろに樹からはずされ、力無く垂れ下がった。
「なぜ、僕と同じ名前なんだ?」
忍の瞳の妖しい青い光だけは樹を射し貫こうとでもするかのような勢いを持って樹に注がれている。樹はこの瞬間に、天使が樹の腕からすり抜けたのを知った。
「樹は、どうして僕に忍って……」
「忍、やめな!」
浦飯の低い声が響いた。脅しているわけでもない静かな言い方だったが、有無を言わさぬ威圧感が、そこにはあった。
忍は、びくっとして樹から一歩退いた。浦飯が、忍の腕をとる。
「お前、今、すごくいけないことをしてる。誰でも、触れられたくないこと、あるんだぜ。お前は、強くなるより先に、もっといろいろ覚えなきゃならん事がありそうだな」
浦飯の全身から、怒気がわき上がる。抑えようとしているし、本気で忍をその怒気にさらそうと思っているわけではないのだろうが、身体から滲み出ている分だけで、忍を死に至らしめることは可能だった。
「幽助……」
蛍子が、ほんの少し首を横に振りながら、浦飯の腕に手をおいた。浦飯の怒気が、潮がひくように消えていく。
忍は、浦飯に対して恐怖していた。今までぶつかったことのない、破格の強さを持つ魔族を前に、立っているのがやっとというように硬直して、浦飯を見守る。
蛍子と忍を交互に見て、浦飯はニカッと笑った。とたんに忍の呪縛が解ける。
「……浦飯も変わったな。以前なら、そんな説教臭いこと、絶対口にしなかったんじゃないか?」
樹の言葉に、浦飯はポリポリと頭を掻いた。
「いつまでも同じじゃ、あたしが困るわ」
蛍子の言い方は、大まじめだった。
「確かに……」
全くこのカップルは、独特だ。思わず笑みがこぼれてしまう。だが、笑っている場合ではない。忍の樹への信頼感に、今、ひびが入ってしまったのだ。
「忍……」
樹の差し出された手に、忍は後ずさりして応えた。
「仙水のこと……、そんなに気にしてたのか?」
忍の、どこまでも透き通った青い瞳は、悲しそうな灰色に曇っていた。樹の問いにも、ただ嫌々をするように首を振り、答えない。
多分、口を開けば樹に対する不信感や、泣き言が出てきてしまうだろう事を自覚していたのだろう。口にすれば、また浦飯にたしなめられるかもしれない。言いたいことは山ほどあるのだと、上目遣いの目線が語っていた。
「忍、お前がどうしても知りたいなら、お前の名の由来、教えてやる。もう少し、お前が大人になったら聞いてもらおうと思っていたんだが……」
「樹!」
「いいんだ、浦飯。黙っていた俺が悪い。忍の不信感をこのままに、わだかまりを持ったまま中途半端に生きていくようなことさせたくないんだ」
樹は、自分の表情が、苦痛に歪んでいるのを自覚していた。
「こんなところで、こんな事になるとは思ってなかったんだけどね。浦飯、忍と二人きりで話したいんだが」
浦飯は肩をすくめただけだった。勝手にしろということだろうか。
「忍! 来なさい」
「いやだ」
「お前の言い分も、聞きたいことも聞こう。それとも、俺とは話すことも嫌なほど俺のことを嫌いになったか?」
忍は、樹の強ばった声に反応して、はっと顔を上げた。あわてて頭を振る。
「違う……! 違うけど……」
聞くのが怖いのだと、その瞳は明確に語っていた。
樹は、けだるげな笑みを浮かべ、右手を挙げた。背後に闇の手が浮かび上がる。闇の手は、忍の周囲をつかみあげ、開いた空間に忍を取り込んだ。
音も、色も、何もない空間は、心細さを増長させる。
「ここは……?」
辺りを見回しながら、忍は樹に尋ねた。ギャラリーを気にしなくなってか、少し表情が柔らかくなっている。
「お前は、初めてだったな……、ここは、俺が死んだ仙水と一緒に時を過ごしていた空間だ。……、時を過ごすってのは変か。この空間は、時が止まっているんだっけ」
懐かしそうに遠い目をした樹を見つめながら、『仙水』という名を聞いたとたんに忍の表情が強ばる。
「お前の考えているとおり、お前の名は、仙水忍からもらったものだ」
やっぱりというように忍は目を閉じた。
「どうして……」
「俺の心を覗いてごらん、俺が、仙水と初めて出会ったときの仙水の顔を……」
言いながら、樹は忍の手を取り、自分の額に当てさせた。
「これは……」
忍の声が震える。額から、忍が震えているのは声だけではないことが伝わってきた。
「僕……、僕は……」
「そうだ。お前は仙水忍の生まれ変わりだ。俺は、生まれ変わった仙水と出会いたくて、霊界に仙水を引き渡した。お前を拾ったときの喜び、想像できないだろうな……」
「僕が、仙水だから……、生まれ変わりだから樹は……」
涙でしわがれた忍の声は、聞き取りにくいくぐもったものになっていた。しかし、言いたいことは、聞く前から樹には予想がついていた。
「お前を、仙水の身代わりにするつもりはない」
「うそだ!」
「お前は、あくまでも、忍だ。仙水じゃない」
「樹は仙水を思い浮かべるとき、すごく切ない気持ちになるじゃないか」
「当然だ。俺は仙水を愛していた」
「じゃあ、僕を一番だって言ったのは? あのキスはなんだったの? 樹は嘘ついてたの?」
「仙水は死んだ。魂は、お前が持っている。俺の一番は、今はお前だ。それは嘘じゃない」
「じゃあ、何で……? 樹は僕を見ると……!」
そのまま忍は口ごもってしまった。忍は、樹の変化に気がついていたのだ。樹の瞳に、苦い笑みに、失望を見いだして、気持ちを揺らしていたのだ。
肩をふるわせる忍を、樹は抱きしめた。瞬間抗った忍は、それでも樹の執拗な抱擁に根負けした形で、樹の胸に身体を預けた。
樹の穏やかな声は、どうか解ってほしいというような、すがる響きを持っていた。忍の耳元にささやく。
「お前は仙水じゃない。だが、同じような姿や魂を持っていると思うとつい比べてしまう。お前は忍だ。天使の忍だ。わかっているはずだった。死んだ仙水を引きずっているのは、今となってはお前を悲しませるだけなんだって……。俺は、お前のことを大切に思っている。生まれ変わりじゃなくても……ね。本当だよ」
「心をコントロールするのは難しい……ってことだね」
天使の忍の、冷たい声音。樹の背筋に、奇妙な戦慄が走った。忍が変化している。
「忍……?」
樹の胸を押しのけ、忍は樹を振り払った。
忍の、いつも慈愛に満ちていた瞳は、氷のように冷たい光を浮かべて樹を見つめていた。
「樹の一番は、今でも仙水忍なんだ。僕じゃない。樹が、どう言い訳しようと、僕には解っちゃったんだから……。僕は、身代わりなんだって……。解ったから……」
忍の頬を伝い落ちる光に、樹の瞳は釘付けになった。忍の表情は、いつになく虚ろな、そう、まるであの、仙水忍のような表情を浮かべていた。
全く不本意なことだが、樹は、誰の手を借りることもなく、忍を、自分の大切に守り育ててきた宝物を壊してしまった。
「僕には、樹しか、いなかったのに……。樹にはいたんだ。僕よりも大切な人……」
「だから仙水は……!」
「僕はどおせ子供だからね。大人の樹が、僕より前に一番だった人がいたって、当たり前だけど。だけど……! 樹は嘘ついた! 僕だけだなんて! 今だって、僕だけじゃないのにっ!」
「……」
激しく言いつのる忍に、樹は戸惑いを感じていた。
『たとえ何人いたって、樹が一番だよ』
そんな台詞が頭をよぎる。今の忍の怒りは、樹がいくら望んでも、仙水の時には得られなかった種類の怒りだった。おもわず安堵のほほえみを浮かべてしまう。
「なっ、なんだよ」
「忍が可愛い……」
頬を朱に染め、忍は自分の怒りが空回りしていることに更に怒りを募らせた。
「こっ、子供扱いするなっ!」
噛みつきそうな勢いの天使を、樹は抱き寄せた。激しくもがき抗う忍を、嬉しそうにのぞき込み、その唇を自らので塞いだ。
