恋人達のコラール―目覚めよと人は云う―
七月の真夏日。その暑さはドアベルと共に入り込んでくる外の空気と、冷房の空気に瞬間オアシスを感じる客の顔が教えてくれる。
「いらっしゃいませぇ!」
この台詞もだいぶ板に付いてきたと我ながら思う。
M響の練習場近くの茶店、「サフラン」が俺の仕事場だ。
俺は遠藤義男。高一だけど、親に無理言って入った都立校は結局肌が合わなくて、登校拒否みたくなっちまった。
そんなこんなで親父とも上手くいかなくって家に居づらくなってた五月の終わり。
野良犬みたいになってた俺に手を差しのべたのは、親でも学校の先生でもない。中学の時、俺が手ひどく裏切った部活の先生だった。
守村悠季先生。
身長は俺よりあるくせに、何だか華奢な雰囲気がそうとは気づかせない。少し冷たい雰囲気を醸し出す地味な眼鏡の奥にものすごく綺麗で大きな瞳が隠れてる。
ヴァイオリンが好きで好きで。
その音は優しくて綺麗で、何でプロじゃないんだろっていう腕。
料理が上手くて、面倒見がよくて……。
先生はヤな顔するけど、親友のソラがマミーって呼ぶの、しょうがないって気がする。
俺は、何もかもを斜めに見る癖が出来上がってて、そんな先生の善意もホントだって信じるには時間がかかった。
だって、どっちかって言えば恨みしかのこらなそうな赤の他人のこと、親身になって世話しようとするなんて、ちょっと信じ難いだろ?
俺が出会ってきた大人達は、みんな裏表を持ってて、長いものにはまかれろ、力が白黒を決めるってのが当たり前だった。俺の親父だってそうだ。
だから、裏表無く生きてるらしい先生みたいな人種には遭ったことが無くて……。
音楽をマジで愛してるらしい先生には、俺達が学んできた裏表人間養成機関の小早川学園はなじまなかったらしい。
俺達の卒業式後、直ぐやめたってから……。
ホントは卒業コンサートのボイコットなんてしちゃいけなかったんだ。
先生はそれだけが理由じゃないって言ってくれたけど、先生と同棲中の桐ノ院さんが言うには、大半の理由がそれだってことだった。
そう、先生は男で、桐ノ院さんも男で……。つまりはホモなんだけど、俺が認識していたものとはちょっと違う。
二人とも真剣に、お互いだけを愛してるらしく……。それは、ホモなんて言葉でかたずけちまうのは申し訳ないような……。
もし男同士がいけないってなら、この二人の場合は、神様がどっちかを作り間違えちまった、神様のミスって感じ。それくらい先生達は、二人でいるのが自然に見えるカップルだ。
もちろん、俺だって最初からそんな風に理解があったわけじゃない。どっちかって言えば、ホモに対して過剰反応なほど汚らしさを感じてた。
小早川のター助とガキの頃からの知り合いの宕谷のヤッてる所見て、キタネーとしか思えなかった。何か、欲望剥き出しの獣って感じで。普段すました態度の分、そのギャップは大きかった。
だから、先生がホモだって判ったときも同じだって思ってたんだ。
そんな俺が今働いてる所は、先生の替わりに桐ノ院さんの紹介で入ったバイト。
桐ノ院さんはM響の指揮者だ。
今もカウンターで定番のマンデリンとブルマンのブレンドを啜っている。
先生が華奢な印象に見えるのは、この人と一緒にいるせいかもしれない。
プロレスラーの前田日明と同じような身長で、細身だけどしっかり筋肉の付いたスゲーきれーなプロポーション。無表情だけど滅茶苦茶整ったきれーな顔。先生も綺麗だけど、どっちかって言えば女顔で可愛いって感じで、桐ノ院さんのはあくまでも男っぽいハンサムな顔。
ああ、先生達がベタベタしてても許せるのって、ヴィジュアルきれーだからかな。うん、それもあると思う。
しかも。
どうやら桐ノ院さんの方が守村先生にベタ惚れらしくって。
守村先生んちに世話になってた時なんて、俺に対して敵意剥き出しだったんだ。いつだってポーカーフェイスでいるくせに、守村先生の前だともう別人。きっとマスターに言っても信じないだろな。この人がかなりの焼き餅焼きで、甘えん坊だってこと。
「何です? 僕に何か付いてますか?」
ソリストでもあんまりいないようなかっこいいバリトンが響いた。桐ノ院さんの声は凄く良い声なんだ。ドスを利かせると凄く怖いけど。
「あ、いえ。守村先生と居るときとは随分顔つきが違うなって……」
「けほっ」
啜りかけてたコーヒーにむせて咳をするのもバリトン。
ギロッて流し目で睨むその眼光はひたすら鋭くておっかない。
「いきなり何です?」
礼儀正しい言葉遣いが時々嫌みにさえ聞こえる桐ノ院さんは、今と同じ口調で俺に脅しをかけてきた。
『悠季の関心を引こうとするなら、窓から放り出される覚悟でやりたまえ!』
……だったっけ……。
桐ノ院さんが心配するような意味で、俺は先生の気を引こうとしたんじゃなかったんだけどね。
親身になってくれる先生に本気で叱られたかった。叱って貰って、ごめんなさいが素直に言えるようになりたかった。
……叱られるだけじゃなく、殴られて蹴られて、ボコボコにされたけど。
いや、俺、先生のことナメてたんだよな。いっつも優しいから、ソラじゃないけど、おかーさんって感じに思ってたのかもしれない。けど、先生はいったんブチ切れるともう、すげー怖くって。
甘い砂糖菓子の中には滅茶苦茶辛い唐辛子が隠れてた。
そんな唐辛子の部分は特別で、俺なんかが触れたらいけない、桐ノ院さんにとっては宝物らしくって。だからあの台詞……。
しかも、あの時は未成年の俺に、わざと見せつけるように先生を押し倒してキスして見せたり、音たててキスしたりしてさ。
『僕の……悠季……』
……なんてね。
先生は恥ずかしがって困ってたっけ。
「桐ノ院さんて、ここではいっつもポーカーフェイスだなって。守村先生も、桐ノ院さんの前では違うんですか?」
俺の質問に、桐ノ院さんは何の感情も浮かべない瞳で睨み付けるという返答方法を採った。
それでも俺が返事を待っていたら、小さく溜め息をついて言いだした。
「悠季は裏表がない人ですから。違いませんよ。ただし、怒らせてしまったらどうなるかは君も知っているはずです」
チーフが食事に出ていて、M響の連中もいないブランクの時間。桐ノ院さんは自分たちの関係を知っている者には隠そうとしないから。
そう、俺に対しては最初からそうだった。積極的に見せつけて、自分が先生にとっての特別だって俺に分からせようと牽制してた。
「先生……、川島さんのこと好きだったらしいって……。先生はホモじゃなかったの?」
川島さんてのは、俺や先生たちが入ってるアマチュアオケ・通称フジミのフルート奏者で、多分一番美人かも。でも、えらくきついって言うか、勝ち気な感じなんで、俺の好みじゃない。
俺の好みは関係ないけど、前から不思議だったんだ。既に今は桐ノ院さんと恋人な先生は、川島さんに対してだって、普通に接してる。けど、昔はそうだったみたいだって聞いたから。じゃあ、先生ってホモじゃない訳か? って。
「誰に聞いたんです?」
「米沢さん。川島さんが話しかけると笑顔が違ってたって。先生って、ホント顔に出るから……」
言いかけて、俺は口をつぐんだ。桐ノ院さんの目が尋常じゃない光を浮かべていたから。
ほら、桐ノ院さん、やっぱり守村先生のことになると顔つき違う。
だけど、俺が余計なことにつっこみ入れてるから怒ってるのとは違う。なんか、別のことにショック受けたみたいだ。
「悠季は……悠季はね、僕が無理矢理手に入れた人なんです。僕が惚れて、僕が口説いた。だから、今の生活は本当に僕にとっては夢のような生活なんですよ。それを壊す者には全力で立ち向かいます」
「あ、邪魔する気はないです。単なる好奇心で……」
「それならば、結構!」
桐ノ院さんの言いようにも驚いたけど、つまりは守村先生は桐ノ院さんに口説かれるまではストレートだったってことだよな。
どんな経緯で今、あんなに熱々なんだろうか。ストレートだった人が男の恋人を受け入れるって、どんな心の変化だろう。
これは桐ノ院さんに訊いても答えは出ないなって、そんときの目の色で、分かった。
桐ノ院さん自身、その辺を突かれると弱いらしい。そうだよな……あんときだって、ちょっと一人で空回りかなってくらい、先生に軽くあしらわれていたような……。
ソラだって、言ってた。
ケイが我慢してるのに、マミーはちっとも分かってやらないって。
それはまだ俺達が知り合って間もない頃の事件だったけど。サフランと、コンクールとフジミの公演とリサイタル……。先生が滅茶苦茶忙しかった頃だ。俺が先生の替わりにバイトに入ったのはそのためだ。みんなが先生の健康を心配してた。
俺だって。
だから桐ノ院さんから声がかかったときだって二つ返事だったんだ。学校行かないでウエイターやってるなんて、親父からして見れば人生の落伍者にしか見えないだろうけどさ。
俺はマジでお願いした。
一年の休学。どうせ出席日数から言って留年だし、今は学校よりも目が離せないものがある。
先生と、桐ノ院さん。
フジミの常任指揮者として、一心にみんなの尊敬を集めている桐ノ院さんのウイークポイントが今日分かった気がした。
自信家の桐ノ院さんの、一番の不安は守村先生だ。
どんな経緯で桐ノ院さんが先生を口説き落としたかは知らないけれど、多分ものすごく苦労したはずだから。
はっきり言って、先生って、そういうとこで結構鈍感ぽいし、ストレートなら尚更だ。先生が痛い思いしただけで浮き足立ってしまう桐ノ院さん。それだけ先生のこと思ってるってことで。
桐ノ院さんみたいな人こそ、愛する恋人を亡くしたとき、滅茶苦茶崩れてしまうんだろうなって思った。大げさじゃなく……な。そんな気がする。
なんか、イガちゃん先輩が言ってた先生のベスト・オブ・タクツ宣言。ホントに一生かわんないといいね、桐ノ院さん。うん、フジミのみんなの平和のためにもね。
二人が目を離せない存在なのって、そういうとこもあるんだろうなぁ。みんなが先生たちのこと心配してる。
フジミっていう楽団は、はっきり言ってへたくそが多いけど、技術を超越したオケだ。先生が育てたって聞いて、納得いった。桐ノ院さんは先生の音に惹かれて入ってきた一人らしいてのは、世話人兼コントラバスの石田ニコちゃんからの情報。イガちゃん先輩も先生にナンパされた一人。俺だってそうだもんな。
小早川とは全く違う音楽の捉え方。だから、音楽で既に飯喰ってるM響メンバーすら楽しそうにフジミの練習日には顔を出す。
飯田さんも延原さんも、新田さんも羽住さんも。それに、鈴木さんや橋爪さん。桐ノ院さんがナンパしたらしいけど、みんな先生の音を認めてるらしい。まあ、桐ノ院さんのシンパらしいから、当たり前か。
ホントに俺、最初からフジミで先生に音楽習いたかったよ。
そしたら、先生が良い音してるって言ってくれたクラリネットだって好きになれたかもしれない。
「遠藤君、お客さん」
バリトンが俺の物思いを止めた。
後からカランカランとドアベルが響く。桐ノ院さんの勘の良さというか目端の効き方というかはすごい。
「いらっしゃいま」
言いかけて固まった。ドアから入ってこようとしていた客も固まった。
「宕谷……」
俺の声に反応したように宕谷は後ずさり、出て行った。
「あ……れ……?」
何で宕谷がこんな所でお茶しに来るんだろう。家は小早川の方だし。
「あれが……宕谷くんですか……」
バリトンが溜め息をついた。
「桐ノ院さん、宕谷のこと知ってるんですか?」
「一応ね。あの一族は結構有名でしょう? 悠季からもちょっと聞いてましたし。確かに女の子みたいな美少年だ」
