家政婦は覗き見がお好き

は? 私ですか?
 いえ、そんな、ええ、桐院さんのお宅には昨年の冬から通っておりますが。
 はあ……。何でも長年住み込みでいらした方の持病が悪化したとか。相当お年も召していたようですし、老後の保障をして、引退していただいたそうです。
 何の病気かって? 存じませんよ。そこまでは伺いませんでしたから。
 それに、ほら、なんともうしましょうか、あまりそのことに触れたくないというような……暗黙の了解のような……ありますでしょう?
 私だって雇われたばかりでそんな探るような真似、出来るわけないじゃないですか。
 ああ、こちらのケーキ、美味しうございますわね。
 え? もうひとつ? あら、すみませんねぇ。はい、じゃあ、そのイチゴの乗ったのを。
 ……ありがとう。
 で、何でしたっけ。桐院さん。
 ご長男の圭様のこと……ですか?
 私はあまり面識が……。何しろお住まいは別ですから。何かの用の時には伊沢さん……執事をなさっている方ですが……を頼りになすっているようですよ。
 そうですねぇ、私ども使用人には分かりかねますが、ご立派な方で。見栄えも、周りのお嬢様方ばかりか殿方でも振り返るような、いわゆる好男子ですものねぇ。
 …………お正月明けのこと?
 ああ! 圭様がお戻りなられていた頃のことでございますか?
 でも、何でそんなことをお知りになりたいんですの?
 本? 取材ですか?
 あらまあ。圭様がM響の指揮者だということは存じていましたが……。旦那様の口振りでは未だ駆け出しだと……。
 え? そんなによいお仕事をなさっているのですか?
 すみません、私、そういう世界には疎いもので……。
 でも、圭様のご実家でのお過ごし方が音楽雑誌の記事になるんですか?
 青年指揮者の素顔……? ああまあ、ファンの方というのは、そういうことを知りたがるものですわね。
 別段普通でしたわよ。
 え? それじゃあ話にならない?
 そうですねぇ……。
 急にお戻りなられて、『しばらく滞在します』とおっしゃられたときは、奥様も旦那様もちょっと驚いていらっしゃいました。
 小夜子お嬢様と伊沢さんは、何かご存じの様子で受け流しておられたけれど……。
 私から見てのご様子ですか?
 確かに、ご機嫌麗しいという雰囲気ではございませんでした。
 でも、圭様という方は、感情を表にお出しにならない方ですから……。
 小夜子様に、『喧嘩でもなさったの?』と尋ねられたときに、少しむっとなさっていたように見えました。
 『ちがいますっ』なんて、小さい「つ」の字がついてしまうような口調で判ってしまいましたの。
 え? 喧嘩の相手が誰を指しているか?
 判りませんとお答えしておきましょう。確信を持って言えることではありませんので。
 とにかく、その日の御夕飯までは、不機嫌そうにしてらしたんですよ。
 食欲もないらしく、あまり箸をおつけにならないで、すぐにお部屋にこもられてしまいました。
 伊沢さんが、あの方は小食だといわれるので、お夜食の準備はいたしませんでしたの。
 翌朝は、通勤時間が長くかかるとかで、早くに起きられて、コーヒーだけ召し上がって出られました。
 そうそう、変わったことと言えば。
 夕方お帰りになると、じいっと電話の前にたたずんでいらっしゃるんですよ。
 なんだか寂しそうで、見ていてはいけないような気にさせてしまうほど、切なげなご様子で。
 実際私が立ち止まって見ているのに気づかれますと、そそくさとお部屋にこもってしまわれました。
 観察していたわけではないのですが、やはり私もいろいろと仕事がございますので、何度も通りがかってしまうんですのよ。
 何か、具合でも悪いのかしらと心配になってしまったんですが。
 使用人というのは、家族ではありませんから、あまり立ち入ってはいけないわけです。余計なことを言っていけませんし、かといって、気づかない振りだけしていればいいわけでもないので、難しいんですのよ。
 ですから、伊沢さんにはご報告しておきました。
 伊沢さんは、何もかもご承知のようで、圭様がご自分で選んだ状況ですから、静観するようにといわれました。
 まあ、でもねぇ。圭様はとっても男前でしょう? それが、あんなに切なげなお顔をなさっていると、女心をくすぐられますわよ。ええ、私だっておばさんとはいえ、女ですから。
 最初の何日かはそれだけでした。
 お部屋では、譜読みとかいうことをなさっているとか。
 伊沢さんに教えていただいたのですが、指揮者というのはただ棒を振っていたのではないのですね。クラシックと
いうのは、同じメロディを奏でていても、演じる方の個性とか解釈の仕方とかで違ったものになっていくとか。
