僕の道は君へと続く
 
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 十月の日曜日。
 秋の抜けるような青さの空を背に毅然とした雰囲気で一曲弾き終えた彼が弓をおろしたとき。僕はその姿に見とれながら、渋面を作っていたらしい。
 彼の冷たくさえ見える眼鏡越しの瞳が微笑み、
「何か言いたそうだね」
 と、言った。
「ああ、いえ。君の演奏はすてきでした。ただ……ちょっと……」
「なに?」
 音楽に関してはすぐに瞳を燃やしてつっこんでくる彼は、僕の感想には結構神経質。
「君がどうのと言うのではなく、フジミ全体のことなのですが……」
 フンフンと先を待つ瞳の吸引力ときたら、初めて会ったときから全く威力が衰えてはいない。いや、日増しに増してきているくらいだ。
 純粋で、真剣で、きれいで。
 その瞳を曇らせるようなことは言いたくないのですよ。本当は。
「リズムが違うんです」
 やっとの事で口に出せた台詞だが、案の定彼の顔色は変わった。
「だって、ワルツだよ? 四分の三拍子になってない?」
「いえ、しかしウィンナワルツは……」
「三拍子は三拍子じゃないか」
 僕を魅了し切ない思いに駆り立てる大きな瞳に、プライドに裏打ちされた怒りをほんの少し浮かべて切り返してきた。
 ああ、だから言うのが嫌だったんです。
 こと音楽に関しては彼の意地は固くて。指揮者として、音楽家としても認めてくれているはずの僕が言うことでも、彼が耳を貸してくれるように切り出すのは難しい。
 彼は守村悠季。
 僕が常任指揮者をやっている富士見二丁目交響楽団のコンサートマスター。秀でた才能を万事控えめに構える性格で隠し持つ希有なバイオリニスト。
 今のところ、本業は某高校の音楽教師というアマチュア奏者に甘んじてしまっているのもその性格ゆえ。
 そして。
 僕が一生の伴侶と決めて追いかけている人。
 追いかけている……。
 そう。
 彼も男で僕も男。身体を開いてもらえるようにまでなったけれど、彼の中でのこだわりはまだ大きくて。彼に恋い焦がれて調子を崩した僕に、身体は与えてくれても、心をくれる気はないらしく……。
 機会があれば、僕との関係を切りたいという思いがあることを僕は知っている。
 かすがいの役目をしているのはフジミであり、音楽……。それがなければ僕の恋は未だになんの進展も見ていなかったかもしれない。悪くすると諦めさせられていたかも。
 とにかく。
 今でも僕は彼に恋い焦がれていて、失うことに怯えながら彼に接しているわけで。
 彼の機嫌を損ねるようなことは極力したくないのだった。
「……ですから、君だけの問題じゃないんです。ワルツは三拍子という思いこみを捨てて欲しい。ウィンナワルツの場合、タンタンタンではなく、タン、タタンなんですよ。いいですか、ワルツというのは舞曲です。タンゴやジルバやディスコと同じ、踊るための音楽なんです。だから、単に1・2・3とリズムを刻んでいけばいいというものではない。人が踊るのに心地よいスイングが必要なんです。しかしそれは、ワルツを踊ったことのない人にはわからないニュアンスです」
 彼の良いところは、きちんと説明すればプライドにしがみつくような意地の張り方はしないところ。
 とたんに素直そうな表情にすり替えて僕を見上げてくる。
「そう……だね。踊ったことはないからなぁ」
「踊ってみますか? どうせなら身体で勘を養って、演奏会では本格的なウィンナワルツを披露しましょうよ」
 言いながら僕は別の楽しみに対する誘惑に傾いていった。こんな事でもない限り、この思い人とダンスをするチャンスなどなかなか無い。
 男同士でワルツなんて!