もう一度溜め息。ポーカーフェイスの桐ノ院さんが溜め息。それも、宕谷の可愛さがお気に召してのではないらしい、困ったな、……みたいな、感慨深げな感じで。
その瞬間、俺は分かった気がした。先生は俺と同じもの見たんだ。多分。
俺達が宕谷をホモネタでからかった後、説教のために呼び出したとき。俺達のホモに対する見解を聞くにつれ顔色が悪くなっていった。多分宕谷じゃなくって、自分のこととして聞いてたんだ。そうかなってのはあの時も思ったけど、俺はそんなに深く考えてなかった。あの時の俺は、他人がどう傷つこうったって、気にできるほど余裕無かったし。今考えればスゲーやな奴だったよな、俺。ま、あの時は、まだ、キタネーとしか思いようがなかったんだからあれはあれで本音だけどさ。
ああ、あの時の先生の顔、思い出しちゃった。よく、俺のこと拾ってくれたよなぁ。
うん。
んでもって、桐ノ院さん。あの時多分、先生の八つ当たりか何か受けたんだろな。そういう溜め息に違いない。
「追わないでいいんですか?」
「え? なんで?」
「気になるって顔してますよ」
「別に……あいつとは友達じゃないから……」
「悠季なら……。追いかけてますね。それで僕はまた途方に暮れるんだ」
ぼそっと言った言い方。多分漏れちゃったって感じで、俺に言った言葉じゃない。言った途端に、桐ノ院さんが赤面したから。しまったって感じで、耳たぶだけだけど。
あ、またわかっちゃった。
桐ノ院さん、悩んでる。多分原因は守村先生。俺の何気ない一言が、尚更彼の不安を煽ってしまったみたいだ。
ごめん、桐ノ院さん。俺、そんなつもりじゃなかったんだよ、ホント。
あー、それにしても、今度は何やったんだよ? 先生!
俺は、夜にはソラんとこに電話しようって頭ん中のスケジュール帳にメモ入れた。
「気になるってんなら、単にこんな時間にあいつがここに居たことです」
「おそらく……。おそらくはM響の見学でしょう。この辺に他に用のありそうな所はないでしょう? それに、今、学生は夏休みのはずですし」
「あ、そっか。まー、そうですね。でも、一人で?」
「どうだか……。そういえば練習場で小早川先生を見かけたような気が。彼の引率だったんじゃありませんか? 宕谷くん、泣いていたみたいですよ。M響の練習見ただけで涙を流すとも思えませんし、ケンカでもしたかな……」
「……桐ノ院さんて……」
「ん?」
「スゲーめざといですね」
「指揮者ですから」
「そういうもんですか?」
「そうですよ。どうやら君、口で言うよりは気になっているみたいですね。追いかけるなら今のうちです。留守番、しても良いですよ」
「えっと……」
どうしようかって、一瞬悩んで、エプロンをとった。
「すんません、お願いします」
店を飛び出して走った。
何でだかわかんない。宕谷って奴はガキの頃から冷めたやな奴だった。俺のことただの係長の息子のくせにって、さんざん召使い扱いしてくれて。どんなに努力したって、コネやレッテルが勝つんだって、嫌っていうほど俺に教えてくれた。
なのに、泣いてたって聞いて気になってる。
守村先生のお人好し菌が思いっきり俺に感染してたんだ。多分きっと。
俺は先生達に救われた。ソラみたいな、誰も頼れない暮らししてた奴にも会えた。
俺は、俺だけの将来を考えて良いんだって。親父の職業も、何も関係ない。俺の実力で勝ち取るべき俺の人生。俺が選んで、俺がつかみ取る。誰かに頼る前に一人で立とうとする力。そういうものを先生達に教わった。
そうだな、宕谷にも教えてやりたい。あいつが出会ってこれなかった温かいものがここにあるって。見せびらかしたいような気分もあったかも。
もちろんあいつが、それに価値を感じるかどうかは分からないけどさ。
駅までの道を走りながら、俺は宕谷の姿を探した。店から出ていった後、駅の方向に曲がったのを窓越しに見ていた俺って、桐ノ院さん程じゃないけどめざといよな。だけど、宕谷は見つからなかった。
あいつがそんなに脚速かったっていう記憶はないんだけど。多分俺が出遅れたせいだろう。
何だか肩すかしを喰らった気分で店へ戻った。
チーフが戻っていて、桐ノ院さんはまだコーヒーを飲んでいた。おかわりしたらしい。
「お帰りなさい。彼は捕まりましたか?」
「いえ……。すんません。駅の方へ走っていったと思ったんだけど、見つかりませんでした。今夜、小早川の友達に電話して探り入れてみようと思って。……何だか、かえって宕谷を捕まえ損ねたせいで、あいつの泣いてた理由が気になっちゃって……」
「ほう……?」
「だって、俺、あいつの泣き顔見たの初めてで……。宕谷って奴、結構嘘泣きが上手くて、俺なんかいつも罠にはまってたんだけど、今日のは誰に見せるつもりもないだろうし、本物だったと思うから……。あいつがマジで泣く理由、ちょっと興味あるかなって……」
「守村クンのお人好し菌がうつっちゃったみたいだね」
笑いながらチーフが茶々を入れてきた。
「お人好しってのとはちょっと違うかもしれないけど……」
「他人のことに目がいくというのは、十分感染してますよ。君の場合……」
はいはい、桐ノ院さんには何を言われても返す言葉がありません。丸々四日間もお邪魔虫しちゃったんだもんな、俺。
しかも、俺の母親より面倒見の良かった先生。その分、桐ノ院さんはやきもきしていたらしい。多分、俺がいるせいでヤれないことより、先生が俺を構うことが気に入らなかったんだよな。そりゃそうだ、俺だって俺の恋人には俺だけ特別扱いして貰いたいもんな。
俺は桐ノ院さんにも守村先生にもでかい借りがある。
守村先生の稼ぎを使い込んだのもまだちゃんとには返せてないし……。
二万円。
ここでバイトしてみて分かった。俺が簡単に使った金額がどれだけ重いか。カツアゲとかじゃなく、ちゃんとに働いてお金貰うのって大変で、その分貰ったときが嬉しい。
あー、そういうことも、先生達に教わったことになるのかな。
うん、今度金貯まったら、守村先生に返しにいこう。多分、金のまんまじゃ受け取らないだろうから、ステーキ肉をたっぷり。もちろん俺が焼いてやる。
心密かに決意して、俺は仕事に戻った。
桐ノ院さんが出て行った後、入れ違いに飯田さんや延原さん達が休憩に来て、いきなり忙しくなったんだ。
ガキの俺なんて、M響フジミ組の人達には小突き回す格好のおもちゃだ。もちろん、意地悪じゃないから、俺だって気にしない。フジミの仲間として、ちゃんと扱って貰えてるっていう気がして嬉しいくらいだ。
考えて見れば凄いよな。俺なんか、小早川では落ちこぼれだった。第二オケなんかでふてくされてクラリネット吹いて。それがこんな凄い人達と同じオケでやってる。それも、ものすごく和やかに。いくらだって金取れる実力の、生徒を持つ身なぐらいの人達が、会費払って他の人達と同じように活動してるんだ。
それがフジミっていう楽団。先生達に引き寄せられるようにみんなが集まってくる。音楽を純粋に楽しみたくて。
天才も凡才も一緒くたに楽しくハーモニーを創り上げていく。その行程や目標に到達したときの達成感は、初めて貰った給料のように感動的だ。嬉しくて、また頑張ろうって気になる。
ずーっとクラリネットやってきて、それなりにレッスンこなして、目指す音をものにして。それはそれで達成感があったけど、それだけじゃ上に行けないって知ったとき、俺は諦めちまったんだ。金もバックも、他の奴らより劣る俺は、良い音が出せたとしても雑魚扱いだ。
何が悔しいって、俺よりどう客観的に見ても下手な奴が第一オケに選ばれたこと。親父達は俺がちゃんと練習しないからだって、ケツ叩くばっかりだったし。
同じような屈辱感に傷を舐めあうようにつるんでた友達。そこには上昇志向も高揚感もなくって、まるで毎日砂漠を歩いているような気分だった。
だけど、今は違う。評価も階級も無しに、ただ良い音を出したい、良いハーモニーの一部になりたい、そんな想いだけで頑張ってる。
先生の、文字通り音楽は音を楽しむものなんだっていう言葉、あの時の俺は掴み損ねていたけど。今は分かるよ。うん。
小早川に残った宮森、どうしてるかな。
「はい……」
低くて怠そうな声。親父さんかな。
「あ、宮森さんのお宅ですか?」
「はい……」
「あ、俺、遠藤っていいます、小早川で一緒だった。……一之君、いますか?」
「ああ、遠藤?」
途端に声から固さが消えた。本人だったらしい。
「み、宮森? 俺、てっきり……」
「親父かと思った? よく言われるんだ。声が似てるらしい」
そういう問題じゃなくって、話し方に若さがなかったんだよな。
「元気か?」
「ああ……相変わらず。お前こそ。どうだよ? 都立は」
「休学中。ちょっと、もっとやりたいこと出来ちゃってさ。で、昼間は茶店でウエイターやってる」
「マジ?」
「うん……。でもって、守村先生って覚えてる?」
「ああ、カマ村?」
う、俺が付けたあだ名だけど、今となっては聞きづらいことこの上ない。
「その、先生がね、コンマスやってるガクタイでパーカッションやってるんだ」
「クラリネットじゃなく?」
「うん……違うものやりたくってさ」
「ふーん、で? 今日は何の用?」
「宕谷が……さ、今日店に来て。あいつ、相変わらず?」
「……」
「宮森?」
「ああ、ごめ、なんか、遠藤の口から宕谷の名前が出るなんて、驚いたから……」
「まーね。店に入ってこよーとして、俺の顔見て逃げたんだよ。あいつがマジで泣いてたらしいから、気になってさ。あいつが泣くなんて、よっぽどなんかあったんじゃない?」
「んー、きかねーけど。そういや、もう、あのレッスン室での逢い引き、見かけねーな」
「ター助との?」
「うん。別にあんなの見たい訳じゃねーけど、何つーかドラマみたいじゃん?」
「うん……」
ドロドロの愛欲ドラマって奴かな。
「ター助さ、カマ村にも手ぇだしたんだろ?」
「え?」
「だからさ、練習室にカマ村呼び出して、やろうとしてさ」
げ……。
「マジ? 先生、やられちゃったのか?」
「んにゃ。カマ村の様子からして未遂だな。まー、そん時のター助ったらあそこにでっかいテント張ってさ、卑猥っぽいたらないのさ。んでもって、カマ村が帰った後入れ違いに宕谷が飛び込んできて、修羅場!」
「あー、卒業休みなのに?」
「俺はレッスン。宕谷はしらん。ター助のこと張ってたんじゃないの?」
「宕谷って、マジでター助のこと……?」
「知るかよ。俺がぁ! ホモの考えることなんて、わかんねーもん。取りあえず、ター助は違うってことだよな」
宕谷……。
だから守村先生にあんなに絡んでたのか……。多分、あの時の守村先生の目には宕谷はえらく嫌みな奴に映っただろうな。ま、ほとんどそのまんまだけど。
「宕谷の親ってさ、学園の出資者だったよな。ター助に選ぶ権利ないんじゃない? それとも、宕谷を丸め込んでれば得だし、結構好みだったからってター助が手を出したのかな。どっちだと思う?」
「後の方だと思う。宕谷がホモに走ったのって中等部からだと思うんだ。俺、聞いたことねーもん」
やな奴はやな奴だけどさ。やっぱ、あいつのヤってる所見たとき驚いたもんな。
「あ……」
「え?」
「宕谷さ、コンクール落ちた。それも一次予選で。変わったことってそれくらい……かな。あー、五月だから最近じゃないけど」
「ふーん……」
宕谷って、公平な目で見ても、悪くはない実力持っていた。まー、あの性格だから、音にも出てるけど。
コンクールって、その日出てくる奴らにもよるけど、宕谷ならいい線いくはずだ。コネも、プッシュも、腕もそろってれば、当たり前だろ?
