目を閉じてもそこにあるもの。
揺れる八重桜の花は、女のカラダみたいだ。枝を折らんばかりに満開で咲く姿は、綺麗だけれどぼくには重すぎる。
「なあ、死体が埋まっているのって、どっちだと思う?」
八重桜を見上げていた市川さんが、ぼくに聞いた。
「何の話? タイムカプセルに入れて誰か埋めたとか?」
「ブンガクだよ、ブンガク」
ロマンのかけらもない市川さんが言うとすごい違和感で、少し笑えた。
「だからさ、普通の桜とこれと、どっちの根元かと思ったんだよ」
「八重桜って桜餅みたい。現実的だよ。死体なんか食ってそうにない」
ぼくはそう応えて木をぐるっと周り、そこの土が周囲の土に比べて黒いことに気づいた。
春の夕闇がこの広い公園を包もうとしていた。隣接駐車場の閉門時間はあるけれど、この公園には門なんかない。何をしているわけでもないのに帰りがたく、平日のまばらだった人影もなくなって大分たつ。
「肥料でもやったのかな」
呟いて、ぼくはその場所に足を乗せた。ふわふわしている。
「肥料なら臭うはずだ。きっと誰かが何か埋めたんだ」
「何かって…死体ならもっと臭うよ」
「コンクリート詰めなら臭わない」
もう決めてるみたいに、市川さんが断言した。
何か掘るものはないかと公園管理事務所の倉庫に市川さんが向かうのを、ぼくは呆れて見ていた。太陽の光を浴びたのは久しぶりで、なんだかフラフラする。だいたい夜行性のぼくを昼間の公園に誘うことからして、今日の市川さんは変だった。
「柳瀬、開けれる?」
扉を揺すられてガチャガチャと南京錠が鳴り、ぼくはこのところ遊びに使っていた道具を出した。十八歳未満には売ってくれないから、糸鋸を自分で削って作った代物だ。自分で頼んだくせに、ぼくの手際のよさに市川さんが眉を寄せるのがわかった。
「なんでそんなに気になるんだよ」
カチッと音がして簡単に南京錠が外れた。
「もし事件だったらすごいと思わないか」
「中学生みたいだ」
ぼくが笑うと、小屋の中を物色していた市川さんが振り向いて言った。
「中学生だったよな、柳瀬」
「市川さんが俺を強姦したときか?」
「人聞きの悪い。柳瀬が誘ったんじゃないか!」
「まあそうとも言う。でも中学生とHしたら淫行だよ」
ぼくは笑いながら煙草を咥えた。
そのころ彼は大学生で、ぼくの家庭教師だった。ぼくは自分の性向を自覚していて、好奇心いっぱいで、つまり市川さんは嵌められたのだ。
「煙草! 未成年者だろっ」
真面目な顔で煙草を取り上げる。
「煙草くらい誰でも吸うだろう。高校生じゃないぞ」
「予備校生が威張るな」
「うるさいなぁ」
めんどくさくなったぼくは、目の前の市川さんのうなじに手をおいて引き寄せ、口で口を塞いだ。予想外の展開に硬直した市川さんがぼうっとするまで。
「お、お前はー。自分に都合が悪くなるとそうやって…」
真っ赤になってぼくから離れようとする。こういう反応が楽しくて続いてるんだよな。
「この好き者。知ってるんだからな。オヤジ誘って前払いさせてドロンしたり、女の子のふりしてメル友募集したりしてるだろう」
伸ばした手を振り払われて、ぼくは首を傾げた。
「好みのタイプの時は、金貰ったらちゃんとやらせるよ?」
「そ、そういう問題じゃないだろー」
「いいじゃん、市川さんからは金貰ったことないじゃん」
「よくなーい!!」
市川さんはぼくを睨んだ。
「柳瀬、お前そんなことしてたら、いつか捕まるぞ」
「そんなドジしない」
「勝手に鍵を開けて不法侵入したことだってあるだろう」
「あれは、アイツが恐喝しようとしたから…」
「オヤジと寝てる写真でも撮られたのか」
「まったく、そんな恐喝の仕方したら、オヤジがびびって警察イッちゃうじゃんねー」
ぼくは後を引く恐喝はやらない主義だった。危険は避けなきゃ。
「柳瀬…。捕まったら、お前のことだ、情状酌量とるためだったら何でも言うだろ」
「酷いなぁ。ぼくが何を言うっていうのさ」
