食後30分以内に服用してね by秋津さん
ブラインドを降ろさない窓から、フジミ銀座の向うに赤い大きな月が出ている。
まだ夕刻ではあるけれど灯りをつけていない部屋の隅に闇がひっそりと座っている。
ここ1週間ほどM響のラジオ番組撮りで圭の帰りは遅い。
元来タフな彼も、扉を開けて音をたてずに戻って来る様子はこころなし肩が落ちている。
その日も日付けが変わる頃カチャリと鍵の回る気配がした。
「圭、お帰り。 疲れただろう?」
「あっ、悠季。 起こしましたか? すみません。」
「風呂沸かしてるからすぐ入れよ。 冷えただろ?」
僕が後で入った風呂場から出て来た時、圭は既にパジャマをはおってベッドに沈んでいた。
前のボタンを留める余裕もなかったのか、つむった目元に深い影が落ちている。
スピーカーから流れているのはエンドレスのべートーヴェンピアノ・ソナタ第4番ハ短調作品27の2。
「圭・・・け・い・・・」
僕は今温まったばかりの右てのひらをそっと、彼の首筋に当てる。
しばらくそうして温もりを染ませ頚動脈の鼓動を聴いた後、肩口から背中にかけてゆっくりとさする。
小さい頃・・・
死んだ母さんは、すぐにお腹を壊す僕にこうしてくれた。
寝床でくの字に身体を曲げている部屋の襖を開けて、炊事場で濡れた手を前掛けで拭き、更に両掌をこすり合わせながらストーブにかざす。
そして僕の背中に手を当てて黙ってそばに座っている。
「手当て」という言葉はもともと身体の具合いの悪いところにそっと手を当てる
・・・というところから来たらしい。
そんなことを思い出しながら目を移すと、窓には場所を変えた金色の小さな月が輝いている。