それが一次予選敗退?
「変だよな……」
「まーな。第一オケだって、いいときも悪いときもあるわな。そんなに気になるなら宕谷にいっといてやるよ。遠藤が心配してたってさ」
意地悪い笑いを含んだ宮森の声に、俺は絶句した。何だか、友達だって言えなくなっちまったような気分。
だから言えたのかもしれない。あいつが意外に思えばそれでいいって感じで。
んで、俺は俺と宕谷の仲を知ってる奴ならぶっ飛びそうな台詞をなにげに吐いた。
「ああ、気が向いたら店に来いっていっといて。あ、夏休みだから会わないか」
「いや、登校日があるから……。ま、宕谷が捕まったら伝えとくわ」
じゃーな、と、おざなりに挨拶を交わし電話を切った。
小早川の空気はやっぱ腐ってる。俺、都立でも失敗はしたけど、小早川から出るって自分を押し通したことは親父にも自慢できるなって思った。それと、フジミに入ったこと。
宕谷の奴が実際店に現れたのは、翌日だった。
サフランのドアベルはドアが開くときの振動で揺れる小さなカウベルだ。カラランと鳴るその音に反応して振り返りながら『いらっしゃいませ』を叫ぶのは、既に条件反射になっている。
で、俺の声に気圧されたようにドア口で硬直してたのが宕谷だった。やっぱり逃げようと回れ右しようとしたみたいだけど、その日は一九〇センチのぬりかべにボスッとぶちあたり阻止された。
「おっとあぶない」
低く響くバリトンが頭上から振ってきたせいで、宕谷はびっくりしたように声の主を見上げていた。でかいなーって顔に書いてある。
「君、取りあえずドアを開けたなら、ここのコーヒーを飲んでご覧なさい。帰ろうとしたことを後悔する程度には旨いですよ。チーフ、いつものやつをお願いします」
桐ノ院さんは言うだけ言ってしまうと、さっさといつものカウンター席に陣取ってしまった。
宕谷はと言えば、やっぱりドア口で硬直してた。
「どうぞ。カウンターでいい?」
そう俺が声かけると、ものすごく意外だって顔で俺を見つめ、黙ったままカウンター席まで歩いてきた。
「何にする?」
一見の客にはまずメニューを渡す。もちろん今みたいな聞き方は普通しないけど。
宕谷はメニューを読む振りだけして、しばらく俯いていたけど、やがて小さな声で、
「アイスコーヒー」
と、呟いた。
「アイス・ワン!」
いつものようにマスターに注文を伝えた。桐ノ院さんにいつものブレンドを渡すと、チーフは宕谷の注文に取りかかった。
「遠藤君、休憩していいよ」
「え? だって」
「混まないうちにね」
言いながら渡されたアイスコーヒーは二つだった。
「すみません……」
俺は宕谷に空いている隅の二人席に移るように目で促し、そっちのテーブルにコーヒーを運んだ。
宕谷は黙って俺の示した席に着いた。
素直に従う宕谷は初めてだった。こいつ、ほんとに宕谷か? なんてな。
素直な宕谷ってのは俺にとっちゃ滅茶苦茶珍しく、何だ、こいつカワイー所あるじゃん、なんて思った。ほんのちょっぴりな。
表情は暗めだけど、嫌みな口さえ利かなければ今だって女の子みたいな可愛さだよな。幼稚園の時に、俺はこの顔に騙されたんだった。
お友達になりなさい、みたいに入園式の日に引き合わせられた。不覚にも、俺は、ぽおっとなった。それっくらい宕谷は可愛かったんだ。てっきり女の子だと思った。名前も正美だったしね。
ところが、だ。
優しげににっこり笑った宕谷が、親の目が離れた途端に俺の腕をつねりやがった。
そん時の俺の驚きったら……。何にもしてねーのに、いきなり人のこと抓る奴って一体……。俺の親父がいち早く気づいて、仕返ししようとした俺を抑えつけた。
俺はもちろん宕谷が先に手を出したってこと、訴えたわけだが、親父は平謝りに宕谷親子に謝って。その日から俺達の立場はきまっちまったんだ。
カラン……という氷の音。宕谷がコーヒーをかき混ぜた音が俺を過去から呼び戻した。
宕谷は何か言いたそうでいて言い出せないといった感じ。
だから俺は口火を切ることにした。俺のとこに来るってのは、よっぽどのことだろうし、俺の休憩時間には限りがある。
「宮森に聞いたのか?」
え? というように宕谷が顔を上げた。やがてほんの少し拗ねたように目元を赤くして首を横に振った。
「M響の練習場の見学させて貰った帰り……」
「今日も?」
「昨日だけ……」
つまりは自主的に舞い戻ってきたわけだ。翌日に、このサフラン、つまりは俺を目当てに。
「都立に移ったって……」
ボソッと言った。
俺のことを気にするってのも驚き。
「ああ、行ったけど、今は休学してる。もっとやりたいこと出来たから。平日はここでバイト」
「ふう……ん……」
考え込むようにコーヒーを見つめてる。
「僕も……学園やめようかな……」
いつもは他人を嘲笑うために歪められる口元が、自分のためにひん曲げられていた。
こいつのこんな表情、珍しくて気になる。
好奇心て奴は質が悪い。宕谷なんかの相談に乗る体勢になってる俺、自分でも信じがたいし、宮森や古田が見たら熱あるんじゃないか? っていうに決まってる。やっぱり守村先生のお節介菌は強力だ。
「なんで?」
宕谷は第一オケで、学園でも優等生で、先生にも目をかけて貰ってる。しかも、そういうことに満足するタイプの奴だったはずだ。居心地は俺なんかよりずっといいはずで。
「君のせいだ」
「はあ?」
ギン! と睨み付けるように俺の顔を覗き込んできた。
「君がいい顔してたからだよ。今の君は幸せそうだから。僕はずっと君に勝っていた筈なのに。なんでだよ?」
あーあ、こいつはよぉ。変わってねーじゃん。
「それは俺が聞きてーや。おま、ずっと俺なんか鼻も引っかけてねーって態度だっただろが。何で俺の方が幸せだって思うわけ?」
「言っただろう? 顔だよ。お前の顔!」
こいつ、コーヒーで酔っぱらったのか?
「君」が「お前」になってる。
「ター助のせいか?」
宕谷が飛び上がった。真っ赤になって、俯いた。
みろ、ずばりだ。宕谷が殊勝な顔したまんまだったら、俺だってこんな風に突っ込むことはなかっただろうけど。
思った瞬間、分かった。あの練習室の覗き窓、三角に紙をはがしておいたのは宕谷だ。わざと、中が見えるように。生徒に見られてからかわれるのも覚悟で。多分、「先生は僕を愛してるんだ」って、示したくて。単純な独占欲か? それとも計算か?
そうだな、俺はあの時、計算だと思った。だけど、今の宕谷を見ると……。
「お前、本気だったのか?」
だとしたら、そりゃ不幸だろうよ。片っぽだけが本気って、辛いよな。
あー、両方本気でも辛いときは辛いか、ね、桐ノ院さん。
宕谷の肩が震えた。抑えきれない嗚咽が俯いて見えない口元から漏れ始めて。
「と、宕谷……?」
「宕谷なんて呼ぶなぁ!」
いきなり怒鳴りつけられて俺は退いた。
おいおいおい。絡みコーヒーか?
「僕は何でも持ってる。……金も、能力も、顔の作りだって綺麗な部類で……。僕はお前なんかよりずっと幸せなはずで……そうじゃなきゃいけないはずで……。なのに、何でお前の方が!」
あー、もうっ! こいつってば相変わらず!