 彼の瞳にはそんな怯えが走った。
「え? いいよっ! 踊れないよっ」
 いいえ、僕はこのチャンスを無駄にする気はありません。
「教えてあげます。何事も経験ですよ。……むろんこれは、フジミ全体についていえることです。そちらの方策も考えてはありますが、まずはコンマスの君です」
 言いながら彼のヴァイオリンを取り上げた。
「なぜ君のワルツでは不十分なのか、身体で納得する必要があります」
 CDラックから僕らのオケ、フジミで練習している美しき青きドナウを含むウィンナワルツ集を探し出した。オケはもちろんウィーンフィル。
 ホールの端を踊りながら回っていくワルツを想定して、部屋を簡単にかたずけ、狭いが臨時のダンスホールを造った。
「さあ、悠季、ホールドして下さい」
「……この立ち位置だと僕は女?」
「どっちだっていいでしょう? 基本は同じです。君がフジミの女性諸君に教えるときはそのまま男性の位置で踊れますよ」
 彼の細い腰に手をやり、右手を取り上げた。
「肘が下がらないように自然に張って下さい。左手は僕の肩に乗せて。そう、背筋を伸ばして」
「あ、足、判らないよ」
「僕の言うとおりに出して下さい」
「う、うん。踏んじゃったらごめん」
「なんの。では、いきます」
「OK」
 たちまち彼は真剣な生徒に変身した。
 リモコンで一曲目をスタートさせた。
「僕の右へスライドしていきます」
「うん」
 
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 二時間は踊り続けていただろうか。
 何度も何度もリピートさせ、スタップをかけ。運動には向かない室温設定のまま、きまじめな悠季を踊らせ続けて。
 悠季の甘い吐息と体臭が部屋に充満して、僕は息苦しいくらいだった。このまま強く抱きしめて、僕の欲望をぶつけたいと思った。
 窓から見える人家の明かりが数を増して夜に彩りを添え始めたのをしおに、僕は最後のスタップをかけた。
「今日はこの辺にしておきましょうか」
「ああ、うん……」
 助かったというように弱々しくため息をついた。整うまでにまだかかりそうな息の荒さ。
 ダンスの運動量は見た目では推し量れないものだということが彼にも分かったらしい。
 荒い息は疲労の色濃いものなのに、僕にとっては甘い誘惑の音。
「君はすじがいい。だいぶ形になってきましたね」
「ほんとう?」
「ええ、もう少し固さがとれて、自然にステップが踏めるようになれば……卒業ですよ」
 もちろん、もう少し僕を楽しませてからですがね。
「そっか……頑張るよ。フジミのみんなに教えるときは僕も手伝えるように……」
「むろんです。僕一人ではとても全員教えきれませんし……」
 フジミのためになることなら、何でも頑張ってしまうんですね。僕を救ったのもフジミのため……なんでしょう?
 僕は彼に微笑みかけながら、また胸の内の業火が燃え上がるのを意識していた。
 彼が僕を救うつもりで身体を開いてくれたのが十月四日。以来僕は恐れと戦きを抱えたまま彼の優しさに甘えている。
『たかがセックスだよ』
 彼が言ったその台詞は僕にとって至福と地獄の業火を一緒くたにもたらした。
 そうです。たかが、なのです。
 キスしても、あの禁断の地を制覇しても。
 僕はいっこうに悠季を恋人として手に入れた気にはなれなくて。実際そういう事ではないのだから。そこからあの台詞が出たのは分かっている。彼はこうも言った。
『僕の気持ちは恋じゃない』
 僕はそれでもいいからと縋ってしまったのだから……。
 あの時彼は、ため息をついて、『わかったよ』と言った。
 病んだ僕に薬として彼を与えたつもり。
 僕は僕で、彼の施しを根こそぎ手に入れる感覚で貪った。
 しかし、貪っても貪っても切なくなるだけ。
 これは別れまでの猶予期間だと、彼を抱く度に念を押されているような気がしてくるのだ。
 たとえば彼が、今の僕と同じように誰か別の人に恋い焦がれるような思いを抱いたら……。その場で僕との関係はご破算にされる。
 恨み言を言うことも出来ず、今までありがとうと言うくらいの虚勢を張らなければならない。やり果せる自信など、全く無いけれど。
 僕は悠季を抱きたいのではなく、悠季の恋人になりたいのだった。
 なのに……。
 僕は迷路に落ち込んでいる。今の僕らの生活は何もかもが友達以上の関係だ。それは一つ一つをとってみれば幸せな、文句の付けようのない生活で。
 頭の隅で『一人相撲』という言葉が駆けめぐる。
 僕がキスして彼が応える。
 僕が抱きしめて、彼が力を抜く。
 僕が欲しがらなければ彼は身体を開かない。
 僕が、僕が、僕が!
