再発
さかいともこ

 助手席に坐っている昭が、窓の外を流れていく風景を眺めていた。俺と微妙に視線を合わせまいとするように。
 少し開けてある窓から、風が入ってくる。風は昭の黒い髪を少し揺らして、隣のシートの俺のもとまで届く。
「涼し過ぎないか」
 話すことはほかにあるはずなのに、俺の口から出てきたのは、そんなつまらない言葉だけだった。
 昭は俺の問いかけを聞き流したあと、唐突にこう言った。
「AOKI商会に渡すファイルは、バージョン3より、バージョン2の方がいいかもしれない」
「……そうなのか?」
 昭はメガネを少し直して、言葉をさらに続ける。
「それから三上氏への資料は、ディスクじゃなく、FDでと、念を押されたから気をつけて」
「わかった」
「椎原中学校同窓会名簿の件については、フォルダ名を変更したから。できればリッチテキスト形式で再保存を……」
「昭。もう仕事のことは忘れろよ」
 俺はハンドルを握ったまま、昭の言葉を遮った。昭がちらっとこちらを見て、自嘲するようにため息をつくのがわかった。
「俺が、おまえの代わりに全部仕事をしてやるから。信用しろよ。
 その分、家事のことも電話番も、前のときと同様、おふくろが来てくれるんだし、安心していいんだぜ」
「……そう……。そうだね……」
 苦笑いした昭の、横顔がやけに青白い。体調はたぶん、ずいぶん前から悪かったはずだ。自覚があるくせに、昭はいつも無理をするから。
 俺の運転する車は、目的の橘総合病院の、正面玄関前の車寄せに滑り込んだ。
 俺はシートベルトを素早く外し、後部座席にあるバッグを引き出して、昭に渡す。
「……ついて行かなくていいのか、昭」
「大丈夫だよ。あまり病人扱いしないでくれないか」
「おまえは病人だろ」
 俺はつい、怒った声を出してしまった。
 昭が、一瞬黙る。
 そのあと昭は穏やかに口を開いて、言い直した。
「……すまない。……慣れているから大丈夫なんだ」
 慣れている。いやな言葉だ、と俺は思った。
 昭の入院は、数日の検査入院も含めると、何度目なのだろう。
 前の長期入院のときは、化学療法を行なって、昭の身体は健康を取り戻したように見えた。正しくは寛解状態になった、と呼ぶらしいが。
 日常生活を取り戻して、もう昭の身体はすっかり大丈夫なんだと思い込んでいた矢先、先日の定期検査で少しひっかかった。
 それでベッドが空いた今日、昭は再検査のためにまた入院することになった。その結果次第で、これが長期入院になるかどうかが決まる。
 前の治療のとき、橘先生は、再発したら、ドナーからの骨髄移植を考えないといけない、と言っていた。
 俺は、車から降りようとした昭の腕を掴んで、引き止める。
「帰ってこいよ」
 俺は昭の眼をみつめる。
「絶対に、あの、俺たちのマンションの部屋に。
 奈津美ちゃんも、おまえの帰りを信じて、待ってるんだから」
 昭の妹の名前を出したせいか、昭がふっと微笑んだ。どこか翳りのある笑い方だった。
「……京一郎。きみは? きみは待っていてくれないのかな」
「あたりまえのことを訊き返すな」
 昭の手が伸びてきて、俺の髪に触れた。ひとつにまとめてあった長い髪が、ほどけて、ばさりと肩に落ちる。
 昭の指が、そっと俺の髪をすいていく。
「退院したら。またきみの髪をとかしたいな……」
「うん……。髪、切らずに、待ってるから」
 昭の、俺の髪に触れる指がすうっと移動して、一瞬俺の頬に触れた。俺は少しどきっとする。
 何か言いたげに昭は口を開きかける。けれど昭は何も言わないまま、俺から離れた。
 ドアを開けて、昭は車から降り立つ。入院道具一式のつまったバッグをぶら下げて。
 昭が立ち止まり、結局迷ったように、窓越しにハンカチを差し出してくる。
 それで俺は初めて、自分が涙をこぼしていたことに気づかされた。
 昭は俺の手にハンカチを押し付ける。
 そのあと昭は、俺の方を振り返らないまま、病院の正面玄関に向かって歩き出した。
 ――昭。おまえは決して強い人間じゃない。
 病気の再発の可能性を知って絶望したのは、誰よりも昭自身のはずだった。それでも、俺や奈津美ちゃんの前では、昭は毅然と顔を上げて、まっすぐに歩いていこうとする。
 その痛みが、俺の胸に響いて、たまらない。
 昭の姿が病院の玄関扉の中に消え失せた。
 俺は昭から受け取ったハンカチを握りしめて、長い間、ハンドル部分に突っ伏し、涙が乾くのを待っていた。


END.




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