「実は十四歳の時に家庭教師に性的虐待を受けました、なんて平気で言うだろう。そのせいで自暴自棄になって、なんて泣き落とすんだろ。お前が言うように淫行は淫行だ。そんなことになったら私の人生は終わりだ」
うーん、鋭い。自分ながら切羽詰まったらそれくらい言うかもしんないと思う。
「だから、私は決心をした。柳瀬をこのままにしておいたら世の中のためにならないし、危険すぎる」
「え…? いやだなぁ。そのノリってさ、邪魔者は消せって感じだよ」
ぼくはいつもと違う市川さんが怖くなって、へらへらと笑った。考えてみれば市川さんはエリートだ。俺とのこと、どう思ってるんだろう。
「黙れ。とりあえず、桜の周りを掘れ」
「掘るより掘られ…」
すごい形相でスコップを押しつけられ、ぼくは慌てて口を閉じた。
「ねぇ、どれくらい掘るの?」
「もう少しだ」
最初の文学的なフリはこのためだったのか、とぼくはスコップで土を外に運び上げながら思った。日頃の運動不足がたたって、もう足腰が悲鳴をあげている。
人一人が手を動かせるくらいの幅の深い縦穴が出来上がっていた。二人で掘ったり、交代で掘ったりしながら、今は、ぼく一人が胸まで入って作業している。
本当に誰かが何かを埋めたのか、それとも市川さんが前もって掘っていたのか、土は案外柔らかくて掘りやすかった。それほど冷たくないのも掘り返された後という感じだ。ぼくはスコップを土と一緒に穴の淵に叩きつけて、そのまま手を止めた。
「どうした、交代か」
「何を埋めたのさ」
園内の街灯のあかりに照らされて、豆のできた手をぼくは見た。もう真っ暗だった。市川さんが何かを埋めるために掘って埋め戻した後をもう一度掘っているのは確かだと思った。案の定、市川さんはぼくの言葉に頷いた。
「なんだと思う?」
「想像つかない」
ぼくは疲れ切って穴の底にペタンと座った。
「してみろよ」
「…埋めて…ないんじゃない?」
ぼくは自分が思いついたことに、おののいた。
目の前は土の壁。どうして今、ぼくは穴の中にいるんだろう。
「これから、埋める、とか」
「死体を?」
市川さんがぼくの心臓を掴むようなことをさらりと言って、上から土を落とした。
小さな土くれが、頭や肩を転がっていく。
「なんで…。ぼくが…邪魔?」
「そうだな。柳瀬がいなければずいぶん気楽に暮らせるな。結婚して子ども出来て、普通の生活していける」
ぼくは大きく息を吸った。
濡れた土の匂い。もうぼくは桜の下に埋まっていて、哀しい夢を見てるんだろうか。
「そうか、邪魔なのか」
「ときどきな。柳瀬のことを考えると眠れなくなる」
しゃがんだ市川さんが、また一握り土をぼくにかけながら笑った。
市川さんがそんなことを考えていたなんて。
なんか打ちのめされてしまって、頭が働かない。体が冷たくなっていく。生命がざわめく春も、何も産み出せないぼくには関係ない。邪魔になるくらいなら、いっそ何者かに食われてその血肉と化す方が幸福かもしれない。虚しく塵になるのではなく、食物連鎖のなかで永遠を見つけるのだ。
「柳瀬、埋めて欲しい?」
ぼくは手の甲で顔をこすった。
やっぱ食われるのはいやだ。食われたら次は排泄されるのがキマリだし。
「嫌だ。ぼくはうんこになんかならない」
「はぁあ? 柳瀬…返事になってない」
市川さんはため息をついて頭を振った。
「まあいい。もう少し掘れよ」
ぼくはスコップを取ろうとのろのろ立ち上がり、スコップに手を伸ばし、結局その横にあった市川さんの足を掴んでひっぱった。
「や、柳瀬っ」
ずるっと深い縦穴に市川さんが滑り落ち、ぼくの体とぶつかった。骨がきしみ、反射的にぼくはその温かい体を抱きしめた。
「邪魔じゃないよ。市川さんの嘘つき」
「なんで私が嘘つきなんだ」
「だって市川さん、ぼくに惚れてるくせにっ」
体を離そうとしていた市川さんが、呆然としてぼくを見つめ、顔をゆがめて下を向いた。