 そんな思いに追い立てられるようにして、デッドエンドに追いつめられる。
 今度こそ出口があると向かった先でふさがれてしまう通路。それを切り開く呪文はわかっている。但し唱えるのは彼でなければならない。
 言葉にしなくても何でもいい。僕にそれとわかる符号なら、呪文は成功。
「好きだ」
「愛してる」
「君が必要だ」
 どれか一つでいいのだ。彼が一度でも唱えてくれれば……。僕はこの迷路から抜け出せる。
 助けて下さい、悠季。
 僕を愛して……。
 僕は欲張りで贅沢。それを知ったのも彼との出会いを通してだ。
 僕を受け入れてくれと頼むときも助けてと縋った。受け入れてもらって、友情以上の親愛の情を受けながら、それが恋情じゃないことを悲しんでいる。
 いや。
 彼がその感情を認めてくれないから悲しいのだ。不安で、寂しい。
 体を繋ぐことは、彼がまだ僕を受け入れてくれる程度に大切に思っているという事を確認するための行為。
 勿論そこには、僕が彼の一挙一動に欲情してしまうという、本能的な要素もあるにはあるが。
 最中の彼はとても色っぽく、乱れたときは誰よりもコケティッシュ。清純でありながら娼婦のような淫猥さもあり、僕はそんな彼の表情の一つ一つを知る度に行き場のない迷路のような恋の深みに落ちこんでいく。
 ああ、思い出してしまった。彼の感触。
 悠季の匂いで充満したこの空間では、欲しくなってしまうのを止められない。
「……守村さん、汗びっしょりですね」
「ん? ああ、ほんとに。結構運動量あるね……、しんどいや」
 全く警戒心のない声音。
 いまです!
 まだワルツのポジションにいたままだったのをいいことに僕は彼を抱きしめてうなじにキスをした。
「ちょっ、桐ノ院?」
「君の汗は……僕には誘惑です……」
「まってっ! 放せよ!」
「待てません。欲しくなってしまいました」 抗議の声をふせぐ意図もあって、彼の唇を貪った。舌を導き出して念入りに吸いなぶって。
「んんっんんんっ!」
 背中をたたく彼の拳を無視したまま、それが力を失ってしまうまでディープに甘く。
 上等なワインに浸したレアなフィレ肉のような感触の彼の舌。濃厚な味は僕を酔わせてしまう。
「んもうっ! 夕……食もまだ……なんだぞっ」
「僕は君を食べれば十分です。後で出前でも何でも取ってあげますから……」
「そ……いうこと……じゃなく……って……」
「お願いです悠季。君を下さい。どうしても欲しいんです」
 どんなに後で怒られてもそれをあきらめることは出来ないくらいに……。
「あ……ふ……んん」
 この声を出させてしまえばこっちのもの。
 何度かの行為で彼が感じるところはほぼ頭に入っている。
 力が抜けていく彼を抱き支えながら僕は今日も彼を感じることが出来る幸せに酔いしれる。
「愛してますよ、悠季……」
「ん……」
 分かってるよ、という頷きを返してくる彼は憎らしい。
 「僕も」って言って下さいよ。それだけで僕は救われるんだから。
 
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「五十嵐君、ちょっと!」
「なんっすかぁ?」
 能天気な声で僕の悠季に駆け寄る音大生を横目にとらえながら僕はポーカーフェイスを固めていた。
 そうでもしなければ僕は悠季と彼の間に割って入って、威嚇のうなり声でもあげてしまうかもしれないから。
 フジミのチェロ主席の五十嵐君はいつだって悠季の可愛い後輩の位置を保ち続けていて。ノーの言えない悠季に頼み事をするのも巧い。
 僕の出来ない甘え方を彼は簡単にして見せて、悠季はニコニコ。
 こんな事ってありませんよっ。
 そんな笑顔は僕だけに向けて欲しいのにっ!