 オーケストラという大人数の個性を束ねて一つのものに編み上げるのが指揮者なのだと。
 圭様は、そういう力仕事を、頭の中でなさっているのだそうで。すごいんですねぇ。さぞや疲れるんでしょう。
 毎日毎日、少しずつですが、圭様の顔つきが疲れていくのが判りました。
 ええ、無表情を装うのすらエネルギーが足りないかのようで。
 圭様のお部屋へは、必要がない限りは入らないように申しつけられていたので、私はお見かけしたときのご様子しかお話しできないんですよ。
 一度だけ。伊沢さんに頼まれて、圭様宛のお葉書をお届けしたことがありますけど。
 通常はお部屋のお机の上に置いておかれるものなんですが。
 伊沢さんが、どうして圭様がお帰りになるまで、その葉書だけ除けておいたのかは判りません。元々圭様は桐院家にお住まいではないのですから、郵便物はほとんどないのです。
  あの葉書が特別扱いされた理由は私なりに推測はしておりますがね。
 不機嫌そうに受け取られた圭様のお顔がまあ、溶けそうに緩まれてしまったのですから。もちろん私が未だいたのにハッとして、無表情を取り繕われましたけど。
 あわてて私、お部屋の外に出ましたのよ。扉を閉めるとき、ちらっと目をやったら、それはもう嬉しそうに何度も葉書をお読みになっておりました。
 え? そんな。なんて書いてあったかなんて見ませんよ。ハガキとはいえ、プライバシーは守りたいじゃありませんの。
 ですからね。本当に偶然なんですのよ。差出人の方のお名前は目にしてしまいましたの。
 守村悠季。そんなお名前でした。
 でね。ちょっと考えてしまいましたの。
 圭様に葉書一枚であんなお顔をさせてしまう方ってどんな方かしらって。
 これはあくまでも勘ですよ。
 パッとある殿方の顔が浮かびました。一度しかお会いしていませんが、唐突にその方だって確信しましたの。
 ただ……。これは口外していただいては困るのですが。
 記事になるんでしたわね。いけない、言わない方がいいわ。
 は? 雑誌じゃない?
 小説……ですの?
 圭様たちがモデル……?
 特殊な本……ですか?
 パラレルワールド……?
 よく解りませんけど……。
 圭様にも桐院家にも迷惑はかからないと?
 どうしましょう、え、いえ、あなたを疑っているわけでは……ただね、守秘義務といいますか……。
 はあ、まあその、私の印象だけなのですが。
 圭様はどうやら……その殿方と同棲していらっしゃるようなのです。
 同居? いいぇぇ、同棲ですよ。
 私が勤め始めて間もない頃、若い男の方が訪ねてらして。小夜子様にご用があったようですが、その様子からして小夜子様となにがしかトラブルがあったようなのですが。
 その方がね、又後日それはもうあわてた様子で伊沢さんに電話をしてきまして。
 圭様が倒れられたとかで、大騒ぎになりまして。
 圭様はご無事でらしたんですが、それで分かってしまいました。
 あの方は、圭様をとても大切に思ってらっしゃる。
 どう割り引いてみても、あのご様子は、恋人というか、伴侶の危急に動揺していたようにしか見えませんでしたもの。
 そう考えてみれば、あの方の、圭様とは全く違った見目麗しさが急に思い出されて。
 綺麗な方だったんですのよ。ほっそりとした華奢な方で、瞳は大きく澄んでいて。どの造作をとってみても繊細な優しさに満ちてらして。そうですわね、確かに男らしさを形に表すとしたら、あの方は彼方対局におかれてしまうでしょうけれど。
 私、入りたてであの方を煩わせてしまったのですが、いらいらしながらも、どうにか我慢なすってお帰りになったんですわ。使用人への気遣いもお忘れにならない方です。きっと分け隔てなくお優しい方なんでしょうね。
 …………そうそう。今思い出しました。いやだわ、私、ずっと勘違いしていましたのね。
 あの方の名前、“ゆうき”……ですわよね。
 あれは……圭様が滞在なすって一週間が過ぎた頃でしたかしら。
 お食事もあまりのどを通らないご様子で、夜分にブランデー入りのミルクをご所望になったんです。
 伊沢さんは、ご隠居様のお世話に向かってらしたので、私がお届けしました。
「ありがとう」
 と、いうお声がとっても素敵でしたのよ。圭様は本当におモテになるのでしょうね。
 私、つい、お部屋を見回してしまいました。なんだかすぐには去り難くて、もう少しあの方を鑑賞したいな、なんて。
 いやですね。私ったら。
 ベッドの上に幾つかの楽譜が散らばっているので、譜読みをなさっていたのだなと思いました。
 でもね。写真らしき物も、ちらって見えたんですのよ。譜読みには必要、ないんでしょう?
