天使の休日
 
 
 目覚ましが鳴った。
 僕は慌てて、けたたましい音を遮った。悠季が起きないように。
 恋人が眠っているうちに起き出すのはいつものこと。
 愛しい人の寝顔を眺めようと身を起こした。この瞬間が僕にはとても嬉しい朝の始まりで。
 だが、覗き込んだ途端に僕は凍りついた。浮かべかけた微笑みのまま固まって……。
「悠季っ?」
 そこに眠っていたのは僕の恋人にしては小さすぎた。
 サラサラの柔らかそうな髪も、ふわりとした綿雪のような白さの肌も、優しく閉じられた大きな美しい瞳を隠す瞼と、長い睫も同じなのに。
 僕より半年年上の筈の細身の恋人がいない。
 昨晩、悠季が着て寝た筈のパジャマの中に、埋もれるように眠っているのは、五、六歳の男の子。
 彼には見覚えがある。
 悠季の実家に行ったときに見せて貰ったアルバムの中に、彼の姿はあった。
「悠季……若返ってしまったんですか……?」
 直接の原因なんて解らない。とにかく、一生添い遂げることを誓い合った僕の伴侶が、小さな男の子になってしまったという事は事実。
 僕の家の老いた使用人が、悠季を精神的にも物理的にも傷つけてしまってから、僕の中での惑いは大きく膨らんでしまった。
 彼をゲイの道に引き込んでしまったことが、彼の不幸につながっている。解っていても、僕には彼を手放せないだろうという自覚もある。
 相当に我侭だが、悠季を不幸にしたくはないけれど、僕にとってはなくてはならない存在で。
 そんなジレンマのせいだろうか。
 子供の頃完治した筈の喘息発作まで起きる始末。
 その上、もう一週間以上も僕は不能になっていた。
 発作の時に死にかけて、悠季を失うなんて出来ないと言うことを改めて自覚した筈なのに。
 遠慮がちに寄せられる秋波を嬉しく感じても、彼を満足させられるようにはなれなくて。
 悠季を不幸にしてしまうのが怖い。
 今更悩むべき事でないのは解っているが、理屈と感情は違う。
 僕の中で昇華すべき感情はまだわだかまったままだった。
 悠季はそれに気づいていたらしい。
 だからなのか?
 悠季の無言の抗議を受けたような気分。
 それにしても、若返りは異常である。
 呆然と彼を見おろしたまま、どのくらい時が過ぎたのか。
 小さな悠季は微かに瞬いて、身じろぎした。
「う……ん……」
 高いトーンの溜息。
 ぱっちりと開いた瞳の色は勿論悠季と同じ茶色。
 覗き込んでいた僕と目があった途端にきょとんと僕を見つめてきた。
「…………おじちゃん……誰?」
「っ……おじっ?」
 誰って、僕を忘れちゃったんですか?
「……桐ノ院圭といいます。きみの」
 恋人です!
 言おうとして口をつぐんだ。子供相手では言ってもしようがないこと。
「とーさん、かーさんは? 芙美ねぇ、八重ねぇ! 千恵ねぇはぁ?」
 ふにゃっと涙ぐみながら周りを見回した。
「みんな、ちょっと旅行に出ています。君を僕に預けてね」
「ぼ……僕だけ?」
「ああ、まあ、そうです」
 今度は盛大に泣き出した。うちに帰りたいの一点張りだ。
 僕は失策をおかした。小さい子供の扱いなどは、はなから苦手である。だが、自分の子供の頃を照らして考えれば、僕の発言がどんなにショックか考えに入れておくべきだった。
「悠季、悠季、泣かないで。お父さん達に僕が頼んだんです。君がいないと、僕は……生きていけないので」
 大きな瞳がぼんやりと僕を見つめた。
「……なんで?」
 グッと詰まりながらも答えた。
「君が好きだから」
「……僕を好きなの?」
 言葉尻以上に真剣な瞳で訊ねてきた幼顔に頷いて返した。
 好きですよ。誰よりも、何よりも。
 今の悠季はなんにも覚えていない。僕のした事も、僕の家で起こったことも。
 だからなんの躊躇いもなく僕は言えた。百パーセント本当の気持ち。
「大好きです」
 僕等が愛し合ったことも記憶にないらしい悠季は笑った。
 無邪気に、なんのてらいもなく。
「……へんなのぉ」
 軽いショックを覚えた。子供の口から出たものでも、伝わらない思いに対する残酷な言葉は僕を深く突き刺した。
 泣き出したい気分をポーカーフェイスを固めることで抑える。
 途端にビクッと悠季が肩をそびやかした。
 ああもうっ! 脅かしてどうする?
 僕は慌てて笑みを作った。
「君は僕が嫌?」