忍の瞳は、驚きに見開かれ、次第に甘く閉じられた。
特別なキス。あのとき以来、していなかったのだが、忍は覚えていた。唇が離れたとたん、忍は大きなため息をついた。
「一番の好きな人としか、しちゃいけないって言ったくせに……! 特別だって言った癖にっ! これも嘘だったんだね。今、僕にするなんて……ひどい<」
頬を上気させ、瞳を潤ませて、樹を責める口調は悲しげだった。
「忍は勘違いしてる……」
「え?」
「俺は、仙水忍に愛されてなんかいなかった。俺の、ほとんど一方的な思いだったんだよ。ずっと一緒にいたけど、あいつとはとうとう最後の溝を埋めることができなかった。かなり近づけたけど、俺達の関係は特別だったけど……。だけど、対等じゃなかった」
自分の口で言いたい台詞ではなかった。こんな事を言えてしまう自分が嫌だった。あの忍に愛されていなかったと認めるなんて……。
多分、樹の表情に、自嘲と惨めさを認めたのだろう、忍は、樹の顔の傷をゆっくりと指で撫で、哀れみの色を濃くした瞳を向けた。
「傷が……泣いてる……」
いったい、自分は、この天使に何を望んでいたんだろう。ガラス細工のような美しい仙水忍の心に泥をかけ、傷つく様子を見て悦に入っていた下卑た自分を抑えつけるように、赤ん坊を育ててきたはずではなかったか? 同じ轍を踏むつもりは毛頭なかったはずなのに。全く理不尽な理由で天使を傷つけてしまった樹を、この天使は逆に哀れんでいる。
忍の優しい指の感触に酔いながら、そんな情けない自分に対峙させられたことで、心憎く思っている自分を見つけ、樹は更に惨めな気分になっていた。
「俺は、お前を一番だと思ってるよ。怖いくらいにね。お前となら、もっともっと、近づけそうな気がしていた。それに、お前が、俺のことをそういう風に一番好きだと言ってくれる度、俺は、救われてきた。だが、同時に、とても辛かった。俺が、本当は、どういう目でお前を見ていたか、お前が知ったら俺のことを嫌いになるかもしれない。それとも、仙水みたいに俺のこと、ぎりぎりで拒絶するか……。俺は、お前に一番だと言ってもらえるような奴じゃないんだ。嘘だと思うなら……」
忍の手が優しく樹の唇を塞いだ。
「さっきのキス。ほんの一瞬だったけど、樹があの人としてたこと、見えた。樹が、僕としたがってるのも……。そんな自分を後ろめたく思ってるのも……わかった」
この天使、解ってるのか、解ってないのか……。樹の頬まで熱くなってくる。
「僕のこと……、扱いに困ってるんだね。僕が、仙水と違いすぎるから。その上、中途半端に心が読める……」
「そうだ。お前は、仙水じゃない。仙水は、そんな目で俺を見なかった。そんなふうに……俺を……」
樹は、忍の頬を両手で押さえ、真正面からのぞき込んだ。青い瞳が、きらめきながら、樹を見上げる。
「…………? お前、俺と……したいって思ってる……?」
忍が、瞳を和ませた。
「そうだよ。樹も、心、読めるの?」
「いや、不思議だが、お前の目を見てたら、わかった……気がする」
甘い笑みが、忍の面に広がった。男のものでも女のものでもない色気というのがあるとしたら、今の忍のそれが当てはまりそうだ。
忍の双眸に吸い込まれていきそうになる自分を危ぶみ、樹は視線を逸らした。だが、忍の手がそれを阻んだ。逆に樹の両頬を包み込むように固定し、樹の視線を捕らえて離さない。
「僕……、樹に教えてほしい。あの人としたこと、僕にもしてほしいんだ。知りたいんだよ、全部……」
天使に迫られるなぞ、考えたこともなかった樹は、彼を押し倒す妄想を抱いたことはあっても、その逆は頭になかった。いざ、それに直面したとき、樹の頭は真っ白になった。
樹に押しつけられた忍のしなやかな身体は、かすかに揺れて樹を誘っている。翼人種というのは、こんなにも早く色気ってものを身につけるのだろうか。
樹は、かろうじて残っている理性の力を借りて、忍の肩を押しのけるように自分から忍を引き剥がした。
「やめ……ろよ、忍」
据え膳を食うのは樹の趣味ではない。にもかかわらず、樹は、この天使の誘惑に逆らえそうもないことを自覚していた。現に、樹の身体は、臨戦態勢に入ってしまっている。先ほどのキスと、忍の誘惑の瞳は、それだけで樹の全身の血液をたぎらせてしまっていた。
「樹……、お願い、教えて……。今……」
樹は一呼吸おくために瞳を閉じた。
「お前って奴は…………。冗談なら、やめてくれ。俺は……、もう……」
抑制の限界を意識しながら 低く震える声で言うと、忍の細い腰に手をかけた。ジーンズのザラザラした手触りが、やけに新鮮に感じる。
忍は、自ら樹に身体を押しつけてきた。両腕を樹の首に絡ませ、まず、やめる意志はないと示すように、ぎこちなく樹の唇を奪った。
樹の理性がはじけ飛ぶ。
忍の重みに耐えかねたかのように、樹は忍の上に倒れ込んだ。忍の瞳をのぞき込み、その深みにはまりこんだ自分の姿を見つめる。そこには、欲望に負けた情けない男が映っていた。堕ちていくことに、もう、ためらいも見せていない男……。
「忍……、悪いやつだ……。こんな事するなんて……」
からみついてくる忍の腕をほどき、樹はもう一度忍の唇を塞いだ。舌を絡ませ、忍の反応を確かめながら、丁寧にシャツのボタンをはずす。たくし上げたシャツの間から、吸い付くようななめらかな肌にそっと指を這わせるとおののきが走り、戯れていた舌の動きが止まった。樹の唇は、顎から首筋、鎖骨へと這ってゆく。
「あ……」
うっすらと開かれた唇から、かすれた声が漏れる。細く華奢な指先が、樹の背を這い、ときおり、電流が走ったかのように樹の服をつかみあげる。いつの間にか忍の手も、樹の素肌を這っていた。忍の手に促されるように、樹の手は忍の股間に差し込まれた。そこには、硬くなった小さな忍の分身がいる。
「や……あ……あ、それって……、ひ……、樹、僕……」
「忍……、シャツ、脱いで」
熱い息混じりで、やっとそれだけ言うと、樹は忍のジーンズのジッパーをおろし、へその下まで舌を這わせた。
「う……あ……。い……樹……! お願い……、僕、僕を……。嫌い……にならないで……」
「好きだよ、忍……。俺の……、俺の天使……」
両性具有の翼人種の、しかも未分化な身体にも関わらず、忍の秘部は立派に樹の愛撫に応えていた。
小さなそれを、唇と舌で転がすと、忍の身体がその動きにあわせて弓のようにしなり脈打つ。小刻みな戦慄を樹の口腔に伝えながら、忍の声は次第に高らかな悲鳴に変わっていった。声とともに、身体の方も忍が高みに上りつめていくのを表していた。全身が痙攣する。
「あ……ん……あ……。ね……、樹、翼……出してい……い?」
「だめだ。今はだすな……。出せば痛い」
樹は自分のパンツのジッパーをおろし、燃えたぎり屹立している自分の分身を束縛から解放した。痙攣から弛緩へと緩やかに変化した忍の両足を肩に担ぎ上げると、忍の腰を両手で持ち上げ、ゆっくりと忍の柔らかな火口に差し込む。
「あう……!」
忍の苦痛の叫びは、やがて細く長い息の流れに変化した。忍の腕は空間を舞い、樹の顎を捕らえると、掻きむしるように撫で上げた。
樹は一瞬躊躇した。忍の苦痛の悲鳴は、瞬間樹の理性を呼び戻した。罪悪感がさざ波のように押し寄せる。動きの止まった樹に、忍は懇願した。
「やめないで……! 樹、最後まで…………!」
「忍……!」
樹は忍の手を這わせるに任せ、ゆっくりと腰を回しながら、忍を突き上げた。リズミカルな樹の動きにあわせたかのように忍の叫びが響きわたる。
「あ、……あ。これって……これって……。はぁぁぁぁぁ……ん……ん……」