「柳瀬、お前ってやつは…」
体の奥底の振動がぼくに伝わる。
「それが返事か。たまらないな」
市川さんが笑ってる。
だんだん大きく、ぼくの肩に頭をつけて笑ってる。
「な、もっと掘ってみろよ。ここだよ」
笑い止んだ市川さんが足で穴の真ん中を蹴ると、ポンポンと土ではない音がした。
「何かが埋まってる?」
土の底までは明かりは届かない。
ぼくは市川さんに体を擦りつけるようにしてしゃがんだ。
「これ…?」
固い…角が…箱? 片手の指を拡げたくらいの大きさか。
掘り出そうと周囲を手で掘ると、一センチくらいの深さで指先が継ぎ目を見つけた。
「蓋、ある?」
「あるよ」
応える声と、ついでのようにぼくの髪に触れる市川さんの指にゾクッとした。暗くて狭い穴の中で、市川さんとぼくの体温が混ざってる。
継ぎ目をなぞり、少し浮かして元に戻した。
「手、突っ込んでも大丈夫? 噛みついたりしない?」
「たぶん」
市川さんが密やかに笑う。
ぼくは静かに蓋を開けると、中を探った。
「なんかあった。また…箱?」
今度は手の中にすっぽりと入る。ぼくはそれを取り出した。
「それ、預かっておいてくれないか」
「何だろ」
狭さに立てなくてゴソゴソしていたら、市川さんがぼくの肘をぐいっと引っ張りあげた。
ほんの数センチ先に市川さんの顔がある。いつもキスしてる相手なのに、なんで恥ずかしいんだろう。
「何が入ってるの?」
見えるはずないけど、ぼくは穴の淵に腰をかけて小さな箱を街灯に透かしてみた。
「指輪」
隣に座った市川さんがはっきり発音した。
「へ? …指輪、くれるの?」
「欲しいのか? 柳瀬って、案外少女趣味?」
「値打ちものなら欲しい」
ぼくは照れて笑った。ドキドキする。
「値打ちものかどうかは知らないけど、母の形見だよ。父が婚約する時に贈った指輪。私が誰かにあげるまで、柳瀬に預かって貰おうと思って」
え…。
誰かにあげるまで??
市川さんの子どもを産む誰かが現れるまで?
「いいよ。預かっておい…てあげ…」
市川さんの顔がぼやける。ダメだ。不意打ち食らっちゃった。
ぼくは唇をかみしめて横を向いた。
「市川さん、いじわるだ」
市川さんが笑った。
「ごめん。でも柳瀬。惚れてることと、邪魔だってことは矛盾しないんだよ。お前がいなけりゃ、どんなに平穏な毎日が送れるだろうと、いつも考えてる」
「俺だってあんたがいなかったら、もっと気楽な人生送れてるよっ」
熱い。涙が溢れて頬を伝っていく。
なんだってぼくが。
言い返したぼくを、市川さんが嬉しそうに抱きしめた。
「じゃあ、あいこだ。柳瀬も私に惚れているんだ」
「惚れてなんてない。ただ市川さんはぼくの最初の相手でッ」
「最後の相手になるようにがんばるよ」
「……邪魔だって言ったじゃないか」
涙が止まらない。
「邪魔だよ。心配で何も手につかない。いっそ殺してしまいたくなる」
「殺せばいいんだ。強姦魔で殺人鬼の淫行公務員だって化けて出てやるッ」
「殺さないよ。一緒に生きよう、柳瀬。きっと楽しい人生が送れる」
「…ずるい、市川さん。ぼくをだまして」
「柳瀬こそ最初からずっと、私をだましてきただろ」
「うるさい、ぼくをだました。謝れ〜」
ぼくは子どもみたいに泣き続けた。
駐車場の鍵を開けると、泥まみれになった体をシートに預けた。
「それで…わざわざ昨日掘って埋めたわけ?」
「そう」
「馬鹿じゃないか」
「でも柳瀬の泣き顔が見れた」
ぼくは市川さんの頭を叩いた。
叩かれても市川さんは上機嫌で、なんだか悔しい。
指輪なんか絶対つけてやんないけど、預かっておいてくれって言うから、一生預かっておこうと思う。この晩春の宵が、いつまでもぼくとともにあるように。
開いている車の窓からいろんな植物の匂いが風で運ばれてくる。桜の匂いなんか淡くて分からないはずなのに、ぼくはそこにある桜が芳香を放ったと感じた。
2001.4.12 by Nanami