歪んだ逆光
乙姫静香
それが一体いつのことで、なにがきっかけだったのかなんて覚えていない。
ただ気が付くと、俺は声をあげて笑うことを忘れていたような気がする。
光の射さない日常に、唾を吐くことも逃げ出すことも許されず、枷の重みだけが自分の生きてる証になる。
それは一体、いつ始まったのかも分からず、そしてまた、いつ終わるのかさえも全くわからなかった。
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ボードの上に寝そべって、波の揺れるがままにまかせる。海水が頬を撫で、切れた口唇に染みた。
俺は高校一年生。血が半分だけ繋がったタケルと同じ高校に入り、怠惰な日々を送っていた。別に入りたくて入った学校じゃない。利点といえば、海の前に建っているからこうして帰りにすぐ海に出られることだ。それだけ・・・と言っても過言ではなかった。
別にどこに行っても同じ。この地元の枠を出なければ、やくざの息子という俺の背景はいつでもどこでも俺についてくる。たとえ、それが俺の望んだものでないにしても・・・・。
向こうからゆっくりとやってくる良い波。俺はボードの上でパドルを始めると、それを今日の最後の波にするべく、ライディングの体勢に入った。
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俺は病室の扉を開けると、静かに中を覗いた。
「あ、兄さん」
ベッドの上で、ヤマトが屈託なく笑う。俺よりひとつ下の、俺の弟。兄のタケルと、俺とヤマトはそれぞれに違う母親を持つ。ヤマトの母はすでに他界していた。
ヤマトは生まれつき身体が弱く、幼い頃から中学生になることすら難しいと言われていた。それがもう中学三年生。ただ、その14年の過去の殆どをこうして病院で過ごしていたけど・・・。
「具合はどうだ?」
椅子を引いてベッドの脇に座る。ヤマトは開いていた雑誌を閉じ、大きく切れ長の瞳を輝かせた。
「絶好調!なんで病院にいなくちゃいけないのか分からないくらいだよ」
「馬鹿。調子に乗ると、また発作がでるぞ」
遊びたい盛りのヤマトをベッドに縛り付けたくはなかったが、そうでもしなければいつどうなってもおかしくない。それだけヤマトの容体は深刻であり、だからこそこうして俺は毎日この病室を訪れた。
「はぁ〜い。分かってるよ。ミコト兄さんはすぐにそうやって怒るからな」
そう言って口を尖らせながらも、ヤマトは俺を優しい目で見返す。ヤマトのことを本気で案じているのがこの世に二人だけだということを、ヤマト自身もよく分かっているからだ。一人は俺、そしてもう一人は俺たちの父親。長男のタケルは、俺たちとは離れた存在だった。
「あれ?その雑誌」
俺は今までヤマトが読んでいた本に目を落とす。
「あ。これ、羽切さんに買ってきてもらったんだ。兄さんがやってるの見て、面白そうだったから」
ヤマトが傍らに置いたサーフィンの雑誌を手に取る。羽切芳彦(はぎりよしひこ)というのは俺に付けられた養育係兼目付け役のようなものだ。オヤジの部下の、無口で愛想の無い三十代半ばの男。ただ、タケルは何故だか妙に羽切になついていて、よくこういったワガママをきいてもらっているようだった。
「俺も今度退院できたらサーフィンやってみたいな。兄さん教えてよ、駄目?」
ねだるようなヤマトの瞳。幼い頃から病院にいることが多く、甘やかして育てられたヤマトは、ねだり上手というか、人にノーと言わせない術を心得ている。俺には完全に欠落したものだけに、時としてそれをうらやましく思うこともあった。
「そうだなぁ。それだけの元気がでればいいけど、サーフィンするなら、その前に泳ぎを覚えないとな。楽に見えて結構体力使うからな、サーフィンは」
本当はヤマトがサーフィンなんて、医者が許可する訳はない。けれど、それを正面からヤマトに言う勇気も俺には無かった。
「ふぅ〜ん。泳ぎかぁ。俺、水着も持ってないや」
「じゃあ、退院したらそこから始めないとな」
窓の外には夕暮れ時の海の景色。それを眩しそうに見つめるヤマトが、少し淋しげに微笑む。
「・・・・そんな日、来るのかな?」
ポソっと漏れた一言。俺はそれを敢えて聞き流した。
「そういえば、お前高校どこ受けるんだ?決めてるのか?」
「え?・・・あぁ、どうせ兄さん達と同じ所になるんでしょ?」
ヤマトはあきらめたような、皮肉な笑みを浮かべる。その笑みの意味を悟って、俺も苦笑した。
「どうせってどういうことだよ。大体お前に、あそこ受かるだけの頭があるのか?」