「忍、忍! ……今、俺達……一つに……なってるんだよ……。わかる……か? 俺の……、俺の気持ち……」
息を荒げてそう言いながら、樹は忍の中に流し込んだ。様々な想いを、その流れに任せて忍にぶつけた。噴出した次には、弛緩が来る。心地よい疲労感がお互いの顔に広がり、しばし二人は横になったまま無言で見つめ合った。
上気してうっすらと汗のにじんだ額に張り付く黒髪を優しく掻き上げ、樹は忍の額のホクロに口づけた。
「痛かった……?」
忍は、樹の労りが嬉しかったのか、満ち足りた微笑みを返してきた。
「うん……。でも、嬉しかった……。なんか、樹が入ってるときね、樹、僕のことだけ考えてくれてて、樹のこと独り占めしてるんだなあって思ったら嬉しくて……。痛いより、いっぱい嬉しかったよ」
「翼……、出してたらどうなったかな……」
「わかんない。出したくなっちゃったんだ。あのとき……。だけど、樹の言うとおり、出してたら、もっと痛かったと思う」
「翼の出せるやり方……、しようか?」
「え?」
「今ので、半分なんだ。後の半分、忍にできるかな……」
「どういうこと?」
「さっき、俺が忍にしたこと、忍がするんだ。俺が手伝うから…………」
樹の手はいうより早く忍の分身にのびていた。
「あ……」
樹の指先で目覚めさせられたそれは、忍の頬を紅潮させた。
「樹、なんか、僕……、変……。本当に、またしたくなったよ……」
「忍、起きて。教えてあげるから」
樹は忍をひざまずかせると、忍の口にそっと親指を押し込んだ。
「ん……」
「舐めてみて。……歯はたてるなよ」
言われたとおりに樹の親指を舌が撫でる。
「いい子だ」
指をはずして、口づけた。長く濃厚な口づけの後、半開きのままの忍の口を樹は優しく指でこじ開けた。それから忍の頭を抑えたまま立ち上がり、そそり立つ分身をその口元に押しつけた。自然忍はそれに口づけることになる。
「さっきみたいに、しゃぶってごらん」
「これ……樹のを? 指と違って、……僕に出きるかな……」
忍は不安そうに眺めてから、樹のペニスを手にすると、ゆっくりとほおばり始めた。ぎこちない動きが、戦慄となって樹に広がる。
「う……」
樹の口から漏れる声に、忍は一度顔を上げ、樹に微笑みかけた。
「そう、っ……。……忍、いいよ……。いい……っ」
忍の動きが速まり、執拗な刺激が樹に走る。熱い息の間から樹はかすれた声を上げた。
「忍、俺……出すから……。飲めたら飲んで」
樹の出したものは、一滴残らず、忍の喉を通っていった。すでに途中から、樹の指示はいらなかった。忍の舌と唇の動きは樹を簡単に上り詰めさせたのだから。
樹を飲み干し、舌なめずりしたその表情は、天使の変化を物語っていた。
出した後の脱力で弛緩した樹の身体を支え、忍はゆっくりと唇を這わせながら、立ち上がった。そして、樹の唇を塞ぎ、樹の味を本人に伝えた。
「次……、どうするの?」
樹は、身体の芯のくすぶりを持て余し急いていた。何度となく仙水忍によって貫かれた場所が、新しく懐かしい刺激を求めてひくひくと痙攣する。
「お前が、俺の中に入るんだ。後ろに回れ。場所……、わかるな?」
「ん……」
返事とともに、樹の背に重みがかかり、忍の手が樹の尻を鷲掴みにするのがわかった。忍に貫かれた瞬間、樹は驚きに目を見張った。痛みの度合いが、想像よりも激しい。何度も突き上げられ、やがて流れ込んできた熱い奔流にいたっては、思わず背後を確かめてみたくなったほどである。
重く空を切る羽ばたきの音とともに、吐息が聞こえた。
「樹……、これ、いい。すごく、気持ちいい。なんか、解放された感じ。僕、好きだ」
かすれてはいるが、確かに忍の声である。
未分化で、先ほど樹が念入りに舌で愛撫してやったときは、上り詰めても出せなかったのに。樹を貫いたときは、激流が身体を通っていった。忍が離れた時、両足をつたって、逆流したものが流れ落ちたほどである。
「忍……、お前……。分化したのか……?」
若々しい身体から線の細さは消え、樹の身体で交わることを知った天使は、完全な分化を終えていた。
交わり方で決まったのか、忍の意志で選んだのか……。とにかく、そこには、翼を広げた男性体がいた。
「樹と同じようにしたかったから……。こうなった」
やんわりほほえみながら、忍は樹を抱きしめた。
「俺と……、同じに……?」
「僕は、待ってるだけなんて、嫌だからね。樹のこと、仙水忍がどう扱ってたかなんて、僕は知らないけど、僕は、こうして抱きしめてキスして……、樹と一つになるのが好きだから」
「そんなことで、自分の方向を決めちまったのか?」
樹は、頭痛を感じていた。
忍の選択の理由が本当にそれだけなら、何も男性体でなくてもよかったわけで、つまりは樹の導き方に問題があったという事になる。自分で墓穴を掘るのは、好ましくなかったので指摘は差し控えたが。
樹のため息を聞くとほんの少しむっとして、忍は、樹を抱く腕に力を込めた。みしみしと樹の身体がきしむ。
「そんなことなんかじゃないよ。これは、僕にとって一大事なんだから……。樹がさっき欲しがってたの、大人のあれ……でしょ? 僕、急いで変化したんだ。樹に、失望して欲しくなかったから」
「忍……」
樹は忍の腕から抜け出し、距離を置いた。
もう、なんと言ってよいかわからなくなっていた。樹の希望は、ある意味ではかなえられたのだ。だが……。
「忍、俺がね、一番お前に望むものは自立だ。忍の気持ち、一々ものすごくうれしいんだけどね。忍が、何にもとらわれず、自分で……自分だけで生きられるようになって、それでも俺を一番好きだって言ってくれたら。そしたら、もっとうれしい」
忍は、ただ黙って樹を見つめていた。
「した後で言う事じゃないかもしれないけれど。自分を大事にして欲しいよ。俺のためじゃなくて、忍は、忍のために生きて欲しいんだ。俺は、そんな忍を見てると幸せになれる……」
「強くなれって……、そういう意味? 今の僕じゃ、どうしても、樹の気に入らないんだね」
忍の低くうなるような声は、周囲を凍結してしまいそうに冷たかった。
「そ、そうじゃなくて……! お前は、まだ子供なんだ。身体が大人になっても、学習が足りない。俺は、まともな教師じゃないから、ろくな事教えてやれなかったが」
「勉強したら、僕を愛してくれる?」
「そのときは、俺に愛して欲しいなんて思わなくなってるかもしれないがね。とにかく、お前が学ぶ姿を俺に見せてくれ。俺は今だって、お前を愛してる。じゃなきゃ、あんな事しなかった。本当に、愛してる人とすることなんだからな、あれは……」
忍は、肩を揺すって高笑いをした。
「嘘つきだな……。単なる身体の欲望でもするくせに……。僕が誘ったからしたんだろ? 樹って、本当に嘘つきだ。だけど、僕は、樹が好きだからね。それに、さっき、してくれたこと、欲望だけじゃなかったのもわかってるから、許してあげる。……そのかわり……」
忍の瞳が細められた。
樹は忍の妖気が増大していることに気づいて驚愕した。体の自由が利かない。忍の双眸は、青白い輝きを増していて、それを真っ直ぐ樹に向けていた。
「僕ね、さっきの、すごく気に入ってるんだ。樹が欲しい……」
「な………………!」
「樹の身体が、あの人のを欲しがったみたいに、僕の身体がね、樹を欲しがってるんだ。今から、嘘ついたこと、後悔させてあげるよ」
忍はゆっくりと舌なめずりをしながら、動けないでいる樹の腰に手を伸ばした。
魔界における天使の存在は、やはり一般的な天使のイメージとは趣を異にしていた。
自ら連れ込んだ空間で、天使に何度も犯された樹は、よれよれになった身体の痛みを誰にも訴えることもできず、何事もなかったようなふりをして裏男に自分等を運ばせた。