こいつが俺を頼ってくるわけなかったんだ。
そうだよな。俺達の間柄ってのは優しい気持ちなんて欠片も育たない間柄だった。
ただもう憎たらしくって、けつまずいて転べばザマァみろってなもんで。
だのに。
俺はこいつが可哀想だって思ってる。こんな考え方しかできないこいつが、そういう風に育つしかなかったこいつが、可哀想だって……。
フジミのみんなのせいか? 守村先生たちが創り上げた、あの温かい場所……。
俺は計算ずくじゃない人間関係を手に入れていた。宕谷はまだ気づいていない。人間にとって一番大事なもの。どんなことがあっても捨てちゃいけないもの。ヒューマニズム。
「……考え方だよ」
俺が言えることは少ない。俺自身がまだ手探り状態だから。けど、宕谷を見て少し分かった。人より余分に何かを持っていても、上手く使わなかったら幸せになれないんだ。人は一人だけで生きていけるわけじゃないから。必ず関わりってものが生まれて、そこにいろんな感情が生まれて……。
だから誰かを愛したり、憎んだり。そういうことがなかったら、生きてくことがほんとに無味乾燥になっちゃう……。
「お前が考え方変えない限り、ずっと不幸なまんまだな。きっと」
宕谷の奴は俺の不吉な予言のせいで、声あげて泣き始めちまった。
不意にでかい手が宕谷と俺の頭に載せられた。ぽんって優しく。
「けれど、今の自分が不幸だと気づいたなら、幸福になる道はありますよ。自分にとって、なにが一番大切なことか、よく考えればいいんです。そして最善と思えることを実行しなさい。今までのどんなことによりもしっかりと頭を使って……、よく考えればいい」
桐ノ院さん、言うことは分かるけど、それ難しいっす。
俺に出来る最善のこと……。あるだろか。
うん……一つある。宕谷が、ほんとに音楽が好きでその道目指すなら、少しだけ助けになるかもしれない。ただし宕谷がちゃんと気づいてつかみ取れれば、だけど……。
「宕谷……、俺はお前がいうように今幸せかどうかはわかんねー。ただ、学園にいた頃よかはずっとずっとましな気持ちでいられるから、多分幸せなんだろう。で、相談だ。お前が嫌じゃなかったら、ヒントの一つにくらい、なるかもしれない。明日の夜、富士見町まで来れるか?」
「××市の?」
「ああ。結構遅い時間になるから、無理だったらやめろ」
「大丈夫だと思う……」
お、素直じゃねーか。
「俺が見つけたもの、お前にも見せてやるよ」
それで考えて見ろ。自分のこと、ター助のこと。これからのこと。
なんて、えらそーに考えていたら、地を這うようなバリトンが降りかかってきた。
「遠藤君……? ちょっとこちらへ」
やばい雰囲気。桐ノ院さんの機嫌が悪くなってる。
「な、なんですか?」
言いながら席を立ったら、宕谷に聞こえないように店の外まで引っぱり出された。
「まさか、彼をフジミに連れてくるつもりじゃないでしょうね?」
「はあ。だめですか?」
「困ります」
「なんで?」
「悠季と彼を会わせたくないんです。悠季はコンクール前です。余計な心配はさせたくない……」
「それって、ター助……匡先生ともめたからですか?」
桐ノ院さんの片眉があがった。
「知っているのなら話が早い。そうです。宕谷くんは彼と上手くいっていないのでしょう? 悠季はきっとそれを察して責任を感じてしまう……。だから……」
「先生は関係ないじゃないですか」
「なくても、あると思いこんでしまう人なんですよ。彼は」
それからふと眉根を寄せて、顎を一撫ですると、ニヤッと笑った。それも瞳の奥だけで。ホッとさせるよりゾッとさせる笑みだ。どうしてこんなにおっかない人が、あの先生を落とせたんだろう。ま、惚れた相手だから脅しは一切無しかな。
「どうせなら音壺へ行きなさい。高嶺に会わせるといい」
「げ、あの熊に? ぼろくそ言われて、宕谷が返って自殺に走ったらどうするんだよ?」
生島高嶺。
スラム育ちの天才ピアニスト。
んでもって、親友のソラの保護者兼恋人。
口は悪いわ遠慮はしないわで、しかも桐ノ院さんとタメはりのでかい体格。で、横幅もあるからまさに熊だ。俺も、自分で這い上がる気がなけりゃさっさと死んじまえって言われた。
まー言ってることは正しかったけどさ。
「君は自殺したい気になりましたか?」
「いえ……」
でも、俺と宕谷じゃ、やっぱ違うと……。
ああ、いや、確かに桐ノ院さんの言うとおりだ。守村先生を巻き込んじゃいけない。
宕谷だって、顔合わせたくないかも……。一応、恋人取られたも同じだから。
それに、生島高嶺に会わせるってのもいい案に思えた。
「分かりましたよぉ。音壺に行きます」
「よろしい!」
指揮台での台詞のように大いばりで言われちまった。やっぱ、俺、この人怖い。
そゆわけで俺は、フジミの練習を休んで宕谷と待ち合わせることにした。
音壺ってのは富士見のとなりの町にあるクラシックパブだ。生島熊公はここでピアノの生演奏を仕事にしている。
俺と同い年のソラと恋人関係ってのが引っかかるが、どうやら、ソラの方が積極的だったらしいからしょーがない。ソラにして見れば、死んだ母親以外で初めてソラ自身を見てくれた奴らしい。常識とか法律とか、世間が当てはめる枠を全部取っ払って、ソラの中身だけを見てくれた。天涯孤独のソラにとって、そういう存在って貴重だと思う。いや、ソラじゃなくたって、時には必要だよな。特に、今の宕谷みたいなのには。
俺達がそうなれるってんじゃなくって、宕谷がソラみたいにちゃんと見極めがきいて見つけられるといいなと。まあ、そう思うわけだ。
俺はともかく、宕谷は身体は小さめだわ、女の子みたいだわで、酒を出す店に入るのが人目を引いた。
取りあえず真っ直ぐカウンターに向かい、サンドイッチとオレンジジュースを注文して、生島高嶺の演奏時間を尋ねた。いや、知ってたんだけど、いかにもピアノ目当てって感じにさ。
ジュースが終わらない内に天才ピアニストが登場した。
「こんばんは」
「おう、来たか」
言いながら、俺の皿からサンドイッチをつかみ取った。
一口でグワシッて喰って。ワイルドとしか言い様のない食べ方。宕谷は呆れ返ったというようにまじまじと見ていた。
「こいつが連れか?」
取りあえず宕谷がぺこんとお辞儀した。呆れたまんまで
「ああ、うん。宕谷。中学ん時の……」
細かいことはどうでもいいっていう手振りで俺を遮り、サンドイッチをもう一つ頬張るとピアノの蓋を開いた。
「何でもイイや。おい、リクエストは長いのは千円、短いのなら五百円だからな」
「学割ないんすか?」
「ばあか。んなもんあるか」
グローブみたいにでかい、でも長くて器用そうな指を持つ熊の手に五百円玉を載せてやった。
「チェーッ。じゃ、リストの愛の夢やってよ」
小手調べって感じでムードの優しい奴を頼んだ。リストってのは技巧派で、結構優しげな曲でも腕がいるんだ。
席に戻った俺を、宕谷の怪訝そうな瞳が迎えた。
「あれが……あの、生島高嶺か? ……本当なのか?」
そういうと思った。
「だからリストをリクエストした。聴いてみ?」
音を聴けば分かる。
生島高嶺って言うのは、デビューして直ぐコンクールというコンクールを総ナメにして、何だか色々トラブッて音楽界から締め出されたいわく付きのピアニストだ。活動期間が短すぎて、CDとかも残ってないみたいだし、俺は出会うまで音を耳にしたことがなかったけど。噂は世界中を走ったからな。
問題あるにしても、こういう雰囲気の人だってのが信じがたいのも分かるから。
自己紹介よりも、俺の音を聴け! って言う態度。宕谷のことは電話で少し話しておいたから。
勝手なあの人らしい。でも、あの人のアバウトなワイルドさで第一印象持つより音を聴いて貰った方がいいんだ。
お世辞にも名器とは言い難いアップライトのピアノから、何とも言えない音が流れ出た。
生島高嶺の手によって紡ぎだされる音は温かくて、胸の奥底から何かを押し出してくるような感覚をもたらす。
実際あの熊がどうしてあんなにすばらしい演奏をやれるのか、普段の雰囲気からは理解しにくい。そう、表向きもなにも、音楽家を志すなら、あの演奏を聴くのは為になる。生島高嶺の音にはハートがあるから。
音楽って上手く演奏できればいいかって言ったら違うんだ。もちろん上手く出来なきゃしょうがないけど、それははじめの一歩でしかなくて。特にプロは、聴く人の心に訴えるものがなくちゃ。
そして、それはやっぱり心なんだと思う。これは、ずーっと嫌々クラリネットをやってきた俺が言うんだから間違いない。嫌々やってた時の俺の音は、嫌々聞いてもらうことしかできなかった。
守村先生は俺は良い音持ってるって言ってくれたけど。それって、先生に対してのよくない感情で吹いてた時の音。つまり、嫌々ってのにプラス反発心、怒り。どうせこいつも自分の立場のために俺らを操ろうとしてんだって。マイナスなものばっかりだけど、それなりにエネルギーがこもってたってことかな。
それでも先生の音はいつだって優しかった。かなり忍耐強く俺らを引っ張っていこうとしてくれた。先生が俺らみたいな生徒を好きじゃないのは分かっていた。その分可哀想だって思ってたらしいのも、どっかで分かってたんだけど。
俺は先生の音を信じることが出来なかったんだ。自分の感覚を信じなかった。それは、俺が毒されていた証拠。
桐ノ院さんが先生を欲しがった理由が分かったような気がする。先生は、桐ノ院さんが見いだしたオアシスだったんだよね。
続けて誰かがブルースのメドレーをリクエストしたらしく、熊らしくない渋い歌声が流れてきた。
宕谷は最初の一音からビクッと硬直して全神経を音に集中させていた。どんな響きも聞き落とさないぞと言うように。
何曲かそんな風に聴いて、生島さんが休憩に入って曲が止んだら、ホウッて息を吐いた。
「すごい…………。これが……生島高嶺……?」
「うん……。あの、生島高嶺だよ」
あの音を認められるだけの耳を宕谷が持っていたのはポイント高い。
「俺はさ、最近よく考える。俺がやってた音楽の勉強って、ちょっと目標ずれていたなって。んでもって、俺、目から鱗落ちた。俺、音楽嫌いじゃなかったんだよ。自分でも信じらんねーけど」
お前は?