冗談半分に笑って見せる。こんな風に笑えるのも、ヤマトの前でだけだ。他でこの話題が出ても、きっと俺はこんな風には笑えない。
長男のタケルは、嫉妬心が強く気性が荒い。キレると手の付けようがなく、父親でも困り果てるほどだった。プライドも相当高い。そんな兄の前で、兄よりも良い高校になど行けようもなく、それを、俺もヤマトもよく分かっていた。
特にタケルは、自分の母親を追い出し正妻の座に就いた俺の母親を憎み、俺のことも同じように憎んでいた。実際はタケルの母親がオヤジの部下とできた上に逃げ出したのだが、タケルはそれさえも俺の責任だと思っていた。まぁ、タケルと一つ違いで俺という子供が出来ているのだから、あながちタケルの恨みの方向は間違っていないとも思うが、節操の無いオヤジの下半身のことに構うのも馬鹿馬鹿しいので、俺はそのことをあまり考えないようにしていた。
「勉強はね、特に問題無いと思うよ。だってそれしかやることないからさ。出席日数以外は優秀な生徒だよ、俺」
あっさりとヤマトが言い、俺もため息をひとつつく。実際、ヤマトの成績は悪くない。俺たちの高校よりも良い高校だって狙えるだろう。ただ、そんな自由はヤマトにはなかったが。
「他の高校で、行きたいところでもあるのか?」
もしもそうなら、本当は行かせてやりたい。ヤマトのことはタケルもそこまでライバル視をしてないし、身体が弱いことで跡目を継がないであろうことが明らかだから、大目に見てくれるかもしれない。
そこまで考えた時、一番毛嫌いしている兄の存在に一番捕らわれてるのは自分のような気がして思わず笑ってしまった。自虐的な笑い。一生こうして、あいつの目を気にして生きていくんだろうか?
「どうしたの?」
突然鼻で笑い出した俺に、ヤマトが眉を寄せる。
「なんでもないよ。ほら、食事の時間だ」
病室に入ってきたワゴンに、俺は立ち上がる。ヤマトの食事を受け取ると、俺はそれをヤマトに渡した。
「食べ終わるまで、居てくれる?」
外が暗くなるにつれて、ヤマトはどこか落着かなくなる。それが淋しさの所為だということを俺は良く知っていた。
「あぁ。面会時間いっぱいまで居るよ。だから、早く食えよ」
「うん」
白い顔で微笑み、ヤマトが食事を始める。俺はお茶をいれながら、そんなヤマトを静かに眺めた。
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冷たいドアノブに手をかける。なにも言わずに玄関を通ると、羽切がすぐに顔を出した。
「お帰りなさい、坊ちゃん」
「あぁ」
そっけなく返し、階段を上がる。だが、途中で俺は足を止め、階下に視線を投げる。黒いスーツ姿に身を包んだ羽切は黙って俺を見上げた。
「そうだ。雑誌・・・ヤマトが喜んでた」
「いえ・・・」
微笑むでもなく、小さな会釈で返される。
いつでもそうだ。笑わない男。面白味のない男。特に干渉もせず、表立って世話を焼く訳でもない。俺の親父に大きな借りがあるそうだけど、それが一体何なのかは知らなかった。
「食事、どうされますか?」
「すぐに行く」
「はい」
俺との会話を避けているのか、本当に短い言葉でしか羽切は話してこない。きっと俺とあまり親しくすると、タケルが跡目を継いだ時に立場が難しくなるからだろう。どうせ、そんな奴ばかりだ。もう、慣れてる。
俺はそのまま部屋に入ると、カバンを傍らに投げ、ベッドに倒れ込んだ。
息が詰まる。この家には、まるで空気がないみたいだ。光の射さない沼の底にいるみたいに、冷えて淀んだ場所。いつまでここに居なくちゃいけないんだろう。
俺の中で、逃げ出したいという思いは、日々高まっていた。逃げ出したい、この家から。この苦痛しか与えない場所から、自分を取り巻く馬鹿らしい状況から、寺内という名前から。けれどそんな願いは叶うはずもなく、ただ呼吸を繰り返すだけの日常。そんな時はじめたのがサーフィンだった。
板を買い、雑誌を読み、見よう見まねで初めて波に乗れた時は、嬉しかった。波の上にいる時は、全てを忘れられた。
とりあえず服を着替え、二階の洗面所で手洗いとうがいを済ませる。鏡に移った自分の姿に、小さくため息をついた。
なんにもできない寺内の次男坊。この顔にそう書いてある。そしてそれが間違っていないということが何よりも俺を苛んだ。俺には何も出来ない。この家を抜け出すことも、タケルを追い越すことも。そして、ヤマトを救うことも・・・。何も出来ないのに、ここにこうして生きている。
何の為に?