「……わかんない」
 申し訳なさそうに目を伏せた。
「僕はいつまでここに居なきゃいけないの?」
 もう一度泣きそうな瞳で僕を見上げた。
「……君が戻れるまで。しばらく我慢して下さい」
 泣き出したいのは僕もなんですよ。
 僕を包んでくれる大人の悠季がいないというのは……本当に辛いんですから。
 それにしても、今日はどうしよう。幸い日曜というのは天の助けではあるが。
「はくちんっ」
 可愛らしいくしゃみに僕は飛び上がった。大きすぎるパジャマから肩が見えている。
 僕の大事な人が、更に無防備になってここに居るのだから、僕が守ってあげなければいけないですよね。
 悠季を毛布でくるんでから、ベッドの下の電話を取り出した。
「ああ、僕です。すみませんが、身長百センチ前後の五、六才の男の子が着る服を……、僕の昔のとか、残ってませんか?」
『ええ、納戸をお探しすれば……あると思いますよ』
「幾つか見繕って持ってきて下さい。アンダーウェアも。緊急事態なのでよろしく」
『……かしこまりました』
 執事の伊沢は実によくできた男だ。訝しい気持ちすら抑えて冷静に聞いてくれる。
 有能な桐ノ院家の執事は、僕が電話してから二時間で僕の要求したものを揃え、届けてくれた。
 が、さすがに悠季を見て固まった。
「こちら……守村様のご親戚で?」
「いえ、悠季本人なんです」
 どういうことだと瞳だけに浮かべて僕を見上げた。
「朝起きたらこうなってまして。取りあえず着るものをと」
 僕のおさまらない動揺を汲み取った伊沢は、荷を解いてスッと立ち上がった。
「……お食事は?」
「まだです」
「では、お作りします。守村様のお召し替えをお願いします」
「はい」
 悠季に下着を渡して着せにかかった。
「……おじちゃん……?」
 黙々と着替えを手伝うなか、そんな呼ばれようにがくりと気分が下降する。
「……圭です」
「え?」
「僕のことは圭と呼んで下さい」
「ケ……イ……?」
 怖ず怖ずと上目遣いで伺う瞳の悠季に微笑みかけた。
「なんですか?」
「泣かないで……」
「は?」
「泣きそうな顔、してる。僕、どうしたらいい?」
 悠季…………。
 こんな小さな子に見抜かれた?
 僕は跪いたまま小さな身体を抱き締めた。
「ケイ……?」
「少しの間……このままいさせて下さい」
 君は小さくなってもやっぱり悠季だ。おっかなびっくりにそっと僕の髪を撫でる手の感触で、本当に涙が出そうになった。
 伊沢の足音を感じて、慌てて身をはがした。
 伊沢は穏やかな声で僕等を呼んだ。
 ダイニングに悠季を連れて下りてみれば、悠季用のお子さまランチと僕の朝食が。
「既にブランチの時間でございますから。お口に合えばよろしいのですが」
 悠季はクッションで調節した椅子の上で嬉しそうにチキンライスの上の旗をつついた。
「すっごい。デパートみたい。これ、全部食べてもいいの?」
「いいですよ。圭様のも同じものですから」
 なるほど、盛りつけは違うが同じものだ。
「そういえば、伊沢にわがままを言ったことがあったね。お子さまランチが食べたいって……」
「遊園地にお連れした帰りでしたか。生憎夕食に選んだレストランにはお子さまランチがありませんで」
「でも、あの時出て来ましたよね?」
「シェフが特別に設えて下さいました」
「……そうだったのか……」
 通りすがりの茶店の窓から楽しげな親子連れが見えて。少年が嬉しげにランチの旗を振り回していたのを目にした後だった。
 座らされたレストランの席で、ぽつりと呟くように言ったお子さまランチというメニュー。
 それに対する僕の執着を伊沢は見抜いていたようだ。
 だからこそ無理を言って作らせたのだろう。
 食べて見れば、普通の味だった。
「でも、今日の方がずっと美味しい……」
「美味しいね」
 悠季が無邪気に微笑んだ。その笑顔を見ているうちに、僕はその日のプランを考えついた。
「悠季、遊園地にでも行きますか?」
「遊園地?」
 輝かせた瞳がイエスの答えを浮かべている。
 伊沢の用意してくれた服にはコートも含まれていて、申し分のないよそ行きの悠季が出来上がった。
 小さな悠季と手を繋いで歩く。誰にも気遣う必要のない無邪気な道行き。但し、悠季は身長差のために僕の手にぶら下がっているようなものだったが。
 