 フジミの練習後。
 椅子片づけに残る悠季と僕。大抵の団員は悠季がやっていた善意の仕事を当たり前と受け止めているのか、そのまま帰ってしまうので、二人きりの作業。たかが椅子運びだろうが、悠季との共同作業は僕にとって嬉しい労働だ。
 なのに……。
 悠季は五十嵐君と話している。五十嵐君が明るく何かを言って、悠季がふわっと笑って。 ああ、またそんな楽しそうに!
 こんなに人のことが気になるのはどうしたことか。
(何を話してたの?)
(どういう関係?)
(僕とあいつとどっちが大事?)
 僕に向かって付き合っていた男達が言った台詞。
 それは当時の僕にとっては煩わしく、別れの一歩を踏み出すきっかけとなったもので……。今になって彼らの気持ちが分かるなんて……。
 罰……ですかね。
 僕が同じ様な台詞を吐いた場合、悠季は……。
 考えたくないシチュエーションです。
 今の僕は言いたくても言えない立場ですしね。
 内心悶々としながら椅子運びをしていた僕の元に悠季がやってきた。
「飯田さん達と上手くいってるみたい。ちょっと心配だったんだけど……」
 なあんだ、そんなことを話していたんですか。
「案ずるより生むがやすし、ですね」
「ふふっ、そうだね」
 そう言って笑った顔はさっき五十嵐君に向けられたものより数倍素敵で。
 それだけで五十嵐君のことを許せそうな気になるのだから僕は単純だ。
 と、思う間にまた悠季は五十嵐君に声をかけていた。
「五十嵐君! ひましてるなら手伝えよ!」
「うわっ、はあい!」
 おたおたと弓を片づけ始めた彼を横目に、僕は椅子運びのテンポを速めた。
 三人の共同作業は好まない。
 3Pは嫌いです。
 片付け終えた五十嵐君が振り返ったとき、僕は仕事を終わらせることが出来た。
「終わったよ!」
 悠季のいたずらっ子のような楽しげな声。
「あははははー」
 五十嵐君はそんな悠季にあわせるように楽しげに笑った。
 僕にもあんな声を出させることが出来るようになるだろうか。あんな風に……。
「出てくださーい、電気消しますよーっ」
 悠季が残っていた人達全部に聞こえるように声をかけた。
 僕はフジミに対して焼き餅を焼かねばならない……。ここにいる限り、彼を独り占めには出来ないのだ。
 おっと、いけません、フジミあっての僕等でした。
「ども、おつかれさんっしたーっ」
 五十嵐君が僕等二人に挨拶して。
「おつかれさん」
 悠季の答えと同時に僕は頷くだけで挨拶を返した。
 悠季とのことがなければ彼は本当に気の良い奴。そんなことは分かっているけれど、嫉妬心というのは始末に悪く、今の僕の宙ぶらりんな立場が余計にそれを煽るのだから。
 五十嵐君がスコアをばらまいてしんがりになったのも、計算ずくじゃないかと思うのはもう病気だ。
 彼が出るのを待って悠季が僕を振り返って言った。
「じゃ、帰ろうか」
「はい」
 病気の僕をかろうじて抑えていられるのは、こんな風に最後には僕に特別な言葉をかけてくれる悠季のおかげ。
 単純にマイペースの歩調で先を行く五十嵐君の背を見ながら、僕は今夜の予定を考えていた。
「君は……夕食すませましたか?」
「いや、まだなんだ。ほら、文化祭が近いだろう? 部活の練習をギリギリまで見てるから……フジミの練習には駆け込みだもの」
「どこかに寄っていきますか?」
「ううん。君、すませたんだろう?」
「軽く……ですが」
「コンビニで何か……もたれないもの買っていこうかな。練習もしなきゃならないし。あーっ、もうっ。時間が足りないよなーっ」
「充実しているからでしょ。では、僕の部屋でコーヒーでも。コンビニでサンドイッチなり設えて帰りましょうよ」
「そうするかな……。いつも押し掛けちゃってごめん」
「そんな事言うと、この場でキスしますよ」