もはや俺の母親でさえも、俺に構うことはない。タケルと俺をこの家に同居させ、自分は別宅で優雅に暮らしている。きっと、タケルが俺に対してしている仕打ちも知っているんだろう。
俺は、伸びかけた髪をかきあげて階段を下りる。どうでもいい日常の、どうでもいい夕飯の時間だ。生きたくなくても腹は減る。ここ数年、何かを美味しいと思ったことはなかった。
食堂に行くと、俺の夕飯が湯気を上げていた。向かいの席には、先に食事を始めているタケルが座っている。俺は無言で自分の席についた。
小さな会釈とともに食事を始める。すると俺の姿を見た瞬間目を輝かせたタケルが、早速話しかけてきた。
「ミコト。学校はどうだ?」
「・・・・・別に・・・」
目を合わせないままに箸を口に運ぶ。俺にとっていいことも悪いことも、タケルにとっては俺をいたぶるための道具でしかない。しかし何も返さないと、返事をするまで絡んでくる。なんでこいつはここまで俺に構うのか。嫌いならいっそ放っておいてくれればいいのにと、何度も思った。
「古文の伊藤がお前のこと誉めてたぞ。解釈が早くて読書量も多いから話してて楽しいし、教えがいがあるってな」
そりゃそうだろう。波乗りを始める前は、もっぱら読書くらいしか自由にできることはなかったんだ。読書感想文をチンピラに代筆させてるお前に比べれば、確かに読んでる量は多いだろうよ。しかし伊藤先生も余計なことを言ってくれたもんだ。
「相変わらず誰かに取り入るのが上手いよな、お前は。中学ん時だって、それで内申点あげてたんだろうよ」
ほら来た。俺のいい噂を聞くとすぐにこれだ。そういうこと言うんだったら、お前なんか袖の下渡してあの成績だろ?そういう頭回す前に、教科書開いたらどうだ?
俺は無言で食事を続ける。紙を食べているような気分だった。
「それとも、早速お前の得意技か?母親譲りっていうか、そっちの方が上手い奴は、顔も誘ってるような顔してるよな。その顔でだまくらかして、どこかでいいサービスしてんのか?俺も見てみたいもんだよな」
母親の話をされて、更に嫌な気分になる。かといって、母親をかばうほどの気持ちも俺にはなかったが。
タケルは舐めるような視線で俺を見ながら、音を立てて食事を続ける。黙々と自分の食事を続けながらも、募る生理的嫌悪。俺はさっさと食事を終えると、逃げるように席を立った。
「ダイエットでもしてんのか〜?」
俺の背中に届くからかうような声。
「本当に女みてーだよな。ほっせー身体しやがってよ。ま、それがウリなんだからしょうがねえか」
下品な笑い声を上げるタケルを振り向きもせずに歩き出す。顔を上げた時に一瞬傍らにいた羽切と目が合ったような気がしたが、何も言わずに目を逸らした。どうせあいつだって、いつものこんな会話をどうこうする気もないだろう。
「お前はどう思うよ、羽切」
そんな声が最後に遠く聞こえたような気がした。
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放課後。俺はいつもの場所で羽切を待った。
海岸に面した駐車場の前。フェンスに背中を預けてしゃがんでいると、羽切の車が目の前に停まった。
「お待たせしました」
「あっちに行こう。今日はちょっと寒そうだから・・・」
水着だけならここで着替えてもいいのだが、ウェットを着るとなるとさすがに国道沿いはマズイ。俺は歩いて脇道の方へ進む。羽切はすぐに車を回してきた。
道の傍らに停めた車の後部座席に滑り込む。そんな俺をちらりと見て、羽切が運転席から声をかけた。
「坊ちゃん・・・・その頬」
微かに腫れた口唇の端。いままで、気付かれたことはなかったのに・・・。
「どうか・・・したんですか?」
なんでそんなこと聞くんだよ。今まで一度だってそんなこと言ってきたことないだろう?