時間のずれをほとんど感じさせない時点に戻ってきたせいで、忍の変貌ぶりが浦飯達を驚かせた。
「どこで、修行してきたんだよ? どっかの漫画みたいな、一日で一年たっちまうような部屋とかか?」
浦飯の第一声である。
「時の止まってるところだよ。樹にいろいろ教えてもらってね」
含み笑いをするようになった天使は、何となく高潔な雰囲気を失ってしまったように感じさせた。蛍子は、ただ黙って眉根を寄せて、忍を見つめている。
浦飯は、好奇心まるだしの目で、忍に質問をぶつける。
「それって、自分たちの時も止まってるわけ?」
「動けるんだからちょっと違うな。周りは完全に止まってるけど、樹のそばだけ、少し時間が動いてるみたいな……流れの違う場所なんだよ。きっと」
「何だぁ。そんなところがあるなら、何もこんな所来なくたって……」
「浦飯、ただの修行じゃないんだ。忍に、選択肢を与えるための……」
「あ、そうだったな。……樹、疲れてないか? どんな修行したんだよ?」
「……企業秘密だ」
樹のぼそりと言った台詞に、忍はふっと息を吐くようにかすかに笑い、一人で寺の奥へ向かった。
浦飯は、舌打ちしながら、樹をこづいた。
「ちっ、蔵馬みたいな事ゆーなよなーっ」
そうは言っても言えるようなことは何もしてこなかったんだから、仕方ない。
「樹さん……、忍君に何を教えたの? あの子、なんだか、うまく言えないけど、怖い感じになったわ」
蛍子は、心配そうに忍の方を見やり、言った。当の忍は、幻海の寺に住む妖怪達を物珍しげに眺めに行ってしまった。それを見送り、樹は十分聞こえないと判断できる距離まで忍が離れてから口を開いた。
「忍は……。両性具有の未分化な身体から、男性体に変化したんだ。俺も、あんなに早く成人するとは思っていなかったんだが。あんまり成長速度が速すぎて、心の育つ速度が追いついていかないんだよ。今は、とても危ないバランスでもって忍って奴が成り立ってるんだ。それに、俺の不勉強で、知らなかったことだが、成人した翼人種は、結構妖力値が高い……。つまり、奴は、俺のことが殺せるほど強くなっちまったんだ。ろくに訓練もしないうちにね」
「怒りが……、原動力か? お前が忍を怒らせたから……?」
「浦飯は、そう読むか? 俺があいつを傷つけたせいで、分化が速まったと……?」
忍の、樹が欲しいと舌なめずりしたときの表情を思い出し、眉根を寄せた。忍に付けられた傷よりも、胸が痛い。
「い、樹?」
浦飯の素っ頓狂な声で、樹は自分の頬が濡れているのに気づいた。
「あ……?」
はらはらとこぼれ落ちる涙を手に取ってみて、ぼんやりと見つめた。
「な、泣いてるのか? 悪い、俺、そんなに樹が責任感じてるなんて」
おろおろとあわてる浦飯に、笑って見せたつもりだったが、顔が歪んだだけだった。
「驚いたな……。俺は……泣いてるのか……。疲れてるのかな……、情緒不安定になってるみたいだ。忍が、天使の忍が、俺のせいで堕ちてしまったのかと思うと……」
純真で透明だった忍の瞳には、肉欲や、不信感で濁りが加えられてしまった。こんな形は望んでいなかった。本当に。
「俺って、どうして、こう、詰めが甘いんだろう……」
額に手をやり、自嘲の笑みを浮かべ、樹はつぶやいた。
「樹……」
浦飯は樹の背をぽんとたたいた。
「大丈夫だよ。これから、いろんなこと知っていけば、忍もわかるよ。お前がどんな思いであいつを育ててきたか……」
「そうよ。大丈夫。あんなに優しい子だったんだもの。わかってくれるわよ」
「これからの俺次第……てことか?」
夫婦二人で頷かれた日には、説得されるしかない。やはり、この二人のところにやっかいになったのは、失敗だったかもしれないと、樹は思い始めていた。あんまりにもまともすぎる。まともすぎて、樹の置かれた状況を説明し、最初からそのつもりはないが、相談に乗ってもらうなどもってのほかであった。
忍をまともに導くのには、この二人を頼るのが正解かもしれないが、樹という、まともでないファクターが関連するのを大前提にするなら、不正解になる。
まともでないファクター……。
自分で考えてみて落ち込んでしまった。
「俺は、忍のそばにいない方がいいのかもしれない」
忍に犯されながら、最後の方では、のどの奥から自然に絞り出されてくるようなよがり声をあげてしまっていた自分。既に主従は逆転してしまった。
忍にとっては、樹は最悪の教師にしかなれなかったのだ。
プライドはもとより捨てている。こと忍に関しては、なりふり構わずのようなところがあったから。だが、これからのことを考えると、どうしても暗い気分になってしまう。
「俺がいると、どうしても忍を壊してしまうようだ。ここに忍を預けて、俺は出ていった方が……」
「ちょっと……違うと思うな」
蛍子が遮った。
「なにが?」
「忍君の側にいない方がってこと、違うと思うの。今、樹さんが、忍君から離れたら、忍君は、やっぱり樹さんに見捨てられたんだなって思うと思う。ただでさえ、自分のこと、代用品かもって疑ってるのに、そういう背景がバレたとたんに離れていくって、忍君の疑惑を肯定することになっちゃうわよ。本当に壊れちゃうかも……」
「うーっ……」
「だいたいさあ、樹は忍のこと甘やかし過ぎなんだよ。してやれることとやれないこと、していいことと悪いこと、ちゃぁんと教えてやらなきゃぁ」
ぱんぱんと樹の背をたたきながら浦飯が言う。
……、してはいけないことなら、今も教えてきたところである。
「やけに珍しい奴が説教たれとるな」
突然割って入った聞き覚えのある声に、浦飯と樹はぴくっとして振り返った。
「だ、か、らぁ。後ろから突然来るの止めろってのにっ」
コエンマは相変わらず涼しげな微笑みを浮かべながら不似合いなおしゃぶりをくわえている。
「よいではないか。どうでも……。おう、樹、元気にやっとるか? お前が、よりによって幽助のうちに居候してるときいてな。忍も元気か?」
「霊界は暇なのか? こんな所まで覗きに来るなんて……」
「誰かさんが、きちんと子育てしてるかどうか、気になったんじゃ」
「忍が翼人種に生まれ変わるにあたって、霊界は、何か手を加えたのか?」
「? まさか。そんな権限は、ワシらにない。何だ、翼人種だと不都合か?」
「不都合とかそういう問題じゃない。その存在すら魔界でしらん者もいるくらい希少な種族じゃ生態もわからんから、育てるのに四苦八苦だった……」
「楽しかっただろう?」
「……まあ……な……。それに、あいつはすごく可愛い……」
「かあーっ、これだから過保護になるんだよっ。たまには突き放せっつーのっ」
浦飯に言われると、なんだかムッとしてしまうのは何故なんだろう。
「確かにその通りだ。だが、あの天使に甘えられて、それを拒否できる奴がいたら、会ってみたいよ。俺には出来ない」
「出来なくても頑張るの! 結局あいつのためなんだからね」
一々ごもっとも。愛の鞭ってのを、樹だって知らないわけじゃない。だが、理屈じゃないんだと、心の中でつぶやく。
コエンマは、浦飯と言葉を継げないでいる樹を交互に見た。
「一体全体、どうしたというんじゃ? 子育て論議か?」
「忍がグレたんだよ」
「はあ?」
「樹が、忍の向こうに仙水を見てる、自分は代用品だって……ね。あいつ、心が読めるらしくて、何言ってもごまかされやしない。さっきも樹と一悶着あってさ」
「読めるったって、ほんとに表面的なことをすくい取るような感じなんだ。逆に、何から何まで読みとれれば、自分が代用品にはなり得ないって事、判るはずなのに……」
言いながら、樹は心が揺らいでいた。本当に、そうだろうか。忍が、仙水にはなり得ないとしても、代用品じゃないとは言えないのでは……。そんな動揺が、樹の語尾を濁した。