「そっそれはだめだよっ」
 真剣にお断りを入れてくる悠季に僕は思わず苦笑してしまう。
 信号待ちをしていた五十嵐君に追いつきそうになったので、危ない話題はそこで切った。
 ふと彼が振り返った。
「コンマス! 月見やりませんか!」
 悠季に向かって言われた台詞。僕は悠季と顔を見合わせていた。
 何とも唐突。多分空を見上げて丸くなりかけた月を見た途端の思いつきだろう。
「そう言えば、十五夜は見逃したなぁ」
 悠季まで月を眺め始めてしまった。
「中秋の名月と言えば、旧暦の八月でしょう。今月にずれ込んでいるのでは?」
 と言って見れば、
「たしか、今年の十五夜は終わったよ。今月のは十三夜になるんだ」
 と返ってくる。
 悠季は僕の知らないことを知っている。知ったかぶりも理論武装も、彼には通用しない。特に、音楽以外では。
 その上彼はその知識を攻撃用には使わない。あくまでも自然に、僕の気を逸らさずにさらりと出してくる。
 そんなところも僕にとっては新鮮で。
「詳しいんですね」
 声にほほえましさが滲み出てしまったらしい。五十嵐君からは物珍しげな視線を浴び、悠季はポオッと頬を赤らめてしまった。
「僕のところは越後の田舎の、おまけに農家だからね。結構古い習俗とか残ってて。小正月の行事なんて、知らないだろう?」
 ええ、僕には未知のことです。君の故郷……見てみたいですよ……。
 二人だけなら言葉に出来たかもしれないけれど。青信号になって同時に歩き出した足音は三つ。
 悪気がないのかもしれないけれど、五十嵐君、君はお邪魔虫です!
「五十嵐君、飯田さん達と約束していたんじゃないのか?」
 悠季が急にそう言って、横断歩道の上で彼は飛び上がって。
「あっ、だった! 置いてかれたかな?
 バタバタと駆けていってしまった。
「ほんと、慌ただしいよね。明るくて良い奴なんだけどね」
 クスクス笑いを抑えながら悠季がいった。
「今日はね、飯田さん達に可愛い子の居る店に連れてって貰うって。僕も誘われたんだけどね」
「飯田君なら、さぞかし面白い店に行くんでしょうよ」
 五十嵐君、可哀想に……。あの人が冗談抜きで彼を可愛い子が居る店とやらに連れていくとは思えない。
「多分、オチはオカマバーってあたりですよ。……君が行かなくてラッキーです」
 ほんとに悠季が誘いに乗らなくてよかった。
「ほんとかい?」
 僕の予想に目を見張ってから彼はにこやかに笑った。
「あはは、まあね、そんな余裕ないって言うか。あったら夕飯食べてるよな……」
「では、せいぜい急いで帰るとしますか」
「……だね」
 後はフジミのことを話題にしながらマンションまで歩いた。
 月明かりだけが足下を照らす暗がりに差し掛かったとき、悠季の歩むテンポが落ちた。
「悠季?」
 彼は月を見上げていた。
「綺麗だね」
「ええ……」
 月明かりに照らされた君の方がもっと綺麗ですがね。
 青白い陰影に彩られた赤い唇が優雅に動いた。
「ねえ、お月見……ほんとにやろうか……」
「ええ……」
 僕は何を言われても同じように答えていただろう。それくらい彼の唇に意識を集中していた。
 キスしたい。
 衝動と共に周りをリサーチしながら彼の唇を奪った。
 このような衝動は、何故おこるのか。時と場所を選ばずに、突然に。悠季と出会うまではなかった衝動に突き動かされ、僕は彼の唇を奪った。
「急になんだよ?」
 怒ったように睨みあげる悠季の表情は、僕の欲情を煽るだけ。
「月の光の魔力ですよ。君の唇がキスしてくれって言っているように見えましたので」
 気障な台詞も簡単に出て来てしまう。彼を呆れさせ、怒りを和らげてくれるのを知ってしまったから。
「ったく……! 君って奴は〜!」
 彼の肩をポンと叩いて、歩みを促した。