 ええ、それくらいは何となく判りますよ。
 ですから、集中できずにミルクで気分を変えたいんだなと思ったのです。
 ところが。
 私の女中部屋は別棟になっております。離れとでも言いましょうか、母屋に比べれば新しめの、普通の作りでございます。
 前任の方の荷物などがまだ残っているとかで、別の部屋をあてがわれたのですね。やはり、ご病気での退任とのことですから、私としてもその方がありがたかったのでございます。
 で、そのお部屋。庭を挟んで、圭様のお部屋の窓が遠くに見えるのでございますよ。真正面ではありませんが、夜目には明かりをつけられているお部屋というのは、よく見えるものですわよね。
 あの。本当にここだけの話にして下さいね。
 私がお部屋に下がってからのことなのです。私物のお洗濯ものの、脱水できないブラウスなどを、水切りのために外に出していたんですが。夜通し出しっぱなしですと凍結してしまいますから、取り込んでおりましたら、風に乗って密やかな声が聞こえて参りました。
 とても微かですが、溜息のようなかすれた、それでもとても響きのよい声でした。その夜圭様の声を聞いていなかったら、判らなかったかもしれませんが。
 確かに圭様の声だったのです。
 何事かを繰り返し唱えているようなお声で。かすれ方は少し苦しげで、たなびくようなのび方をしていて。
 普通のお話声とは違います。
 どうかなさったのかと、お庭から窓下に近づいてみました。
「勇気、勇気」
 唱えている呪文はそう言っておりましたの。
 その時の私は、自分を元気づけるためのおまじないか何かだと思っていたんですのよ。当てる漢字自体が間違っていたんですね。
 息づかいや、生唾を飲み込むようなとぎれ方が、窓下ですと聞こえてしまいまして。何か、とてつもなく苦しいくらいに煮詰まってらっしゃるんだと思いました。そのときは。
 それにね。お掃除の時に、ゴミ箱にはティッシュがたくさん捨ててあったんです。単純に鼻風邪でも引かれたんだと思っていました。
 もう、私ったらほんとにいやね。
 すべてが繋がった今、圭様が何をなさっていたのか……。
 あら、赤くならないで下さいまし。こちらがなおのこと恥ずかしくなってしまいます。本当に私、その時は気づかなかったんですのよ。カマトトと思われます?
 だって、本当なんですのよ。
 ですから、圭様の不調の原因は、お仕事ではなかったと、今なら断言できるんですわ。
 実際、圭様が家を出られる前日の夜までは毎晩呪文は唱えられていたんですのよ。ええ、あれは呪文です。
 早くお家にお戻りになりたいという圭様の願いを込めた。
 何があったのかは存じませんが、守村様との別居は圭様にはかなり堪えてらしたんですわ。もう、お可哀想なくらい。
 あら、そのお顔ですと、何かご存じですのね?
 あなた、どういうご関係ですの?
 圭様たちと。
 本当に、本当にただの小説ですのね?
 あの方たちに迷惑がかかるようだと、困るんですのよ。
 え? 最後の夜ですか?
 お仕事からお帰りになった時からそれはもうご機嫌で。何ですか、一所懸命に無表情を装ってらっしゃるんですが。目の色は輝いておられるし、言葉の端々が弾んでらっしゃる。もちろんかすかに、ですがね。私もこの稼業を長くやっておりますもので、人の気分を見て取ることには長けていると自負しております。
「明日戻ります」
 といって、伊沢さんにバラの花の手配を頼んでらしたときは、まさにこの世の春といったご様子でした。
「圭様は明日始発でお戻りになるでしょうから、朝食をそれに合わせて用意して下さい」
 伊沢さんもなかなかですわね。おっしゃったとおり、始発電車を待ってお乗りになるといったご様子でお出かけになりました。
 三つ揃いのスーツに、赤いバラの大きな花束。まかり間違えば、気障すぎて道化になってしまいますわよね。
 圭様ですからお似合いになっておりましたが。ええ。誰もが見とれるほどに男前で。
 これからどこへプロポーズに行かれるのかしらといった力の入りようで、微笑ましい限りでございました。
 は?
 あの日は守村様の誕生日だったんですの?
 それはそれは。
 よかったですこと。そういう特別な日を二人で祝えるというのは、とても幸せなことですわ。
 桐院家というのは、そこはかとなく冷たい空気の漂うお家ですの。雇い主のことをどうこういうのは違反ですが。圭様があのようにお育ちになられたのも仕方のないことかもしれません。
 でも、今は守村様とのお住まいこそが、あの方の家なのですから。
 圭様にお会いできるのは嬉しいですけれど、もう別居なんてことになりませんように、お祈りしたくなりますわ。
 ああ、あなた方もそういうスタンスですの?
 それなら安心です。
 あらあら、もうこんな時間。
 明日はまた朝からお仕事ですの。
 すっかりごちそうになってしまって、申し訳ありません。
 本が出たら、私にも送って下さいましね。
 それではごきげんよう。




おしまい
 
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