コエンマは、やっぱりなと露骨に言うように、大きなため息をついた。
「樹……? だから、言ったんじゃ。同じにはなり得ないと……。同じ事を要求するなと……」
「分かってる! 分かってたんだ……」
どうして、好きという気持ちだけではいけないんだろう。一番好きと言われるのは、とても嬉しいことなのだ。そこに、同じだけの想いを要求されなければ。
そんなことを考えていたら、不意に仙水忍の困惑げな微笑みが、頭に浮かんだ。樹が迫る度に、最初は怒っていた忍だが、態度を軟化させてくれてからは、よくそんな表情を浮かべていた。
「忍もこういう思い……、してたんだ……」
はたと思いつき、樹は逆の立場に立っている自分を見つけた。
仙水の提供する女性の人格……。ナルは、ストレートだった仙水の最大譲歩だったはずである。受け入れずにひたすら忍という主人格を追い続けた自分。
「俺って、本当、わがまま……」
愛されていなかったなんて、よく言えたもんである。最終的には、交わることを許してくれた仙水忍。樹は、自分の想いに応えようとしてくれた仙水忍の努力以上のものを要求して、すねていた自分を心の中で罵っていた。
想いをぶつけるのも自由なら、受け取り方も自由である。当然、応え方だって当人の自由だったはずなのだ。
「おーい、わがままな樹ぃ! きこえてるかー?」
浦飯が肩を揺さぶり耳元で叫んだ。
「あ? ああ」
我に返って焦点をコエンマと浦飯の二人の方に結ぶ。
コエンマが、小さな包みを懐から掴み出した。
「ワシだって、ただ様子見をしに来たわけじゃないぞ。これをお前か、忍の生まれ変わりに渡したかったんじゃ」
「だから、仙水の生まれ変わりは、ただの忍なんだってばっ」
浦飯の台詞を無視して、コエンマは樹の手に包みを渡した。
「これ……?」
「仙水忍の身体についていた物だ。あのとき床に落ちたらしい」
包みを開けて、樹の瞳に映ったのは、仙水の耳を飾っていた小さなピアスだった。ルビーの中でも、ピジョンブランと呼ばれる、真っ赤な血色の石。かつて、自分に、自分のしてきたことに、最もふさわしい色の石だと、仙水は笑いながら選び、好んで着けていた物である。あの、柔らかくひんやりとしていた耳たぶを飾っていた石。
樹は、その唇に愛しい人の耳たぶの感触を思い出し、そっと唇を舐めた。
「忍の残留思念を、感じることが出来るかもしれん。翼人種なら……。今、あの赤子が仙水の影にとらわれているなら、役に立つかもしれんな。すぐに渡さなかったのは、逆に仙水忍の影を与えることになってはいかんと思ってのことだ」
「どんな影響を与えるかは、わからないんだよな……?」
コエンマは、浦飯の質問に一瞬言葉を詰まらせたが、気を取り直すように応えた。
「そう……だな。無責任かもしれんが、出来れば、強く育った心を持ってから使って欲しいぞ」
「強く育った心……ね。野郎、いつだって逃げやがる」
手のひらでピアスを転がしながら、樹はつぶやいた。
コエンマは、渡す物を渡してしまうと、そそくさと帰っていった。忍にはとうとう会わずじまいだった。
「会って、どういう関係かを説明するよりは、会わないでいた方が、ややこしくならないだろう……」
そんなようなことを言っていたっけ。
浦飯に従い、気を練っている忍を横目で見ながら、樹はまたも過去に想いを馳せていた。
仙水と、コエンマと、樹と……。
仙水が、改めて志願した樹と引き合わされ、パートナーとして、コエンマからの辞令を受けたあの時。
『本当に、お前、俺のパートナーになりたいのか?』
半ばあきれ顔で、でも、うれしそうに笑った仙水忍。
同じものを見ることの出来る仕事仲間。異質さを隠さなくてすむ仲間。初めて手に入れる、心地よい感触のある仲間というもの。
それを手に入れた仙水の笑顔は、まるで、誕生日に思いがけず一番欲しかったプレゼントをもらった子供のような笑顔だった。
仙水の少年としての素顔を、ほとんど独り占めしていた樹は、別の意味でも彼を独占できると錯覚していたのかもしれない。
丁度、今の忍が、たった一人を見て育ち、それが運命の相手だと決めつけてしまっているように。
誤解と、錯覚に満ち満ちている現況で、樹は、手の中のピアスを忍に渡すべきか否かを考えていた。
浦飯や蛍子と対処法について相談したとき、全員一致で、とりあえず忍には、まだピアスの存在をあかさない方がいいと決まったのだった。
「どう考えても、今の忍君、ちょっとキレてるものね。少し、頭が冷えてから、前世の彼の想いを見つめた方がいいわよ」
教師の卵だという蛍子は、忍の教育に関しては関心が高かった。樹の甘やかしぶりを最初にとがめたのも、本当は蛍子である。浦飯は、蛍子の受け売りの形で樹に説教をするパターンの方が多かった。
「うるさい奴だけど、本当に心配してるからなんだぜ」
そういう風に、浦飯が樹に耳打ちしたこともあった。
「本当に尻に敷かれてるんだな」
と、言うと、浦飯はただ照れ笑いを浮かべるだけだった。
今、気を練っている浦飯とは、別人のようだ。
霊気が、妖気に変わり、七年前に仙水と戦ったときとは蟻と象ほどの、いや、もっと大きな差がある。そんな浦飯が、ただの人間である蛍子と、愛し合い暮らしている。おそらくは、力を抑えるだけでも、かなりのストレスになっているだろう。
「お前、何故、そうまでして彼女といられる?」
忍と三人で修行のために寺に居を移した初日に、機会をうかがい聞いてみた。
樹の問いに、浦飯は目を丸くして問い返した。
「俺みたいに、途中から魔族になったのとは違って、ずっと魔族やってて、人間の仙水に執着してたオメーがそれを聞くか?」
浦飯の勢いに、樹は絶句したまま浦飯の顔を見守った。浦飯は樹の茫洋とした視線をさけるように視線をはずし、頬をほんのり染めた。
「俺は、ガキの頃から蛍子のこと、特別に思ってたぜ。俺は、結構鼻つまみ扱いされてたけど、蛍子は……、蛍子だけは俺を見ていてくれた。あの口うるささは、ガキの頃から変わんねーんだよ。……ほんとにわかんない? そりゃ、蛍子のこと、本当は力ずくならどうとでも出来るけど。だけど、そういうの、違うだろう? 俺は、いつだって蛍子に触れるの怖くて仕方ねーもん。壊しちまいそうで、怖くて、本当に恐る恐る手を伸ばして……」
「それだけ、大切なんだ……」
浦飯は、樹の瞳をのぞき込んだ。その瞳は、お前は違うのか? と、問うていた。
「蛍子は……。あいつ、俺が魔族になっちまったって時も、全然態度変わらなくてさ。幽助は、幽助だ、ってさ。すごくほっとしたんだ。ま、お袋も、解ってんだかどうだかは知らんが、態度、変わらなかったけどね」
ふっと笑ったその表情は、二度目の命を拾った男の、これからの生活に対する様々な困惑を、ほんの少しちらつかせていた。樹が口を差し挟む間もなく、そんな浦飯らしくない表情は、あっと言う間になりを潜め、すぐにガハハと笑い飛ばしてしまったが。
「なーんで、こんな事言っちまったんだろー。……それも、樹なんかに。おい、聞かなかったことにしろよっ」
「はいはい」
樹は生返事をしながら、浦飯の言ったことが頭に張り付いている自分を意識していた。
以来、ずっと忍のことを考えている。
幻海の寺で浦飯とともに滞在し、忍の能力を確かめつつ、戦い方、防御の仕方、駆け引き……等々、諸々の、いわばケンカの仕方を教えてきた。そこでは浦飯が中心になり、手本となっている。忍は翼をしまわなくてすむ開放感を喜びながら自らの能力開発を行ってきた。
忍の気を練る真剣な眼差しには、あの、樹を犯したときの獣のような光は影も形もない。生真面目な忍の一面が、輝いている。樹と二人きりの時の忍とは異なる存在がそこにいた。
