センチメンタルセレナーデ
 
 
 一月二日。正月休みの僕は一人留守番で、少し手持ちぶさただった。
 僕は桐ノ院圭。現在の役職名はMHK交響楽団のアシスト指揮者。
 主な仕事は、認めたくはないがドタキャンにあったスケジュールを無事にやり過ごすための代打屋で。
 だから、いつ声がかかっても振れるように、プログラムの予定は全てチェックをし、譜読みなどの下準備もしている。今月のプログラムでも、悠季と二人で聞きに行く予定のものがあるが、客席にいられない可能性もあって……。やることはいくらでもある。
 けれど、正月なのだ。本当ならのんびり愛する人と温泉で過ごしていたはずで。
 それが。
 天才ピアニストでクセのある親友、生島高嶺を連れて出かけてしまった僕のバイオリニストはレッスンのことしか頭にない。
「……早く帰ってきませんかねぇ」
 ぽつっと呟いてみて笑ってしまった。
 ばかですね。子供みたいだ。
 一人で留守番もできないようではね。
 
 
 軽やかな足音と勢いよく閉まるドアの音。
 それだけで、待ちあぐねていた僕は高揚感が膨らんできてしまう。
 それがあの人のものだから。
「ただいまー」
 言ったなりに靴をかなぐり脱いで、迎えに出た僕とぶつかりそうな勢いでこちらに突進してきた。
 守村悠季。
 頬を紅潮させ、瞳は幸福感に輝いて。なんて美しい、僕の恋人。
「おかえりなさい」
 いつもの挨拶のキスをこんなにも素敵な人と交わせるのだと思うと、僕の高揚感は更に大きく膨らんだのだが。
 彼はすっと僕の脇をすり抜け、コートを脱ぐ暇も惜しんでバイオリンを弾く定位置であるピアノの横に突進を続けた。
(バイオリンが弾きたいんだ。とにかく早く!)
 彼の声が耳元で聞こえたような気がした。それは、空耳でしかないけれど、確かに彼の心の声で。
 今日のレッスンはうまくいったらしい。ミューズの薄衣の裾を掴みかけ、それがすり抜けていかないように捕まえたいのだ。
 悠季がりりしい立ち姿でバイオリンを構え、自分の内部にその音を探そうと集中に眉を軽くひそめて、すうっと弓を引いたとき。
 僕はただただ見惚れて立ちすくんでいた。
 ブラームスの「雨」。第三楽章の冒頭を弾きだして。多分そこがとっかかりだったのだろう。
 ふいに紡ぎ出た音に、ほうと溜息が口をついて出た。
 あの音! 確かに彼は捕まえた。
 同じようにハッとしたような表情を浮かべ、微笑みにとろけ、弾き続けて。
 そう、次はそれが思い通りに出せるコツを身につけること。
 それは大変プラス思考の幸福な努力への道で。それが大きく彼の前に開けている。一歩を踏み出し、まっすぐ突き進む彼の姿。
 ミューズとの交歓に全てを委ねた、恍惚とした表情。
 そのなんと幸福そうなこと!
 そして、なんて色っぽいんだろう!
 下半身にズキッと痛みを感じて慌てた。
 どんなに色っぽかろうが、今彼に襲いかかるわけにはいかない。
 だから僕はそっとドアを閉めた。
 瞬時に僕は現世に置き去りにされたわけだが、何しろ相手がミューズでは、いかんともしがたい。
「確かに、今が頑張りどころですね、悠季。もちろん僕は協力しますとも。まずは邪魔をしないことです」
 とりあえずの仕事は……。悠季の昼飯を作りましょう。
 気軽に食べられる握り飯かサンドイッチでも……。
 伊沢の教授で、僕の料理の腕もだいぶ板に付いてきたと思う。そんな自信も、悠季が残さず食べてくれるから。
 お皿もだいぶ割らずに洗えるようになった。要は指先の力加減なのだ。僕の生活的な不器用さは不慣れだっただけなのだと、悠季が笑いながら言ってくれた。
 ただ、僕のバンダナとエプロン姿だけは、どうも彼にとっては面白可笑しいものらしく。
 たしか、『男の料理』を買ったと言ったときも笑われたっけ。
 愛しい人を笑わせることは嬉しいことでもあるのだけれども。
「ちょっとは傷ついていたりするんですが。僕も生身の人間ですからね」
 さて、今日は……。
 冷蔵庫を覗いた。
 野沢菜の漬け物が残っていた。それとシラスが少し。
「きまり。野沢菜とシラスの握り飯ですね」
 野沢菜は汁気を取って細かく刻んだ。
 冷や飯は電子レンジで温めて。
 一度ほぐしてからシラスと野沢菜を混ぜ、醤油を少々垂らし……香り付けに少しだけ胡麻油。
 ちょっぴりつまんで味見。
「うん、オッケ」
 言ってみて悠季の口癖だと気づいた。
 苦笑しながらも熱い中に握り、海苔を巻いて。皿に四つほど並べ、ラップをかけた。
 ピアノ室のドアを極力音を立てないように開けて。
 無心に弾き続ける悠季を伺いながら側のテーブルに置いた。気づいたときに食べて貰えばいい。
 今はミューズを手放してはだめですよ。
 気づけばすまなそうに僕を見つめる瞳を脅かさないように、僕は来た道をそっと気配を殺して戻った。
 