訊きたかったけど黙っている宕谷を俺も黙ったまま見ていた。
生島さんが戻ってきてピアノの前にすわった途端、勢いよく駆け込んできた影が熊の巨体に飛びついた。
「タカネー!」
ソラだった。フジミの練習終わって直ぐに駆けつけてきたんだろう。息を切らして頬を真っ赤に染めて。
俺が宕谷を連れていくって電話したら、自分も店に行くってきかなかったんだ。普段は熊公の仕事の邪魔になるからって、店には来させないようにしてるらしくって。フジミの練習には出るって事と、俺が帰るときソラも帰るって約束で熊公からOKを貰ったらしい。
ソラは熊と二言三言話してから、俺らの隣に陣取った。
「よう、ソラチビ!」
「よう! エンド豆!」
ソラのジュースが注文する前から出された。
「宕谷だ。中学ん時の知り合い」
いかにも社交辞令だといわんばかりの態度で宕谷は会釈した。
「よろしく」
「お、おう!」
タカビーな雰囲気の宕谷をソラは怪訝な顔で覗き込んだ。ソラにはえらく珍しいものに見えたらしい。しかし、俺にひっそり耳打ちした台詞は、
「こいつ、何か怒ってるのか? 機嫌の悪いときのケイみたいだな」
……だった。
ぶっと吹いた。オレンジジュースのしぶきが飛んだ。
わはは。桐ノ院さんと宕谷……。言われてみりゃ似てるよ。ホント。
「リクエスト……したか?」
宕谷に向かってソラが声をかけた。今夜の目的はあくまでも表向きには生島高嶺の演奏を聴くことだから。
宕谷は何やら考え込んでから、すっと立ち上がった。ピアノの所まで行って五百円玉を置いて。
「……ドビュッシーの月の光を」
短い曲だ。シンプルで、けれどとっても綺麗な曲。宕谷がこれを選ぶなんてな。あいつならもっと派手な技術重視の曲を選ぶんじゃないかって、何とはなしに思っていたからちょっと驚いた。
ああ、俺ってば宕谷を先入観で見てるな。
誰かが「悲愴」をリクエストした。「月の光」の時点で目元が少し赤くなっていた宕谷の肩が小刻みに震え始めた。
まだ耳をかせるくらいに理性がある内に言っておくことにした。
「お前、俺がいい顔してるって言ったよな。よくわかんねーけど、俺にはこういう音や人との出会いがあったからじゃないかって思う」
宕谷が固まった。
「この、ソラや、生島さんや、それに……サフランにいた桐ノ院さん。守村先生……」
「あ……あいつ! あいつがっ」
うわあ、やばいっ。先生の名前出さなきゃよかった。
「先生のこと、恨んでんの? 先生は何にもしてないのに」
「なっなんでおまえがっ?」
「みんな知ってるよ。多分。俺は宮森から聞いた」
「あいつが匡先生を誘惑したんだ! あいつと会ってから匡先生は……」
「だーっ、まだそんなこと言ってんの? 先生は、守村先生はな、ター助のことなんか毛ほども相手にしてねーよ。先生には恋人いるし」
「だっ、だって! あいつが誘惑しなかったら匡先生が僕を避けるわけないっ」
あー、だめっ。こいつイッちゃってる。
「こいつ、何言ってる? マミーはケイのものだぞ」
は? というように宕谷がソラの顔を覗き込んだ。てぇい! 今は口出しすんなよぉ!
「ソラは黙ってろ!」
「だって、モリムラって、マミーのことだろ?」
「な、何だよ、マミーって……」
「マミーはご飯作ってくれる人だ」
ソラァ、頼むからぁ!
「あー、守村先生が親代わりなんだ。こいつの……。生島さんがそう教えこんだんだよ」
「タカネはオレのものだからな!」
ソラぁ………………。
カウンターで頭を抱えた俺に、宕谷の皮肉な声が降りかかってきた。
「随分ホモに寛容になったと思ったら……。守村のお仕込みかい? 良い出会いをしたもんだね。落ちこぼれ同志お似合い」
聞き終わらない内に俺は宕谷を張り飛ばしていた。カウンター席の高めの椅子から転がり落ちた宕谷を、俺は黙って見下ろして。
コンコンコンと木槌の音。ケンカ御法度のマスターの警告だってのはソラが耳打ちしてきた。けど。俺はここにいたってすっかり守村菌から回復していた。
宕谷なんかに情けかけた俺が馬鹿だった。こいつはやっぱり嫌な奴!
あのヤラしいター助と、いつまでもドロドロのメロドラマをやってりゃいいんだ。それがテメェにゃおにあいよ。
「ぼ、僕をぶったな? 親父の会社の社長の息子を!」
床を這いつくばりながら、宕谷が睨んできた。お決まりの文句は、聞く前から分かってるさ。
「だから何だよ?」
「僕が一言言えばお前の親父なんか!」
「そこの子供、退場!」
マスターが高らかに宣言した。俺と宕谷は同時につまみ上げられていた。熊のような巨体に。
「お前も来い!」
それはソラに向けられた台詞だった。
「え? なんで?」
「遠藤が帰るときに一緒に帰るって約束だったろうが。だから帰れ!」
「だっ、だって、タカネ、オレ」
「シャラップ! ……帰れ。ここは俺の仕事場だ」
後半は優しく言った。
大人しく着いてきたソラを先に出し、俺と宕谷を階段を上って店の外まで運んでくると、道路っぱたに放り出した。
ビビリまくりの宕谷の胸ぐらを掴み、すごんで見せて。
「おう、お前! どこのお坊っちゃんかしらねーが、お前みたいのを虎の威を借る狐って言うんだよ。自分の力で勝負しない奴は誰も本気で相手しねーよ。ガキのくせにくだらない知恵つけてんじゃねぇ! 腐れガキ! ……遠藤!」
うへぇっ、俺まで?
「は、はいっ」
「こんな腐ったの連れてくんな。ソラに悪影響だ」
「……す、すみません」
言うだけ言って巨体は地下に消えていった。
「エンド、大丈夫か?」
ソラが貸してくれた手を握り、俺は起きあがった。
「大丈夫だ。悪かったな、熊公怒らしちまって。店で熊公の仕事見るお前の楽しみ、とっちまって……ごめん」
俺は本気で謝ってた。ソラは熊のピアノが大好きなんだ。
ソラはにこっと微笑んだ。熊を思わず微笑ませてしまう、砂糖菓子のような笑顔で。
「平気だ。それにタカネ、怒ってないよ。あれ、絶対面白がってる。気にしないでいい」
それだけ言うと宕谷の方を助け起こしに行った。
「お前、金持ちなのか? かわいそうだな」
「ソラ?」
「金持ちは金持ってる分だけ色々嫌な思いするんだって。金のためにみんながホントのこと言わなくなるから……。ホントと嘘をいっぱい見分けなきゃならなくて、大変なんだって。かあちゃんが言ってたことある」
「お前の母ちゃん、変わってたんだな……。スゲーよ、お前の母ちゃん」
宕谷はソラの素直な言葉って言うストレートパンチ喰らったせいで泣き出していた。
「……宕谷よ、ここから一人で帰れるよな? 俺、ソラ送ってくから……。お前を泣かせるために連れて来たんじゃないけど……。お前にも何か見つかるかと思ったんだけど……。だめだったな。俺のこと、言いつけたっていいよ。俺は俺で親父は親父だけど。これくらいで降格されちまうような仕事しかしてないんなら、それはそれで仕方ないから……。もっと早くお前を殴りたかったよ。俺」
これ、本音だから。
宕谷の嗚咽しか聞こえなかったけど、俺はソラを連れて歩き出した。
翌日の金曜日。
サフランにコーヒーを飲みに来た桐ノ院さんは更に煮詰まってるみたいだった。
それでも、表向きは普通の顔してる。目の色だけが苦渋に濁ってるというか……。
そんな彼が、俺に尋ねてきたのは宕谷に関する首尾だった。
「昨日はどうでした?」
「だめでした。何つーか、宕谷はやっぱり宕谷だったっていうか……」
「そうでしたか……残念でしたね……」
悲しげな苦笑を目の奥に浮かべてコーヒーを一口啜った。
どうしたんですか?