不思議なことに、あの、仙水の柔らかな動きは、誰も再現できないにも関わらず、忍の動きにはその面影があった。いずれは裂蹴拳も手に入れることになるのだろう。
その時には、忍の横に自分の居場所は残っているだろうか。樹は、残っていて欲しいと、切に思っていた。どんな形でもいい、忍の側にいたかった。
「触れるのが怖いほど愛してる……、か……。だのに、俺は、それを滅茶苦茶にしちまいたくなる時がある……。そのくせ、やっちまってから、後悔するんだ」
握りしめた手の中で、暖まったピアスがちくちくと樹を刺した。
男性体に分化し、日、一日と、逞しくなっていく忍。その度、外観は仙水に酷似していく。ただ異なるのは大きな白い翼と、深い青の瞳。そして、樹の愛し方。
樹は、ヒトシでいるときに、仙水がそっと耳打ちした言葉を思い出していた。
『忍はね、心が気持ちいいのと、身体が気持ちいいのは違う。両方そろわなきゃ自分には出来ないって言ってたらしいよ。温室の鉢に向かって』
樹が仙水忍に迫れば迫るほど、困惑と怒りの種を増やしてしまうらしい。ストレートに想いをぶつけることで距離を作ってしまったという意識は、樹の心を微妙に歪ませた。
男だから。
女だから。
そんなこだわりが、樹の想いをブロックしているとは。樹自身にこだわりが無い分もどかしかった。
今の忍は、判断材料が少なかったとはいえ、自ら男として樹と交わることを選んでしまった。
いったい、このピアスに存在しているという残留思念。どんな想いが込められているんだろうか。
仙水の想い……。
樹は、自分の好奇心を抑えることは難しいと思っていた。ピアスの妖しい赤い光は、今すぐにでも忍に渡してしまえと誘っているように見える。
欲望に流されては、後悔してきたにも関わらず、またぞろ同じ間違いをしようとしている。それは十分解っていた。
しかし……。
「樹、何持ってるの?」
考えあぐねていた樹を急襲したのは忍の無邪気な声だった。思いっきり飛び上がった樹は、ピアスをお手だましてしまい、ぱらぱらと足下に落としてしまった。浦飯は、忍の背後で、まずいという顔をしている。
忍は樹の足下に落ちたピアスをかがみ込んで拾った。
「なあに? これ……、綺麗だね」
ルビーの部分を人差し指で撫でたとたん、忍に変化が起こった。
「あ…………!」
「しっ、忍?」
浦飯と二人、声をそろえてしまった。
忍は翼をひくひくと小刻みに震わせ、身をのけぞらせている。
「忍っ! 大丈夫かっ?」
苦痛に眉をしかめる忍に駆け寄り、樹は忍の痙攣を抑えるように抱きしめた。
「忍っ! 忍!」
樹の腕の中で、戦慄しながら、忍は低くあえいだ。
「あ……、あああ…………。嫌だ……! やめてっ……!」
「忍っ! どうしたっ? どうなってるんだっ?」
忍の苦しそうな声を耳にする度、樹は先ほどまでのピアスを渡してしまおうという誘惑に駆られていた自分を心の中で罵っていた。
「流れ……込んで……来る……! これは……、あの人の……。あの人の……想い……? 僕……、ぼ……く……」
樹はただオロオロと忍のつぶやきを聞きながら、少しずつ力を失っていく忍の身体を支えた。
「忍……っ……!」
樹は声を詰まらせ、忍を抱く腕に力を込めた。この苦しみようが、仙水の思いが忍に流れ込んだせいなら、どうか、もう、消えてくれと、心の中で叫んでいた。
仙水忍の思いが、今の忍を押しつぶしてしまうというのなら、天使の忍を押し流し、どこかへ連れていってしまうくらいなら、自分はその想いを知らなくてもいいと思った。
「忍っ! いくなっ< 仙水、連れていかないでくれ。俺の天使を……!」
忍のあえぎを抑えつけるように、忍の頭を抱え込み、樹はつぶやき続けた。呪文のように……。
そこに存在するギャラリーのことなど、もう念頭になかった。ただ、この天使を失うかもしれないという恐怖、それだけが樹の頭を埋め尽くしてしまっていた。
「樹……?」
怪訝そうな浦飯の声が、樹の興奮を冷ますのに手を貸した。
「あ、ああ、俺が興奮してどうするんだろな。……忍、大丈夫か? 忍……?」
腕の中を確かめる。震えがおさまり、息づかいも整ってきた天使を、そっと腕を解いてのぞき込んだ。
顔を上げた忍が、どんな表情をしているか、それだけが気がかりだった。だが、樹が腕を解いたにも関わらず、忍は顔を上げず、樹の胸にかじりついたままだった。
「忍…………?」
「仙水忍の心……、知りたい?」
顔を伏せたまま、忍はつぶやくように言った。その声音は、仙水のことを知ったときのように不安げだった。
樹は、ただ首を横に振った。何度も、何度も。今までの迷いを振り切ろうとでもするように。
忍は声にならない樹の返事を確かめようとするかのように顔を上げた。青い宝石の瞳は、深みを増して冷たい光が宿っていた。樹の答えがノーだったの知ると、忍の端正な面が微妙に歪んだ。笑いを浮かべているつもりらしい。
「今は本気でそう思っていても、きっと後で知りたくなるよ。樹って、そういう奴だよね」
浦飯が側にいるのが、こんなにありがたいと思ったことは今まで無かっただろう。もし、そこに浦飯がいなかったら、忍はその場で樹を押し倒し、滅茶苦茶に犯そうとするかもしれないと思わせるほど、危険な表情を浮かべていた。それは嫉妬だろうか、それとも憎しみだろうか。歪んだ想いが浮かべさせる醜い表情。忍に流れ込んだ仙水の思いは、いったい忍にどんな変化をもたらしたのか、そのほうが今の樹にとっては重要だった。
「忍……そんな顔しないで……」
樹は忍の両頬を優しく包み込み、今は同じ高さになった視線を捕らえてのぞき込んだ。
「俺の心を読むのなら、俺のお前への気持ち、きちんと読みとって欲しい。どうして解ってくれないんだ?」
忍はだるそうに笑って、樹の手を払った。たったそれだけのことで、心のすれ違いが決定的な距離を作り始めていると樹に感じさせた。
「確かに、樹は僕を愛してくれてる……。だけど、僕は教えられたよ。好きって気持ちや、愛してるって気持ちには何種類もあるって事。今までに樹から教わった中で、一番大事なことかもしれないね……」
皮肉な言い方が、樹を苛む。
「忍……、お願いだから……。そんな風に言わないでくれ……」
樹の声は弱々しく響いた。仙水に冷たくあしらわれるのは、慣れていたはずなのに……、天使の忍にそうされるのはとても辛かった。いや、慣れの問題ではない。忍の場合は、仙水の時とは問題が違う。もっと根深い部分での拒絶である。自業自得とはいえ、本当に辛い。
「もう、もう騙されないんだ。樹の言うこと、信じられない。樹の心なんて、読みたくもないよっ」
忍が叫んだ瞬間、浦飯の平手が忍の頬を打った。
「いいかげんにしろっ!」
「な……っ?」
打たれた頬を抑え、忍の瞳が浦飯を見つめた。浦飯は真っ向から忍を見据え、天使を殴ってしまった手を結んだり開いたり、落ち着かない風情で口を開いた。声がほんの少し震えている。多分叩くときも、今も、かなり力を抑えているのだろう。
「バカか? お前。樹がお前をどう愛してるかより、お前が樹をどう愛してるかが問題だろっ? それとも、お前は、相手次第で自分の心を変えられるのか? いいか、好きでいる気持ちは、押しつけない限りは好きなだけ持ってていいんだよ! たとえ、相手が受け入れなくったって、その気持ちは綺麗なまま消えないんだよっ」
忍の口がわななき、歪められた。
「だ……って……。僕……、僕……っっ! ……ふえぇぇっ」
ぼろぼろと涙を流しながら、大声で泣く忍を、樹と浦飯はぼんやり見つめた。