 
「さて。譜読みでもしますか。今は僕も研鑽に励みましょう。悠季に置いて行かれないように」
 僕の魂を揺さぶったあの音が戻ってくる。それは、僕にとっても嬉しい出来事で。ずっと待っていたことだから。
 毎日毎日の悠季の成長に励まされ、僕自身を磨いて磨いて、世界の檜舞台で彼と並んで握手をするために。
 今年の誓いは、僕もタイトルを取ること。去年の失敗をふまえて、見栄を張らず、僕の中の音楽を表現しよう。
 悠季がステップをかけのぼり始めたのだから。僕も……。
「玄関へ行ってみさい」
 その声は時々、僕に語りかける。正体は分かっている。玄関に掛かっている肖像画の……もうこの世の人ではない、この家の正統な持ち主……。
 伊沢光一朗氏。執事の伊沢の兄に当たり、多分、お爺さまの愛した人で。
 きっと、僕らの味方。
 言われたとおり僕は玄関へ行ってみた。
「あら、お兄さま。玄関、開いてましたわよ」
「新年早々なんです?」
 現在、小夜子とは悠季を巡って争っている最中である。
 三人結婚。
 僕の恋人と結婚。子供を産んで、僕と悠季と三人の結婚生活をするという……。
 両親は、悠季と小夜子の結婚を否定しなかった。そこにはお家命の、人間性を無視した考え方が息づいている。
 もちろん、小夜子の意図は違うところにある。悠季とは形だけの婚約をし、結婚を延ばして。とりあえずの自由を得、いずれは自分が跡を継いで家長になる。そんな野心を僕に話して、協力を求めてきた。
「お兄さまばっかりずるい」
 なんて台詞で、自分に背負い込まされた荷の重さを訴えてきたのだった。
 だが。
 本人がどのくらい気づいているかは分からないが、小夜子が出した提案は、どんなに都合が良くても、絶対にうなずけないのだった。
 小夜子が本気になったら……。本気で悠季を愛してしまったら……。
 生き地獄だろう。三人とも不幸になるかも知れない。もしも本気で子供を作ったりしたら……その子供も。
 愛があれば大丈夫というのは嘘だ。愛があればこその憎しみというのがある。
 人を悪鬼に変えるのは、憎しみだけじゃない。愛憎が出揃ってこそだ。
 だから……。
 小夜子による悠季に対する誘惑を全力で阻止しなければならないのだ。
「新年のご挨拶に伺ったんですわ。守村さんは?」
「……レッスン中です。それも没頭中という状態で。邪魔したりしたら、噛みつかれますよ」
「あらまぁ」
 小夜子はそっと奥を伺った。悠季のバイオリンの音色を聞き取って、頷いた。
「確かに。この間も叱られてしまったばっかりですもの、退散しますわね。守村さんが下界に降りられたら、よろしくお伝えになって」
「伝えませんよ」
「もうっ、本当にお兄さまったら意地悪ね」
 ちょっぴり膨れ面になってきびすを返した妹の後ろ姿を見守った。
(君のためですよ)
 いや。僕のためでもあるけれど。
 悠季は僕が倒れたときに、僕を守るためなら小夜子との結婚も辞さないなどと言ってのけた。彼自身がとても傷つくのが分かっていて。
 小夜子が全てをおっかぶせた僕への当てつけだけで悠季に近づいたのなら、それでもいいかも知れない。
 だが。
 小夜子はきっと悠季に傾いていく。僕が惹かれたように悠季のまっすぐさに。
 僕が恐れているのは悠季の心変わりでもある。今そんなことを言えば、彼は怒るだろう。しかし、子供を作って本気で彼を愛する小夜子を前にしたら……。ほだされてしまうかも知れないではないか。
 そうしたら僕は……。
 壊れてしまう。
「とにかく、悠季に手出しは無用です」
 優雅に立ち去る我が妹の背に、呟きをぶつけた。
 ふと、玄関の肖像画に目を向けた。
 柔らかな微笑みを浮かべた、しっとりとした美青年。
「とりあえずは撃退しましたが……僕の悠季を小夜子から守るために、今後ともよろしく」
 軽く頭を下げてから見上げたら、絵でしかないはずの光一朗氏が目元を細めて微笑んだような気がした。
 