「別に・・・どうもしないよ」
俺は構わずに髪をひとつに束ねると、制服を脱いで水着に着替え始める。しかし、続く羽切の言葉に俺の動きが止まった。
「タケル坊ちゃん・・・ですか?」
図星・・・であった。後で考えてみれば、俺の素性をしていてケンカをふっかけてくる奴などいやしないのだから、タケル以外に思いつくはずもない。しかし、俺は否定に遅れたその一瞬で、肯いたも同然の返事をしてしまった。
「いつからですか?・・・前から、気になってはいましたけど」
嘘だろ?前から気付いてたって・・・いつからだよ。知ってて、黙ってたのかよ。
「・・・なに言ってんだよ。タケルとは、校内でも会わないし・・・」
嘘だ。タケルはたまにふらりと会いに来る。しかも取り巻きを引き連れて、授業の移動や昼休みの一瞬をついてやってくる。おかげで、いまやクラスの誰もが俺に話しかけてこない。すっきりとしたもんだ。
「ですが・・・・」
「別にケンカのひとつやふたつでガタガタ言わなくたっていいだろ!親父にお前の怠慢だなんてチクッたりしねぇよ!」
羽切の言葉を遮り叫ぶ。羽切が俺に関わりたくないのは分かってる。だったら何も話さない方がいい。羽切がもしも親父の怒りに触れていなくなったら、ヤマトがきっと悲しむだろうし・・・。
「それから、親父には何も言うなよ。分かったな」
「・・・・・・はい」
俺は水着姿で車を降り、ドアの影でスプリングを着た。今日は曇ってるけどもうすぐ夏。水温だってそこまで寒い訳ではないだろう。
下半身を着たところで俺は腕にはめていた時計を外す。裸の上半身をぬるい風が撫でた。
「坊ちゃん」
今日はやけに口数が多い。車を降りてくる羽切を俺は眉をひそめて見返した。
「なんだよ」
「なにかありましたら、必ず羽切におっしゃってください。いいですね」
ドアを挟んで前に立たれる。海岸近くのスーツ姿はどう見ても不自然だった。
やんわりと後ろに撫で付けた髪が、海からの風で微かにほつれる。まっすぐに俺を見つめる羽切を、俺は不思議な想いで見返した。
なんでこいつは突然こんなことを言い出すのだろう?今までまともな話ひとつすらしたことなどなかったのに・・・。
「いいですね、坊ちゃん」
真剣に繰り返す羽切。だから俺は、その勢いに押されるように、短く返した。
「わ・・・・分かった」
その言葉の真意は、まだ分からなかったけど・・・・。
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−第2話に続く−
精神的ガマンものというリクを戴きましたので、書きたかった話を書かせていただきました。
もしかしたらキリ番リクと違うものになってるかもしれません。そうだとしたら敬香さんすみません(><)!!
で・・でもとりあえずこの話は書き終えさせていただきますので(^^;)
よろしくお付きあいくださいませ。ちょっと長いです・・・。
そんでもって、ここから読んでしまった方は、表の「多分、それは、嘘。」や「波ノカタチ」なども
合わせて読んでいただけると嬉しいです。
……という乙姫様のコメントですので、
上記の作品は「PawkySnogsのお部屋」にてご覧下さい。