見た目は大の男だが、その泣き方は子供そのもの。未だ造りは華奢な感じではあるが樹と同等の体格で、あんあんと号泣する忍は、意外なほど可愛らしい。いや、そう思えるのは樹だけなのかもしれないが。
樹は傍目をはばからずに忍を抱き寄せた。いとおしそうにぽんぽんと忍の背をたたく。息が楽になるように。
泣きじゃくりながら、忍は樹の腰に腕を回した。
「ごっ、ごめっ、んんっなさいっ……、いつっ、きっ、ごめっ……っっ」
しゃくり上げながら樹の肩に頭をのせて、忍は樹の耳元で言い続けた。忍のしゃくり上げる音を聞く度に、愛しさが募っていく。この愛しさが、忍の望むものと違うというのなら、樹にはどうしようもない。ほかの愛し方は出来ないし、忍がどういう反応をしようが、やはり同じ愛し方で接するしかないのだ。
同じようにナルを抱きしめたときもあった。しゃくり上げるナルの背を軽く叩いてやる。ナルを落ち着かせる時には、よくそんな手を使った。
だが、一つだけ違うことがある。ナルに対しては全くその気にならなかったことである。もしも、浦飯がそこにいなければ、樹は躊躇い無く忍に口づけていただろう。
忍の存在は、妹でも弟でも、息子でもない。仙水忍という存在を引きずってさえいなければ、このすれ違いは起こらなかった。今はそう思える。
「忍……、愛してる……。本当に……。……、ったく、口にすると、どうしてこんなに安っぽく聞こえるんだろう……。お前が信じたくなくなるのも無理ないかもしれないな」
樹は、忍の耳元にそっと囁いた。声を落とし、誰にも聞かれないように。息が忍の耳にかかり、忍はぴくっと小さく身を震わせた。
忍の腕に力がこもる。
「仙水忍は樹を愛してたよ……」
今度は樹がびくっとしてしまった。それを予想しての力の込め具合だったのか、忍の腕は樹に絡まり離れない。
「何を今更……」
「樹は愛されてないって言ってたけど、愛してたんだ。樹と全く同じではなかったかもしれないけど……。僕を狂わせそうになった仙水忍の思い……、また、樹に嘘をつかれたと思った……。樹は、本当にそう思ってたのにね。それにね、幽助……!」
「あん?」
傍観者となっていた浦飯に、首だけを巡らして忍は声をかけた。
「仙水忍は、あなたも愛してた……」
浦飯はがたがたと、その場で転けてしまった。
「はあっ?」
「しっ、忍?」
「ストレートで、たけをわったような性格だって。もっと、早く出会いたかったって……、そしたら違った結果が出たかもって。もっと、別の見方を出来たかもしれない……ってね」
あの、仙水忍の満足げな最後の微笑み。それは予想できることだった。そう、樹を愛してたなんて言うのより、よっぽど想像しやすい。樹は深々とため息をついた。あの笑顔を思い出す度、嫉妬らしき感情がわき上がる。忍を連れ、浦飯の前に現れたのは、そのせいかもしれなかった。
「ああ……。そういう意味か……。なんか、愛してるなんて言葉、言われると変な気分になるぜ」
浦飯の額に脂汗がにじんでいる。ポリポリと頭を掻き、浦飯はぼそっと言った。
「俺には理解できない世界の話かと思っちまった」
こちら側のもめ事は、まさにその通りなのだが。樹は口には出さなかった。浦飯の捉え方は友愛だろう。樹としてもそうであって欲しかった。浦飯がライバルというのは辛い。今だって、ポイントの上げ方は浦飯の方が遥かに上なのだ。
「忍……、忍はどうなんだ?」
樹の問いに、忍の指が、優しく樹の唇を押さえて応えた。
「僕の一番は樹。それは変わらないよ……でも……。尊敬するのは幽助……。樹は、僕の……」
そこから忍は小さな声で、そっと耳打ちした。
「し、も、べ」
このガキッ!
一瞬カッとした樹の瞳に燃え上がった炎を、忍は見逃さなかった。くすくすと小さく笑いながら、樹の頬を撫でる。
「嘘だよ。恋人にしといてあげる、今のところは」
「今のところとはどういう意味だ?」
「だって、もっと好きになる人が出るかもしれないじゃない? 樹、言ったじゃない。自分で見て、自分で決めろって……。僕は、まだ知らなきゃいけないことがいっぱいあるんだから……」
「ううっ」
忍の、見透かしたように笑う表情はミノルそのもの。樹は絶句するしかなかった。浦飯に聞こえないように気を使ってはいるが、二人のやりとりの怪しさに、浦飯は十分気づいていて、眉をひそめて観察しているようであったから。
樹は、ピアスを落とした自分を呪った。樹の心を得ようとして身体まで投げ出した天使は、もういない。
吹っ切れてしまったのか、仙水の思念を吸収して、考えが変わったのか、それとも……。
「僕、幽助に言われるまで、忘れてたんだ。どうして、男になることを選んだか」
「?」
戸惑う樹を、忍はくるくると巡る輝きで瞳をあふれさせながらしばし見つめると、ふわりと樹の耳元の髪を掻き上げ、唇を寄せた。耳たぶに唇をつけたまま、ゆっくりささやく。
「待ってるだけは嫌だから。樹が僕を愛してくれなくても、僕が樹を愛せるようにね」
「し、忍!」
身体の戦慄を抑えながら、樹は忍から飛び退いた。体中が熱を持っているのを、忍に気づかれたくはなかった。
分かってるよ、と言う風に瞳で笑った忍は、そのまま翼を広げると、空を見上げた。
「幽助、休憩させて。少し散歩してくる」
「ああ」
結界を越え、忍は飛び立った。翼をはためかせ、途中で振り返る。
「樹!」
「なんだ?」
逆光で後光がさしたかのように見える忍は、その光に負けない微笑みを浮かべ、叫んだ。
「覚悟しておいて。今夜は眠らせないからね!」
「なっっ」
高らかに笑うと、忍は飛び去ってしまった。呆然と忍を目で追っていた樹は、ちりちりと首筋に感じる視線の痛みで我に返った。浦飯が、じいっとこちらを見ている。
「樹……、ちょっと、聞いていいか?」
浦飯の視線が痛い。その声は、ドライアイス並みに冷却されている。聞きたいことが分かっているだけに、頬が熱くなる。
「な、なんでしょう?」
浦飯の妖気に気圧されて、思わず敬語になってしまった。
「今の忍の……。どういう意味だ?」
ああ、やっぱり……。
忍は、こうなるのが分かっていて、わざと言い置いていったのだ。いいだろう。向こうがその気で来るなら、自分はあくまで自分らしく。
樹は、精一杯胸を張り、浦飯を真正面から見据えた。
「お前のあんまり好きそうでない話題だが。聞きたいか? 本当に?」
今度は浦飯の方が、視線を逸らして頬を染めた。
「…………いや……。何となく聞きたくない気がする。いい、話さなくて」
どっと疲れたという感じの浦飯の声を聞き、樹は小さな勝利感に酔った。
「そうか? そうだろうな」
樹の声の弾んだ調子に、浦飯はため息をついた。
「ほんと、アブナイ野郎だな。忍が、まともに育ってくれるかどうか心配になるよ」
「だからお前のところにきた。正解だろう?」
浦飯は、言葉に詰まってしまった。
「俺にはわかんねーよ……」
「忍があんな風に泣くの、初めて見た。泣くのを見たくなくて、叱るのをさけてたのは、俺の間違いだな。あんな風に素直になってくれるのなら、俺も……」
そうは思っても、多分樹には一生無理だろう。それは、樹にも浦飯にも想像がついていた。
「涙を流すのって、ストレス解消になるんだってさ。涙と一緒に、ストレス物質って奴が流されるんだ」
「ほう……」
「蛍子の受け売り……だけどなっ」
「お前も泣くのか?」
「俺は、ストレスたまらねーもん。……、まあ、泣くとしたら、誰も見てねーとこでな……」
へへっと、鼻をこすりこすり言う浦飯は、樹の心に暖かいものを流した。
「それにさ、腹にためないでいれば、結構楽しく生きていかれるよ。間違ったことしちまったって分かったら、直せばいい。後悔して時間を無駄にするより、次で挽回するさ」