 
「ケイ! あっけましておっめでとー!」
 けたたましい声で入れ違いに飛び込んできたのはソラ君。後ろから来る巨漢の天才ピアニスト、保護者の生島高嶺とは恋人同士だ。
 最近はブロークンな英語混じりの話し方まで高嶺に似てしまっている。
 未成年者を情人にしているというのは傍目にはまずいのだが、どうやらソラ君が積極的に選んだ道らしいから目をつぶるしかない。
「マミーは?」
 それは文字通りソラ君にとっては母代わりと言ってもいいほど面倒を見た悠季の呼び名である。
 最初は僕の悠季がマミー呼ばわりされることにも抵抗があったのだが、仕方なく許している次第である。
「しいっ、レッスン中です。邪魔しないで下さい」
「あううっ」
 大げさに頷いたソラ君は、悠季がことバイオリンに関しては豹変するのをよく知っているので、ゆっくり後すさった。
「フン、ちょっとは掴んだらしいな。マサオが泣いて喜ぶかも知れねぇ」
 悠季の師である福島先生をマサオ呼ばわり。
 高嶺の傍若無人さはどこでも全開である。
 それでも耳は確かだ。悠季がミューズと交歓中なのを聞き取って、ニヤリと笑った。
「桐ノ院、この調子じゃ、しばらく日照りだな。この浮気にゃ、文句も言えねぇだろ?」
「言うわけないでしょう? 浮気ではないんだから」
「あいつがイくところ、マサオや、そのうち客にまで見せなきゃいけねーんだから、今からそんなにカリカリしてちゃ、もたねーぞ」
「僕は平気です」
 高嶺の下卑た物言いにいちいち煽られるようじゃ、それこそ身が持たない。
 だから、ちっとも平気ではないけれど、そう応えた。
「……マミー大変なんだな。まだいっぱい練習しないと、高嶺とバトル、出来ないんだって。自分を出す練習って、難しそうだ」
 ソラ君は本当に心配そうに音楽室の方を伺った。
「悠季には特に難しいでしょうね。恥ずかしがりやですから。でも、音楽家ですよ、彼は。大丈夫。自分の本来の姿を認めればもっと大きく美しく生まれ変わります。そんな悠季に会えるのを楽しみに待っていましょう」
 もうすぐですから。
 本当は、楽しみなだけではなく、怖いのだけれど。悠季が悠季ではなくなってしまったら……。僕の悠季ではいてくれなくなってしまったら……。
 そういう可能性だって、無いとは言えない。
 今だって、バイオリンにのめり込んだときの悠季は、僕のことを忘れてしまうのだから。
 
 
 結局彼はその夜僕らのベッドには戻ってこなかった。
 バイオリンの音が消えた夜半に、いつまでも戻ってこない彼の様子を見に降りたら、疲労困憊してソファで眠る姿を見つけた。
 彼を抱き上げてベッドへ運ぶことも出来たけれど、止めておいた。きっと、起き出せばすぐバイオリンに飛びつくに決まっている。
 せめてもの気持ちで毛布を二階から下ろして彼に掛けた。風邪などひかれてはいけないから。
「早く、帰ってきて下さいね」
 ふっくら柔らかな優しい唇に触れるだけのキスを盗み取って囁いた。
 ふと視野にはいったバイオリンを思わず睨み付けてしまう。
「僕の悠季を早く返して下さい」
 などと言ってみても仕方ないけれど。
 ただ、今夜から独り寝になってしまいそうな彼の傾倒ぶりが不安で。
 体を壊さない程度に休んでいるのでしょうか。明日はもっと栄養を考えた差し入れをしなければ。
 意外にも料理は楽しい。僕が作った物を食べる悠季の顔を眺めるのが嬉しいのだ。
 まだ合格点の美味しそうな顔を見ることが出来るのはコーヒーだけだけれど。
 料理は男を捉え、捕まえ続けるには有効なアイテムである。容姿は日々衰えて行くものだし、性格は逆に変わらないからこそ継続の力にはならない。人は良い意味でも悪い意味でも馴化するものだから。セックスでさえ、少しずつマンネリ化していくのが常。
 その点、食というのは毎度の刺激になるのだ。生きるのに必要不可欠な上に、バラエティも山ほど。悠季を繋ぎ止めておく武器としては僕の腕はあまりに未熟だけれど、努力し続ける僕を見せることが彼への刺激となる。
 料理は女の武器とは限らない。そうだったら世の料理人は全て女でなければならないだろう。お袋の味ですら女固有のものではないのだ。
 要はセンス。そして僕はセンスには自信ありだ。
 僕が悠季のために家事をするのは、男同士の所帯での役割分担はその時出来る者がすればいいというだけのことで。今は悠季が男の人生勝負をかけているところだから僕がフォローするのが当たり前だと思う。
 何でも出来ないよりは出来た方がいい。悠季のお荷物に成り下がらないで済むように。
「……もちろん悠季を繋ぎ止めておくのに一番有効なのは僕が音楽家として成長することだけれども」
 ふふっと笑みを含ませた溜め息を吐いて、漏れ聞こえてくるバイオリンの音色を楽しんだ。
 
 
 その時の僕はミューズの試練がまだホンの手始めに過ぎないということを思ってもみなかったのだった。
 
おしまい
 
 
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