「月見……やりましょう。練習日にでも。その方が団員の負担にもならないでしょうし。たまには懇親もいい。君にも息抜きになる。ま、本当なら君と二人だけの月見の方がロマンチックでいいんですけどね」
 何よりも、君がやりたいというのなら、僕は協力を惜しみませんよ。
「……みんな、乗るかなぁ。持ち寄りにすれば予算かかんないよね」
「石田さんに相談しましょう。明日モーツァルトに寄っておきます」
 
5へ飛ぶ
 
 月見は翌週の火曜日と決まって。土曜には悠季が案内を配った。
 演奏会前の練習日を潰しての開催に、驚きの声がかなり聞こえたが……。
 蓋を開けて見ればいろいろと新鮮な驚きのある盛況さだった。
 各自持ち寄りというのがよかったのだろう。
 持ち込まれる様々な酒や食べ物。
 中でも悠季の月見団子にはみんなの目が集中していた。
 よくそんな暇があったものだと思わせる出来。
 君のそういうところは僕だけの秘密にしておきたかったんですよ。本当はね。
 君の味を知るのは僕だけ……ということに。
 それでも、気持ちよさそうにみんなと談笑する悠季の様子を眺めるのが楽しかったし、月も綺麗で。フジミの人達の和やかさはとても居心地がよく。
 月見をやることにしてよかったと思った。
 そんなとき。
 またも五十嵐君が悠季にちょっかいを出して。
「かわいっすよ」
 そんな台詞が出た途端に僕は反応していた。
 それは自分のテリトリーを脅かされたときの本能的な怒りでもあった。
 僕の悠季を狙っている!
 僕から奪おうとしている!
 冗談ではない。
 自分を抑えることも出来ずに彼を睨み付けていたのだ。殺しかねない勢いで。
 五十嵐君はビクッと背筋をひきつらせて僕を盗み見た。
 咄嗟にポーカーフェイスに切り替えて、知らんぷりを決め込んだ。
 帰り道も彼は割り込んできて。僕の悠季を飲みに誘うなんて三千年早いというのに。
「なんだい飲み足りないの? うーん、行ってもいいけど……どうする?」
 小首を傾げて僕を見上げた。ギュッと抱きしめたくなる可愛らしさにクラクラする。
 悠季が僕の意向を気にしてくれているというのが少しだけ救いになる。
 確かに、五十嵐君は可愛い後輩ですものね。仕方ありません。
 僕は軽く頷いた。
「まだ『ふじみ』も開いてますね」
 僕の台詞に軽く頷くと、くるっと五十嵐君の方を向いてしまって。
「ビールとワインかビールと酒。どっちがいい?」
 悠季は五十嵐君に店の選択権を与えてしまった。
「……ワインて感じ……じゃないかな」
「じゃ、『ふじみ』にしよう」
 目的を持った歩調に変わった僕らの足は、行きつけである小料理屋に向かった。お邪魔虫をつれて。
 慣れた調子で悠季がオーダーしているのをポカンと五十嵐君が見つめている。
 減ってしまうから見ないで欲しい、などと思ってしまう僕は、人間が出来ていないのだろう。
「守村さん、常連なんすか?」
「え? ん〜。常連の補欠……くらいかなぁ。彼が常連なんだよ」
 僕をチョイと親指でさして。五十嵐君があんぐり口を開けて僕を眺めるのを楽しんだ。
「コンが……ですか?」
「イメージ、あわないだろう? でも、本当なんだ。ね?」
「いけませんか?」
 必要以上にむっつりした声で返した。
「い、いやぁ、なんか、コンなら、こう、ブランデーゆらしてベルベットのソファかなって……」
 半ば怯えた調子で五十嵐君が言った。
「あはは、そうそう。でもさ、ここ安くて旨いんだよ。桐ノ院さんは本物志向だからね」
「見た目に騙されないってことっすね」
 ああ、もうっ。二人して納得しあうなんて。
「僕は鼻が利くんです」
 言ってみれば二人は酔っぱらいらしい笑い声でデュエット。悠季が僕以外とデュエット!
 超ムカツクゥ!!!