 
 天気はよいが冬らしい寒風が吹く中で、ソフトクリームをなめた。精力的に乗り物をこなし、はしゃいで、微笑みあって。
 全く気兼ねのないデートなんて、これが最初で最後かもしれない。頬や額なら堂々とキスまでできる。
 くすぐったそうに笑う悠季は、デートだなんていう意識もないだろうけれど。
 世間体もなにも、全てを気にしないでいい今日という休日を、僕は悠季がプレゼントしてくれたのだと思った。
「ケイ、ケイ、次はあれ! あれに乗りたい!」
 指をさした先はメリーゴーラウンド。
「では、僕はここで見ていますから。手を振って下さいね」
「一緒にのろ。ねえ、一緒に乗ろう!」
「ゆ、悠季!」
 とことこと僕を引っ張りながらゲートに向かう。
 小さな馬と大きな馬に並んで腰掛けた。
「ケイは一緒にいてくれって言ったじゃないか。それともやっぱりつまんない?」
「とんでもない、楽しいですよ」
「よかったぁ」
 にっこりした笑顔は僕を惹きつけたあの笑顔。
「君がこのままずっと一緒にいてくれたら……僕はずっと楽しい気持ちでいられるんですが」
 途端に悠季の顔が曇った。
「……お家に帰れないって事?」
「……いえ。君が帰りたければ帰っていいんですよ」
「でも、ケイは僕が帰ったら泣いちゃうでしょ?」
「また会ってくれるなら泣きません」
「会うよ。絶対会いに来るから」
「約束してくれますか?」
「うん。約束!」
 小さな指と僕の指を絡めた。
 慈悲深い彼は僕が泣かないと約束して安心したのか、一層無邪気に遊園地のアトラクションを楽しんだ。
 夕飯は子供の好きそうな園内のレストランで。
 遊び疲れた悠季を背負って家に帰った。
「悠季、悠季、寝間着に着替えましょう」
「んんん……もう、お腹いっぱい……」
 フニャフニャに眠ったまま呟いた。
「しかたありません、脱がせますからね」
 細くて華奢な腕を服から抜き取りながら、小さな悠季の素肌に幾つかキスマークを付けた。甘い吐息は聞こえないけれど、くすぐったそうな吐息が漏れた。
「悠季、愛してますよ」
「ケイ、約束だよ……」
 むにゃむにゃと寝言らしく彼は呟いた。
 ええ、約束です。
 これから先、君が元に戻らなかったら……。僕は一からやり直すつもりです。まるで光源氏のようですが、君の成長を待ちましょう。
 大きくなった君がもう一度僕を選んでくれるように努力します。
 今度こそ、失敗なく。
 今度こそ、躊躇い無く。
 そんな誓いを胸に、僕は眠りについた。
 
 
「ってててて」
 僕の目を覚ましたのは時計ではなかった。
 まろやかな優しいテノールが、甲高くうわずって。
 僕の悠季がそこにいた。
 飛び起きるようにしてベッドから降りて。
 破れたパジャマが絡みついて、白い素肌が見えている。
「なんなんだ? この下着!」
 きつく締め付ける子供用の下着を脱ごうと四苦八苦している大人の悠季。
 やっとの事で脱ぎ捨てて裸になった彼を横になったまま見つめた。
 締め付けられた部分が赤く痣になっている。
 子供の悠季も可愛いけれど、僕は今の君が一番いい。
 ガウンを背後から着せかけながら抱き締めた。
「け、圭?」
「お帰りなさい、僕の悠季……」
「え? え?」
 黙って抱き締めたまま、今度は彼をデートに連れ出そうと決めた。
 
おしまい
   
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