聞きたかったけど、大きなお世話だろう。
桐ノ院さんが俺なんかに本音を言うわけない。そんな風に愚痴るのは、多分守村先生にだってしないだろう。焼き餅焼いて、甘えるように守村先生にキスしても、断じて自分の弱みに繋がる顔は見せないはずだ。もしかしたら、あの甘えの表情だって、守村先生をとらえておくための計算が入ってたりして。いや、どっちだって良いんだけど、そういう風に勘ぐるほど桐ノ院さんは自分の表情をコントロールしようとする。
もう、ホントにプライド高いんだから……。
「練習……どうでした?」
話題を変えたくて俺が尋ねたのは、昨日休んじまったフジミのこと。九月には桐ノ院さんの妹のいるバレエ団とのジョイント公演がある。
曲目はくるみ割りの抜粋で、後は守村先生のソロとの共演の企画。
『金米糖』の時のグロッケンシュピールのソロは俺の面倒を見てくれてるパーカッションの米沢さん。結局音はシンセを使うらしいけど、それだってほとんど初めての楽器で、そりゃもう熱心に練習してる。
元自衛官で、今はフジミが生き甲斐の大楽器持ち。パーカッションは手薄だから、出番が少なくても練習にはちゃんと出ないとホントは迷惑かかるんだ。
「三歩進んで二歩下がる……というところですかね。お盆休みがもうすぐ来るのが少し不安です」
お盆はフジミも夏休み。毎年、休み明けは腕が逆行してしまうらしい。それが不安だってこと。
楽器てのは毎日やらないと、直ぐなまる。三日もサボれば他人にそれと分かるって言われてるからな。仕事持ちがほとんどの、趣味の集団のフジミじゃ、ある程度仕方ない現象なんだそうだ。大体、楽器は自前の持ち込みが規則だけど、練習もフジミに持ち込んだ時だけって人、多いし。……でかい楽器の人なんか、市民センターに置いてっちゃう人もいる。
そんな人達が目を輝かして桐ノ院さんのタクトに食い付いて行くんだ。桐ノ院さんと先生は辛抱強く彼らのステップアップを見つめ、手を差しのべる。天才的なプロの純粋な音楽への情熱が、ど素人に近い団員達をもその気にさせて引っ張って行くんだよな。
初めて音を出したときのことを思い出す。
クラリネットより前に、幼稚園のころはピアノを習ってた。三つの時に母親に引きずられて連れて行かれた先生の家のピアノは黒光りする暗い木目のアップライトで。キーはクリーム色で縞が浮き出ていた。象牙だってことはだいぶ後で知った。使い込んで少し真ん中がへこんだ感じがする、幼稚園のとは違う感じのピアノ。
「弾いてごらんなさい」
先生は中年の優しそうなおばさんで、低くて優しい声で言いながら俺を導いた。
そう言われても俺は直ぐに近づくことは出来なかった。何となく怖かった。古びたピアノの、どっしりとした感じが、俺みたいなど素人のガキを拒絶してるような気がしたんだ。
もじもじしてたら母親に押されて白いレースのかかった椅子に座らされた。
恐る恐るキーに触れたらぽーんと澄んだ音が響いた。
「あ……」
気持ちよかった。ぱっと周りに花が咲いた感じ。俺の指でもこんな音出せるんだって……。それは今考えて見れば、あんまりにも単純で馬鹿馬鹿しい感動だったかもしれないけど。
人差し指一本で出した音はたちまちピアノに対する俺の畏怖をとっぱらっちまったんだ。
家にピアノが来たのはそれから一週間後。先生のよりキータッチが重く、当然象牙じゃなくって硬かった。だけど、俺の指は音を出せた。俺と音楽との付き合いはあの時から始まった。
どうしてだろう。
ずっと忘れてた。
始まりは何にも選択の余地のない強制連行だったけど。あのころ逆らわずに続けたのは俺の意志。
俺は音楽が嫌いじゃなかった。音楽するのが好きで……。だから……
「桐ノ院さん……」
「はい?」
「大丈夫です。休み明けだってなまったりしない。公演控えてるんだし、きっとみんな頑張る。だって、フジミは音楽好きの集団だもん、そうでしょ?」
そう言ったら、超ハンサムで辛抱強い常任指揮者は瞳を微笑ませて頷いた。
「ああ、そうですね」
だけど、言った途端に表情は曇った。どんより沈んだ気分はフジミのことが問題じゃないんだな。やっぱ先生が中心にいるらしい。
俺に観察されてるのに気づいたのか、ポーカーフェイスを固めて勘定を済ますと、悩める天才音楽家はサフランから出て行った。
この日そのまま早退して、コンクール前の休暇に入ったってことは延原さん達のうわさ話を小耳に挟んで知った。
桐ノ院さんて人はホントに独特だから、みんなつい見ちゃうんだよね。それはドラマとか映画とかを見る感覚で、ちょっと感情移入もするし心配もするけど、多分根底は無責任な興味本位の好奇心。俺らの手助けを必要としない振りの桐ノ院さんだから、見てるだけを強いられる俺達はそういう感覚に落ち込むしかないんだけど。
だって、正直他人の恋愛劇って面白い。それも、ゲイだとか、目指しているのが世界だとか、いろんな付加価値がついてるから尚更なんだ。
あー、ごめん、桐ノ院さん。失礼な話だよね。俺が二人を見てたいって思い、そういう所にあるんだよ。ほとんどがね。
俺のバイトは五時が定時だ。泉岳寺が最寄り駅だから、吉祥寺の俺んちまでは結構時間かかる。富士見町よりは近いけど。両親は俺にもう匙投げてたとこがあるから、俺が真面目に働いて、フジミも続いてるってのが嬉しいらしくって、フジミのある日に遅く帰っても文句は言われない。今のところはフジミが学校みたいなもんかな。
その日はフジミのない日だけど、何となく気になってソラを訪ねた。つまりは先生達を訪ねるつもりで。
「マミーも変なんだよ。ここんとこ。何か、追いつめられてるみたいにさ。ピリピリしてるから、なるべく飯も自分で作るようにしてるんだ」
先生が退職して家にいるようになってからのソラの練習は、結構気を使ってるらしい。
ソラって奴は見た目チビガキでホントの年には絶対見えないけど、中身は一人で苦労してた分俺より大人。先生に言わせると、学校とか行ってないせいで一般常識に欠けるとこがあるってことだけど、学校で教えてくれない部分の、人間としての成長はしっかりしてる。観察眼もあるし、思いやりもある。それでもって努力家。最近の俺は、内緒だけど奴をちょっぴり尊敬してたりする。
俺はソラの癖のある柔らかい髪をクシャクシャッとやってから、七階に向かった。
「? おい、エンド……?」
「おま、合い鍵持ってたよな。今、先生いるんだろ? 練習中かな」
「い、いるけど……。ケイもいるから……。やめた方が……」
言い難そうにやんわり制止するソラを俺は無視した。
呼び鈴のない防音ドア。練習中ならノックしたって聞こえない。先生の集中力は、時間も忘れるほどなんだ。だから、俺はドアに向かって立ち止まってからソラに手を出した。
「おい、鍵!」
「だ、だめだよ」
「なんでだよ?」
言いながらノブを触ったら、ドアは難なく開いた。
「何だ、鍵かかってねーや」
ソラがやばいって顔で退いた。
「えんどー」
「るせっ! 俺は先生に用があんだよ」
言いながらひょいって覗いた。先生の所は二十畳ほどのアトリエと、キャビンの1K。そのアトリエにでかいコンポとダブルベッドが置いてあって。二人はとーぜん一つ寝床で寝ている。ラタンの衝立で直に覗けるようにはしてないんだけど。
目隠しのラタンがぶっ倒れてた。コンポの方にはCDが散乱してて。バイオリンの音色の代わりに衣ずれと軋み音と荒い息づかいが……。それと、二人の呟くような囁き声。勢いでのぞいちまった俺の目に焼き付いたのは二人のメイクラブシーンだった。
俺は慌てて後ずさり、そっとドアを閉めた。
「か、鍵よこせ!」
今度はソラは即座に渡した。
ドアに鍵をかけた。外から。
それじゃ足りないみたいに俺はドアに背をもたれて開かないように押さえた。
体中がカッカしてる。見ちゃいけないもの見ちゃったんで……。
「だ、だから言ったのに……」
「ばっ! ……っかやろ……。ちゃんと言ってくれよ……」
「ごめん……」
シュンとうなだれるソラを見てるうち、笑いが腹の底から湧き出てきた。
「ぶはっ。……ば、ばかみてぇ! 俺、俺、鈍感すぎっ!! ふ、普通分かるよな……。覗く前にさ……」
「エンド?」
ソラが怪訝な顔して俺を覗き込んできた。
笑いが収まってから俺はソラの頭を撫でた。ソラは同い年の俺にそうされるの嫌いらしいけど。つい、やっちまう。
「ああ、ごめん。はっきりなんて言えないよな。まあ、いいや。俺の用は急がねーし。先生に言うなよ。今日俺が来たこと」
「う、うん、マミーは見られるとケイを怒るから……」
そうなんだ。取りあえず、恥ずかしさを桐ノ院さんに当たるらしくって……。まあ、大抵桐ノ院さんが仕掛けてくるからってんで、先生は流されちゃうらしいし。桐ノ院さんの腕力に勝てるわけないしな。
そう思った途端にさっき見たシーンがフラッシュバックした。
俺は熱くなるのを止められないほっぺたを、そっぽ向くことで隠し、早々にソラと別れた。
ちっくしょ。そういう意味でも俺はソラに遅れ取ってる。
ソラには熊がいて、桐ノ院さんには先生。俺には?
そんな俺が桐ノ院さん達のこと心配したってしょうがないよな。
俺の中で以前から漠然とあった気持ち。今日ので確認できた。
俺が見たのは桐ノ院さんに跨って仰け反っていた先生。窓から差す月光と差し変わりつつある暮れかけた夕日の中で、逆光にぼやけたシルエット。でも、先生のほんの少し苦しげな、それでいて幸せそうな横顔や、その頬を伝い落ちていく涙も、桐ノ院さんの至福だって言う表情も見えた。先生の身体は桐ノ院さんといるとホントに華奢に見える。細くって、柔らかそうで、桐ノ院さんよりほんわか白くって……。宕谷の時と同じ様に腰が動いていたけど全然卑猥っぽくなくって……。
腰をくねらせる度、桐ノ院さんのデカいのが出入りしてる所まで見え隠れしてるのすら、当たり前のように自然で。
綺麗だった。それしか言いようがないくらい。
「愛してる、愛してるよ」
お互いの名を交えながら囁きあっていて……。
「ばっかみてー、俺。何とかは犬も食わねぇってか……」
チェーッて感じだ。
桐ノ院さんの幸せそうな表情は問題を取りあえずは解決したって物語ってたし、俺は電車賃使って、何しに来たんだかって……。
あーくそっ。強力すぎるよ守村菌!
当てられまくって、ホケッとして帰ってきた。俺にもいつかあんな恋人出来るだろか。男とか、女とかカンケーなく、あんだけ自分をつぎ込める相手。
桐ノ院さんの先生に対する愛ってのは、ちっとは分かってたつもりだけどさ。
先生の一挙一動に鉄仮面男の桐ノ院さんの変化の大きさが比例してる。
いつしか俺は祈ってた。神様なんてのがどこにいるかも知らないけど。
いつもソラが心配してるみたいに。
(どうか、神様、桐ノ院さんから先生を奪わないで下さい。先生の心変わりがありませんように)
そうでなきゃ、桐ノ院さん、壊れちゃうから。
あー、うーっ。
俺は帰りの電車の中で頭抱えてた。
コナクソッてくらい、俺ははまっちまってる。他人様の恋愛ドラマに。気になって気になってしょうがない。
なんで? なんでなんだぁ!
プルプルと頭を振って腑に落ちた
俺にはないものだからだ。
恋人も、自分を見失うほどの存在も。
羨ましくって、こんちくしょーで、希少なもので。
だから、覗き見して、心配することで少しでも関わった気になって。ちょっとした満足感。映画見て、内容に入り込むのと一緒。……映画より生な分強力だな。
すっかり暗くなった車窓からの夜景をぼんやり眺めながら、ああ、映画のエンドクレジットみたいだな……なんて思ってた。
翌日から桐ノ院さんは休み。当然サフランには来ない。
でも助かった。
めざとい桐ノ院さんは、きっと俺の表情から昨日俺が覗いたこと読みとっちまう。あの顔とこの顔ってな感じで見比べて赤くなっちゃうだろう俺の表情で。
んー、考えすぎかもしれないけど、変だな位は気がつくだろう。
サフランのドアベルに反応して『いらっしゃいませ』を言って。
仕事しながら、変なこと考えるのよせって自分を叱ってた。
……でも、先生、綺麗だったよな……。
あああっ! 俺のバカバカバカ!