「浦飯……らしい……な……」
確かに、仙水にあの微笑みを浮かべさせただけのことはある。
前向きな生き方。
自分にも出来るだろうか? 次がなかったら、とは考えない生き方が。だが、確かに、考え方次第で生き方というのは、辛くも楽しくもなるものだ。
「……、俺も修行させてもらおうかな……」
何を言うか? と言う顔の浦飯に、樹は人なつこい微笑みを浮かべて見せた。
「どんどん強くなってる忍に対抗するには、俺も強くなっておかないとね……。」
忍のあの台詞の後では、浦飯にどう受け取られるかは一目瞭然と言うところだが。浦飯の困った表情が、妙に気に入ってしまった。
「俺はまだ死にたくないからな……」
え? と言う顔の浦飯。
「今の忍に対抗するのは骨だ。本当に強くなったよ。短い間に……。お前に感謝しなければね」
話題がどうやらアブナイ方からすり替わったのでほっとした浦飯は、大まじめに言葉を継いだ。
「……、まあ、才能は確かにあるな……。実戦向きかどうかは別だが。防御の面から言えば、十分だろう。樹の望み、一つはかなったわけだ……」
「まあね。もう一つは……もういいって思える。さっき、忍が苦しんでるの見て、俺にとって、いま一番大切なのは忍だって分かってしまったから……」
うむうむと頷きながら、浦飯は安堵の吐息を漏らした。
「これでめでたしか?」
「……そういうことにしておこう」
忍に、嫌なときは嫌なんだとか、合意でしなければ、愛じゃないとか、そういうことを教えるのは樹の役目で、浦飯の心を煩わせることではないから。
はたして、夜、忍とうまく渡り合えるかどうか、自信はなかった樹だが、とりあえず前向きに行こうと決意するのであった。
「ちょっと待て、忍」
その夜、予告通り、二人きりになったとたんに忍は樹の浴衣に手をかけた。
「だめ! 言ったでしょ、今夜は眠らせないって……」
裾をたくし上げ、即座に樹の分身に手をかける忍を押しのけ、樹は忍と真っ向から向き合った。
「やめるんだ! 忍<」
背後に闇の手を出し、妖気をめいっぱい高める。
「お前が、あくまで力尽くを通すなら、俺も本気出すぞ」
忍は、その瞳の呪縛を樹が破り、対抗しようとしているのを見ると、樹と同じように正座をして両手を膝に置き、真剣な眼差しを樹に向けた。
「どうしたの? 樹」
「俺は、確かにお前を愛しているが、こういうやり方は嫌だ」
噛んで含めるように言った樹の言葉を、忍は明るく笑い飛ばした。
「じゃあ、逆に、僕を犯してみる? それと
も、樹の好きなやり方、教えてくれる?」
樹の眉根を寄せた険しい表情に、忍の顔からも笑みが消えた。初めて、樹は忍に対して本当の顔を見せた。いざというときにはいくらでも冷酷になれる、闇撫でとしての素顔。
忍は初めて見る樹の違った一面を不思議そうに見つめ、樹の次の言葉を待った。
「俺は……、どっちも今日は嫌だな。それよりも、お前を抱きしめたまま、ただ眠りたい。お前と、暖めあうだけで……それだけでいたい。今は……そんな気分だ。俺は……わがままか?」
忍は樹の真意を測りかねたというように樹の顔をのぞき込んでいる。
「前にも言ったろう? お前がしたがっていること。本当の形は、愛し合うって事なんだよ。お互いが好きって気持ちで一杯になって、それを相手に伝える行為なんだ。伝えあって、応えあって、それで……。いいか、能力を使って、俺の身体を自由にしても、それは愛し合うことにはならないんだよ。身体が気持ちいいだけじゃ、だめなんだ。俺は、欲望って奴にすぐ負けちまうけど……。お前には本当の形を教えたかったよ。俺が、もっと理性的だったらよかったんだが……」
樹は、忍の首に腕を回し、その背をさすりながら、ささやいた。
「なあ、忍、俺達、身体だけの関係にはなりたくないんだ。俺が求めているものは、もっと、もっと、深い……。俺は、ずっと我慢していたんだよ。お前が大人になるまでと思って。お前を犯そうと思えば、いつだって出来たけど……そんなのは愛じゃない。お前とは、愛し合いたかったんだ。だから、お前も、俺の方をしっかり見てくれ。俺を……俺の心を気持ちよくしてくれ……」
忍は、深いため息をついた。だが、その身体から醸し出される空気は暖かい。
忍の腕が、同じように樹を抱いた。ゆっくりと樹に体重をかけ、布団に横になる。そのまま樹の上から口づけた。軽くついばむ、親愛のキス。それから瞳を和ませて樹に微笑みかけた。
「いいよ……。樹がその方がいいなら……。僕、今日は我慢する。ねえ、僕は……、僕だって、身体だけじゃないんだからね。僕、樹が、側にいてくれるだけでいいって言ってくれる度、うれしかった。少なくとも、樹は、僕を必要としてくれてるんだって……。だから、仙水のこと知ったとき、ショックだった。だけど、変だよね、僕と仙水は……」
「忍、もう、そのことは……」
忍は、真摯な表情で樹を遮った。
「ううん、聞いて。仙水にとっても、これはやり直しのチャンスなんだよ。あの人の進めなかった方の道、僕は歩いてみる。樹は、だから幽助の所に僕を連れてきたんでしょう? 樹の嫌なこと、しちゃって、ごめんね。もっと、もっと、いろんな事勉強して、樹が、本当に愛してくれるように、僕、頑張るから……。これからも、僕と一緒にいてね。ね?」
樹の胸をはだけさせ、直に肌に頬ずりする。
「あったかいね……。樹の肌、気持ちいい。こういうのも、好きだな……」
樹は、先ほど忍を拒絶したことを早くも後悔していた。忍の肌が触れたところが、皆熱を持ってうずき始める。
「忍……。俺……」
樹の腕に力が入ると、忍はそっと樹の唇を人差し指で塞いだ。
「だめ、今日は、抱き合って眠るだけ。考えてみれば、今日はいろんな事ありすぎて、僕も疲れちゃった。明日から、僕も樹と同じ場所に立てるように頑張るから……。樹も、もっと僕に甘えてね。僕のこと……可愛がるだけじゃ嫌だよ…………。あ、ほんとに……眠い……や……」
そこまで言うと、アフッとあくびをし、忍はそのまま樹の上で寝入ってしまった。
天使の重みを感じながら、樹はただ天井を見つめていた。闇の手で掛け布団をたぐり寄せ、忍の上から掛ける。
忍が素直に引き下がったことに驚きながら、自分の正直な気持ちが天使に伝わったことの感激を、樹は一人噛み締めていた。
「もっともらしいことを言う俺よりも、本当はこの天使の方が解っているのかもしれないな……」
お互いの気持ちを尊重しながら、愛情を育てていければ、それこそ本当の恋人同士になれる。そんな風に自分に自信がもてる時が来るとは想像もしていなかった。
「この俺が……、すっかり骨抜きだ。浦飯の影響かな……、俺までまともになれそうな気がするよ。忍……、愛してる……、いつだって、お前が欲しいんだ。本当はね……」
「うん、……僕も愛してるよ」
樹の独り言に、くすくす笑いながら忍が返事をした。樹は心底飛び上がって、半身を起こして忍を見つめた。樹の胸に頬を寄せ、繊細な指先をその肌に這わせたまま、天使は安らかな寝顔を浮かべている。安定した寝息と、無防備な力の抜き方が、眠りの精の腕の中にいることを示している。
「寝言……か?」
忍を起こさないように支えながら、樹はもう一度横たわった。
「いい……夢だといいな……。お休み、俺の天使。明日はもっといい日になりますように……」
樹は天使をその腕にしっかりと抱きしめたまま、自らも眠りの精に身をゆだねた。
一度はすり抜けていった天使が、今しっかりとその腕の中に収まっていることの幸せ。今の幸せが、永遠に続くことを願いながら。
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