 テレビで見かけた女子高生の甲高い声が僕の頭の中で響いた。……言ってみればそんな感じ。
 自家製果実酒、ワイン、ウイスキー、日本酒……。悪酔いしてもおかしくないほどチャンポンな酒の飲み方をしたせいだろう。僕等のどれをとってもまともじゃなかったんだと、後から考えれば思い当たる。
 注文を一通りして、悠季がトイレに立った後の僕の行動も、酒のせいだった。
「五十嵐君」
 悠季を挟んで座った僕と五十嵐君。不機嫌な僕をちらちらと伺っていた彼の方を一瞥もせず呼びかけたあたりでビクッと背をひきつらせ、恐る恐る僕を覗き込んできた。
「なんすか?」
 聞かれて、はっきり口に出せる台詞はないのだと思いついた。
 言うなれば、
 僕の悠季に手を出すな!
 と、言うことなのだが。
 それは僕と悠季の、悠季にとっては不本意な関係を知らせてしまうことにもなり……。悠季は許してくれないだろう。
「いえ、何でもありません」
「なんですか? 言って下さいよ」
 僕は口火を切ったことを後悔していた。悠季が戻ってきてしまう。
 そうなる前に……。そう……!
 彼にしか分からない脅し文句があった!
 能天気な五十嵐君、君には言っておいた方がいいかもしれない。悠季に手を出したらどうなるか……。
「八坂を覚えていますか?」
 トイレのドアの鍵の音に、僕は慌てて五十嵐君に声をかけた。
「え?」
 五十嵐君の怪訝そうな声。彼は僕が八坂を蹴りのめしたのを目撃した、フジミで唯一の人間だ。
 僕の言葉の意味が分かったのかどうか……。
 悠季が戻ってきてしまったので、念押しをすることは出来なかった。
「失礼」
 甘いテノールがふわりと僕等の間に割り込んできて。それを待っていたかの様に徳利が差し出された。
 悠季が二本受け取り、僕に一本。
 僕はその一本を悠季のために傾けた。
「どうぞ」
「うん」
 悠季は徳利をおいて、ぐいのみを僕にさしだしてくれて。いつものパターンのさしつさされつはここから始まる……筈だった。
 ところが彼は僕の酌を受けた後、五十嵐君の杯を先に満たし、二番目に僕……。
 もちろん冷静に考えれば、客人扱いの彼に先に酌するのは当たり前。僕は五十嵐君と比べればより親しい人間なんだと彼が無意識にでも考えてくれた証拠だったのだけれど……。
 その時の僕は、そんな風に自分に都合よく考えられるほど楽天的な気分ではいられなかったのだ。
 僕は二番目……!
「じゃ、乾杯!」
 悠季の音頭取りをポーカーフェイスでこなしながら、飲み干した酒の苦さに泣きたい気分になっていた。
「やっぱりもう燗酒の季節だね」
 旨そうに目を細めて言った色っぽい顔が僕を見上げたけれど黙殺した。
 彼が僕以外にも同じように優しいというのが腹立たしかった。五十嵐君の観察の視線も気にならないほど……僕は酔っていたのだ。
 そう、僕は拗ねていた。
 君は僕に優しい。身体も開いてくれる。
 でも。
 五十嵐君がそう望むなら、彼にも同じように?