俺って、むっつりスケベだったんだな……。
チーフにわかんねーよーに、身悶えして。内心のジタバタは桐ノ院さんを見習ってポーカーフェイスで隠そうとしてるつもり。
「どうしたんだよ遠藤、勘定!」
「うわっ、はははい!」
飯田さんに声かけられて椅子にけつまずいた。
「あたーっ」
プって吹き出す声が聞こえた。大人じゃない声。
誰だよ? って振り返った。
宕谷が立ってた。ドア口で、硬直しないで。
「と……宕谷……?」
「おい、お前の彼女か? かわえーなー」
飯田さんの囁きに飛び上がった。
「ちち違いますよっ! 宕谷は男ですっ! 中学の時の同級生で……」
言ってやった俺に、ニヤついたまんま囁いてきた。
「もう、やったか?」
「飯田さんっっ」
「わはははは」
くわえ煙草のまま、くぐもった笑い声を響かせて、飯田さんは出て行った。
ったく、下ネタ好きなんだから。俺までがホモだってか? M響のイメージずり落ちだよ。
「何の用だよ?」
気恥ずかしいのと、からかわれたのとで、不快感丸出しの調子で宕谷に顔を向けた。
俺の殴ったとこが治りかけの痣になってる宕谷は、気恥ずかしげに微笑んだ。
「謝りに来たんだ」
はあ?
こいつ、本物の宕谷かよ?
「遠藤の休憩時間って、何時から?」
「え? いや、決まってないんだ。空いてるとき見計らって……」
大体、今更何の話があるんだか。俺じゃ宕谷の役に立たないし、立つ気もないんだけどね。
「いいよ。今。一時間くらいでいいかな?」
チーフ〜。いんですよ。そんなん。
「すみません、遠藤君お借りします」
礼儀正しくぺこんとお辞儀する宕谷にチーフは微笑んだ。ったく、ホントにこいつって外面いい。
「いこ」
「あ? おい、おいっ?」
いつになく強引で明るい宕谷に腕を取られて……。俺はサフランから引っぱり出された。ウエイター姿のまんま。
「ちょ、ちょっと、宕谷……?」
宕谷が俺を引っ張ってきたのは、M響練習場の前。出前で来慣れた門を過ぎ、横に外れた庭の隅。警備員のオッサンとは顔見知りだから、一応会釈して。
建物と植え込みのせいで、内緒話がしやすい場所だ。もちろん、M響に関係のない者がする場合に限るって言う但し書き付きだけど。
「ここで匡先生と別れた」
立ち止まったと思ったら、そっぽ向いたまま宕谷が言った。ボソリと。
俺は黙ってた。何にも言えるようなことないから。
「兆候はあったから、驚きはなかったけど」
「……なんでここなわけ?」
「……新しい先生になるかもしれないって人がM響と共演するんでここに居たから。様子見がてら、ついでに見学させて貰おうって……」
「新しい……先生?」
「個人レッスンのね。匡先生は学園全体のことで忙しくなるからって」
「ふうん……」
「嘘だけどね」
「え?」
「先生は嘘言ってたんだ。そ、束縛されるのは……好きじゃないって……」
ああ、おいっ。こんな所で泣くなよぉ。
「追求したら……そう言われた。あんなに愛してるって言ってくれたのに……。き……気の迷い……だった……て……。未……成年にそんな……事しちゃ……いけなかった……って……」
あの野郎。
宕谷が傷つくのを見たいなんて思ってた時期もある。そん時の俺なら今の状況は小躍りして喜んだだろうけど、実際その状況になって見れば、宕谷を傷つけた小早川匡に怒りが湧いた。
大人のくせに子供相手にやりたいことやって、あげく都合が悪くなると、もっともらしいこと言って逃げ出す。
怒りって言うより軽蔑……かな。
「逃げやがったんだな……」
「へ?」
宕谷らしからぬ声。ホントにすっとんきょに響いた。
「逃げたんだよ。あいつは。それだけの男なんだ」
「あはははははは」
急に宕谷が笑い出した。高らかに、大口開けて。
「と、宕谷っ?」
「あはっあはっ……えんど……なんでもっ知ってるんだなっ」
腹を抱えて苦しそうに笑いを抑えながら、やっと絞り出したって感じでそれだけ言って。
いきなり笑いを抑えてみせると、ギンって俺を睨み付けてきた。
「……知った風な口きくな!!」
また、ふにゃって泣き顔になって。
「匡先生は……ターくんは……優しかったよ。僕を大切にしてくれて……愛してくれた。レッスンの時は厳しくて……でも、僕のためだったから……だから僕は……」
………………ターくん……。
じゃあ、今のお前の涙はそのお優しいターくんのせいじゃないのか?
言ってやりたかったけど、めんどくさいから黙ってた。
「で? だから、何?」
情緒不安定なおぼっちゃま相手に時間を潰すってのは何となく不毛な気がして。俺は早く切り上げたかった。
まともに恋愛なんかしたことねーから、こんなにボロボロのおかしな宕谷が理解できなかったし。
宕谷は俺に飽きが来てるのを察したらしい。
「あ……ごめ……こんなこと言いたかったわけじゃなくて……」
つい癖で……か?
「このあいだの……夜のね……。君があそこまでしてくれるとは思ってなかった……。……あの、ソラ君……だっけ? 君は良い出会いをしたんだね。あれから考えて……。僕は嫌な奴だったって思って……そしたら、いろんなこと思い出して……。だから……ごめん…………」
「お前……、ホントに宕谷か?」
宕谷の、あんまりのしおらしさに、俺は胸の内を声に出していた。
宕谷は瞬間ムッとして、それから苦い笑いを浮かべた。
「信じなくってもしょうがないか……。でもさ、君に僕が頭下げたって、何にも得がないってことで、信じて貰えないか?」
「うーん……いや……」
「だめ……?」
「信じるも何も……。そういうことならあやまんなくていい」
「え?」
「俺も、たーくさんお前を苛めたから……、アイコってことで……さ。お前だって二度目店に来たとき、俺が声かけたらすごい意外って顔しただろ? 俺の中で、少し整理できたって言うか……。ま、ソラ達のおかげなんだけど。俺が手に入れたもの、ちょっと自慢したかったのかもしれねー」
それにしたって、宕谷みたいにタカビーな奴が、よくそんな気になったよな。
俺が考えてた事読みとったように宕谷がにやって笑った。照れくさそうに。
「僕は意地はって欲しいもの貰い損ねるのは嫌いだからね。そういうことには貪欲なんだ」
「欲しいもの?」
「うん、今は形にならないもの……。しっかり見極めて、本物を手に入れたいと思うから……」
小難しい言い方。俺はちょっと苛ついていた。
「それで?」
「いっとくけど、匡先生とのことは後悔してない。壊れたのは僕が先生の足を引っ張るような愛し方しかできなかったせいだ。先生も、僕自身じゃなくて宕谷っていう家を見てた所あるし。だから、次があったら、自分の力で勝負する。僕なりにね」
ふてぶてしい笑みで言い切った。けど、今の俺はそんな奴を、ちっとも嫌な奴だなんて思わなかった。小さくて女の子みたいな宕谷が、やけに逞しく見えた。
「……大人じゃん……」
こうなると、俺はちょっと悔しい気分で宕谷を見ていた。こいつの方が俺よりいろんな事経験して、俺のお節介のせいでそれを実にしちまったこと。
「遠藤?」
「俺が思ってた以上に、お前はヒント掴んだらしいな。なんか、くやしーや」
宕谷がプッと吹いた。さっきみたいな狂ったような笑いじゃなくて、充実した穏やかな笑い。ちょっと可愛い。
「君が悔しがってくれて嬉しいよ」
笑ったまんま言う宕谷を俺は覗き込んでいた。
「初めて会ったときのこと、覚えてる?」
なんだよ、いきなり。
「ああ、お前は俺のこと、つねりやがったよな」
宕谷が肩をすくめた。
「僕のこと、女の子だと思っただろ。君はあの頃から僕より大きくて、僕よりはしっこくて。その上、親とも仲良くて、所構わず甘えまくっていた。……君はそこにいるだけで僕の嫉妬の対象だったんだ。あの時、君がやり返して本気でケンカしてたら……。ちょっと今とは違っていたかもしれないね」
あれ? 何か変な方に転がってきてねー?
にこやかで優しげに笑う宕谷を怪訝に思いながらも俺は相槌うってた。
「……ああ。そうかもしれねー」
「君のね、もっと早くなぐっとけば良かったって言葉。気に入ってる」
「そう……」。
えーと。ちょっとヤバイよーな……。
「もう一つ教訓。愛されるより、愛せよ! だよ。僕には愛する対象が必要なんだ」
「え……?」
「親が近づけてきたお友達候補なんか腐る程いた。なのに、君だけは気になって……。腹が立って。何でだろうって思う間もなくケンカし続けて。気がつくの遅かったけど。……君は僕の特別なんだって。腑に落ちた」
宕谷が俺に腕をかけてきた。
「僕は君のことが気になってる。好きかもしれない……って……。変?」
誘うような目元はなんか……なんか……。
「だめだ!」
俺は宕谷を思いっきり突き飛ばしていた。
だって、俺はホモじゃない。そんな風に言われたって……。
「遠藤? 僕のこと……好きになれない?」
縋るように俺を見上げて。どうやら計算じゃないらしい目の色だったけど、でも……。
「悪イッ! 俺、そういう趣味ないし。これって、いきなりすぎ!」
いきなり逃げ腰になっちまった俺を弱虫と笑うなら、勝手に笑ってくれ。
ついでに言えば、その時の俺は無意識に悪霊退散とばかりに腕を組み合わせて十字を作ってた。
宕谷はプッと笑ってから、やんわり泣きそうな顔をして。
「これからも変わらない? 希望持っちゃだめ……?」
「だめ! 絶対!」
どっかの啓発ポスターの文句みたいになっちまったけど、俺は言いきった。
シュンとした宕谷は、スンと小さく鼻をすすり、ニコォッと笑った。
「分かった。ごめん。驚かせて」
ああ、どうしちゃったんだよ? 宕谷!
お前らしくねー。
「でも、諦めないから。君が僕のこと思ってくれなくっても。今のこの気持ちは本当だから……。僕が君を思うことだけは誰にも止められないからね」
止めてくれ〜。
ああ、でも。こういう所、宕谷だ……なんて、納得してる。
俺はバカかもしれん。嫌いって言っちまえば後腐れないのに、その一言はどうしても出せなかった。
だけどさ、宕谷、絶対違うぜ。失恋の痛手を他のことで紛らわせようってしてるとしか思えないからな。
んでもって、俺は溜め息ついて言い放ってた。
「勝手にしな。但し、親父とか、からめ手使ったら、一生許さねーから。それと、バイト先にも来るな。来ても相手にしねーからな」
「うん、分かってる」
ちっ! うれしそーに笑うな! それも花が咲いたみたいに! 俺には美少年なんて効かないからな!
「遠藤って、ぶっきらぼーで乱暴だけど、優しいよね。十年損したなー」
「ええい! なつくなぁ!」
腕に差し込まれてきた宕谷の手を思いっきり振り払った。
けど、宕谷は堪える様子もなく微笑んで。
「分かってるって。ゆっくり時間かけておとして見せましょう!」
「おとさなくていい!」
「勝手にしろって言ったじゃないか」
「訂正する! 俺に迫るな!」
「ケチー」
「誰がケチだ? 誰が!」
宕谷は面白がってた。
そんな戯れがサフランと駅に向かう分かれ道まで続いて。結構楽しんでる俺がいた。
これはゲーム。復活のためのゲームだ。俺は最小限に付き合ってやろうって気になってる。友達に今更なれない俺達の、ちょっと変わった関係。俺にとっちゃその程度で、宕谷は……。誰か本物が見つかればそっちに目を向けるだろう。取りあえず、宕谷のフルートの音は変わるはず。
ちょっと聴いてみたい気もするけど、フジミに誘うのは止めておこう。
ポーカーフェイスの指揮者を怒らせると後が怖いからな。
八月の終わり、日コンの二次予選。先生の演奏は凄かった。聴いた途端に結果が分かるくらいの凄い演奏。桐ノ院さんは満足げな表情を隠せずに演奏の終わった先生の元に走っていった。
ソラの恋人で、自他共に認める天才的なピアニストだっていう生島熊公は先生の先生に伴奏者を降ろされた理由が何か腑に落ちたのか、ぶつぶつ言いながらソラを置き忘れて出てっちまうし、ソラは忘れられたってむくれるし。イガちゃん先輩は演奏家としてのプライドを刺激されたらしく口数がいつもの二分の一。それをヴァイオリンひきたくなっちゃったと表現したのは春山さん。もう一つの富士見市民交響楽団の次席だってのを鼻にかけてる吉野さんは、真っ青な顔して、先生に会わずに帰っちまった。
で、桐ノ院さんと一緒にロビーに来た先生の、何に驚いたかってぇと。
指輪。気が付かない振りしといたけどさ。桐ノ院さんがさっきまでしてたやつとお揃いだった。右手だったけど、薬指。弦を押さえるのに邪魔だから、右手にその手の指輪をしてる人は多いって聞いた。
つまり……。そういうことだよな。
いや、本気も本気、大本気だってのは俺、十分知ってたつもりだったんだけど、ヤッぱ、実際そういうの見ると……なあ。
だけど、桐ノ院さんの表情は暗かった。いや、無表情なんだけどさ。そこはそれ、毎日観察してりゃ、目の色がちょっぴり違うとか、分かるじゃん。
あの恥ずかしがりやの先生が、あんなとこに指輪。喜んでいいはずだよね。それなのにさ、何がそんなに辛いんだろね。
問題は解決してなかったんだろか。
それとも、東コンの三次予選でまさかの敗退したことが尾を引いている?
首突っ込みたい訳じゃない。後押ししたいとも思ってない。だって、出来る訳無いもんな。でも心配なんだ。
俺は関わっちまった。お邪魔虫やっちゃったし、先生を傷つけたことがある。言葉の暴力で。それのフォローだけはしなきゃって思ってた。
以前から。
何が出来るか、すべきかを一所懸命考えて。これっていう手応えがあるわけじゃないけど、言いたいことがあった。謝って、それから……。
熊公を追って音壺までソラを送りながら俺は考えてた。取りあえずやっとこうと思ったこと。
「お祝い、しねー?」
音壺の階段を下りながらソラに言ってみた。
「お祝い?」
「うん、先生の二次通過祝い。前から礼代わりに肉でも買って押し掛けよーかと思ってたんだ。俺がステーキ焼いてやる」
「……エンド、肉焼くの上手いもんな」
「酒も買ってこい。ステーキ肉はアメリカ牛と松坂牛を両方だ」
ガシッて頭を掴まれた。
「酒は生島さんが買ってよ。俺達未成年だぜ」
大人で仕事持ちの天才ピアニストは、俺に向かってグローブみたいな手を突きだした。
「金」
「祝う気持ちはないのかよ?」
「大いにあるが金はない」
ったく、こいつはよぉ。
そういやソラ達が住んでる部屋って、守村先生が借りてる部屋だって……。さっきも守村先生がソラの交通費出してたな。この熊、金持ちらしい桐ノ院さんに頼ってるのかな……。
「子供にたかるのは止しなさい」
マスターの声が渋く響いて。途端に熊が小熊になった。
「守村の祝いならこれを持って行きなさい」
突き出されたボトルはカティサーク二本と、シャンパン一本。銘は……ドンペリニョン?
俺でも名前知ってる滅茶苦茶高い奴?
「これ……?」
「ああ、それは本選通過の時の方がいいかな。じゃあこれを」
差し替えて渡されたのはシャルルドヴィルニューブってやつ。
「シャンパンなんて気取った奴ぁ腹の足しになんねーよ」
「じゃあお前は飲むな」
チェーッて顔して生島さんは黙った。
俺は瓶を抱えてマスターにお辞儀した。
「すんません、戴いていきます。ソラ、買い物手伝え」
「うん、何時からにする?」
「先生達が帰ったら急襲するってのは?」
「きゅうしゅう?」
「サプライズパーティだ!」
言いながら生島さんがついてきた。
「あれ? 店は?」
「休み! な? 親父!」
振り返った先でマスターが肩をすくめてた。
「ああ」
そういうわけで、俺達三人は必要な買い物と下ごしらえを済ませ、先生達が帰ってくるのを待った。
生島さんの言った通りにホントに二人を驚かせて。
何か桐ノ院さんは迷惑そうに瞬間眉をしかめたような気がしたけど。
諦めてどんちゃん騒ぎ。
めいっぱい食って、めいっぱい飲んで。酒に弱いらしい先生は最初につぶれた。俺とソラは内緒ってことで少しだけ飲ませて貰って。
酒のせいで赤味を増したほっぺたと、とろんと眠そうな目元の先生は何だか色っぽかった。
元々、くりっとした目元も線の細い顔立ちも、女とは違うけど可愛いって感じで。冷たいインテリ系に見える眼鏡を取るともう、可愛さ全開。桐ノ院さんて、もしかして面食いか? なんてな。
んで、俺は先生の意識がなくなんない内に耳に入れておくことにした。
「先生、先生!」
はにゃ? って、やんわりわらいながら俺の方を向いた。あー、だめ。きっと頭に入らないよ。
「おいおいおい、寝ちまうなよぉ。大事なことなんだから。いいか先生、よっく聞いてよ」
うんにゃぁ……って、おいっ。
「なんです?」
首突っ込んできた桐ノ院さんは俺の前から先生を引っさらおうとした。
「悠季は僕のものだといったはずですよ」
ああ、もうっ。この人無表情のまま酔ってるのかぁ?
桐ノ院さん、俺、邪魔する気はないって!
「すごまないで下さいよ。俺、言いたいことがあるだけだから」
「では早く言いなさい。僕が聞いて置いてあげます。悠季はもう、つぶれてますから。僕が覚えておいて伝えます」
だあっ! もう、どうとでもしてくれぇ!
「だからですね。俺、小早川の時、色々酷いこと言っちゃって。それ、訂正します。先生達は汚くない。綺麗だし、気持ち悪くない。だから、なんつーか……つまり、その……」
フンフンって、守村先生をダッコしたまま桐ノ院さんが俺のこと覗き込んでて。酒のせいですわった目線のポーカーフェイスは特別怖くって。肝心の先生は聞いてんだか聞いてないんだか、フニャフニャ。
えーいっ。だからねっ。
「ごめんなさい!」
思いっきり力を入れて叫んで頭を下げた。
その途端。
先生がすっごく温かく笑った。
「うん……」
……て、一言返事して、そのまんま桐ノ院さんの腕の中ですやすやと寝息立て始めた。
「ありがとう……」
バリトンが響いた。見上げた先で、桐ノ院さんが微笑んでいた。何だか悲しげに見えるほど儚げな笑顔で。
笑った顔なんて、初めてで、俺は何だかビビッてた。見ちゃいけないもの見ちゃったような、でも、すごく得した感じ。
強面にすら見える迫力の美形な桐ノ院さんは、こんな綺麗な笑顔を持ってたんだ。指揮者としてじゃなく、悩める若い恋する男の……。
先生を惚れさせたのはこっちの顔だったりして。
先生としてるときの顔とも違う。
俺はこの二人込みで好きなんだなって、このとき自覚した。
だから……。
「二人が真剣なの分かるから……。ちっとも醜いとこなんて見えない。だから、先生のこと傷つけちゃったこと謝りたくて……。ホントに、ちゃんと伝えて下さいよ」
「ええ。ちゃんと……」
桐ノ院さんの表情はもうポーカーフェイスに戻ってたけど、俺は気にしない。あの笑顔は先生のものだから。
俺は今日もお邪魔虫だったけど、許されてるのが分かった。
それは俺が買ってきた肉のせいでも預かってきた酒のせいでもない。
「エンド、マミー寝ちゃったか?」
「ああ、そろそろお開きかな……」
「うん、俺も眠い……」
「熊公呼んでこい。今日はお前ん所に泊めてくれよな」
「うん」
飲み足りなそうな生島さんに残りのボトルを抱かせ、余った料理を皿に集めてラップをかけて持った。
「お邪魔しました……」
「いや、わざわざありがとう」
ホッとしたように聞こえたバリトンは落ち着いていた。
「おやすみなさい」
「おやすみ……」
桐ノ院さんは、ねむっちまった先生をパジャマに着替えさせながら声だけで送ってきた。
下の部屋に戻って、酒臭い熊とソラと並んで雑魚寝しながら考えた。
あの二人は一つの夢だって。
宕谷みたいな失恋の仕方って、結構よくある話で。
人って変わりやすくって、流されやすくって。弱いんだ、本当。
だけどあの二人は変わらない思いを持ち続けていこうとしてる。わき目もふらずに。
聞いてみたことないけど、感じでそう思う。
ずっとホントにそうなれば、そういう愛もあるんだって信じられる。俺自身がつかみ取れる可能性は未知だけど、そんな出会いが俺にもあるかもって、夢が持てる。
だから……。
両想いなりの辛さとかもあるだろうけど頑張って。
二人の幸せを見せて下さい。
どうか、俺の夢を壊さないで……。
その夜、俺は夢を見た。ケンカした二人の周りでウロウロオロオロしながら、どうにか仲直りしてって頼んでて。二人から同時に殴られて気が付いたら、ソラの拳固と熊の拳固が俺にのっかってた。
うん、俺はタダの見物人でいるから。首は突っ込まないようにするからね。
心からのエールを送るだけにするよ。
だから先生、頑張って下さい。
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