 そんなことは絶対許せない。僕以外が君に触れるのも、君の情けを受けるのも……。僕は許さない……。
「どうしたの?」
「は?」
 帰り道。
 マンションの階段をゆっくり上がりながらだった。
 六階の彼の部屋の前まで来ていて。いつもならおやすみのキスをしてさようなら。
 その夜はドアの前で二人、向かい合ったまま固まっていた。
 言いたいことは山ほどある。ただ、今僕にそれを言う権利は与えられていない。
 ほろ酔いの上機嫌のまま、悠季は機嫌の悪い僕を見上げていた。
 無邪気な瞳に心配げな光を浮かべて……。
「今日の君、ちょっと変だ」
 この無邪気さは……罪ですよ。
「急に機嫌悪くなった……から……」
 僕は最後まで聞かないうちに彼を抱き締めていた。
「君のせいです」
 呟きを耳元に口づけながら吹き込んだ。
 そうですよ。君が好きだって言ってくれないから……。他の男に優しいから……。僕を不安にさせるから。
「僕が機嫌悪く見えるとしたら……。君のせいです!」
「桐ノ院……?」
 抱き込んだ腕の中から戸惑い声が呼びかけて来て……、僕の腹立たしさは倍加した。
「名前を……呼んで下さい。……圭と……」
「何を言って……」
「呼んでくれなければ離しませんよ」
「桐ノ院……」
 わがままを言うなという調子の返事は、また僕の名字。
 ここには誰もいない。
 誰の目を、耳を気にする必要のないところでも、君は僕の名を口にはしてくれないのですね。
 ベッドで快楽の海に全てを投げ捨てた時にしか、君は僕の名を呼んではくれない。
「しかたありませんね」
「ちょっ、桐ノ院?」
「君が僕の名を呼びやすいところへ移動しましょう」
 酒のせいも確かにあった。
 僕は彼を抱き上げて、階段を上り始めた。
「ば、バカッ! 下ろせ! 下ろせよ!」
 バカとはなんです? 僕がバカになっているとしたら君のせいなのに……。
「騒ぎなさんな。人が来ますよ。あの煩い隣人とか……」
「うっ……」
 沈黙した悠季を肩に担ぎ直し、片手を開けて鍵穴に鍵を差し込んだ。
 ベッドに彼を落とし込み、組み敷いて見つめた。
「僕が何したって言うんだ?」
 怒って睨みあげる色っぽい顔からは酒による上機嫌がすっかり抜け落ちている。
 確かに悠季は何もしていない。
 僕が我が儘なだけ。
 でも……。
 万もの言葉が僕の中に出詰まってたまっている。
「……君が……優しいから……」
「え……?」
 君は……誰にでも優しいから……。
 僕だけの恋人になって欲しいから……。
 僕は言葉を飲み込んで彼を解放した。
 三つの願いをバカなことに費やしてしまった漁師は、欲をかきすぎて失敗したんでしたっけ。
 同じ轍を踏むのはごめんです。
「すみません、悪酔いしてしまったようで……。絡み酒になってしまった。迷惑かけました」
 悠季の足下に正座して頭を下げた。
「桐ノ院? 君……」
「明日も早いのでしょう? 帰るのなら今の内です」
 さもないと僕は……。また狼に変身してしまいそうです。
 沈黙の後。ギシッとベッドが軋み、悠季の足が床に着いた音がした。
 さようなら、僕の悠季。
 また明日です、守村さん。
 心の中でそう呼びかけながら、彼の足音が遠ざかっていくリズムに耳を澄ませようとした。
 だが。音は聞こえてこない。
 相変わらず近くに聞こえる息づかい。
 肩を丸めてうなだれた僕の頭にふわりと乗せられた手にまた希望を持たされてしまった。
 君は……。
 その優しさは、やはり罪作りです。
「……悠季……?」
「酔いが醒めたなら……話、聞くよ。酔っぱらいの相手はごめんだけどね。僕のせいだってのは聞き捨てならないから……」
「すみません、忘れて下さい」
「だって……」
「……片思い男の戯言です。忘れて下さい」 悠季が身じろいだ。
 恋ではない気持ちで僕を受け入れた彼の、触れたくない部分。僕の恋心を受け入れる気がない限り、後ずさるであろう問題。
 もちろん彼はまだそれに直面したくはないのだ。僕との肉体関係を、出来れば終わらせたい彼だから。
 嘘のつけない誠実な彼の瞳は、僕にとっては魅力的な宝物の筈なのに、諸刃の剣のように僕を切り裂いている。
 本音では僕に抱かれるのは嫌なんだと。肉の愉悦は別物で、冷静になれば自己嫌悪が津波のように襲ってくるのだと……。
 恍惚とした表情を自分への嫌悪とふがいなさへの憤りにすり替えていく様は、いつだって僕の幸福感を萎ませてしまうのだ。
 どうして僕は止められないのだろう。
 こんなに苦しいのに。
 辛くて、切なくて、その上険しい道なのに。
 諦めようと何度も思い、何度も挫折した。
 だって、君を愛してる。初めて会ったときよりも余計に愛しい。
 後戻りはできない。
 君を知ってしまった。
 君の身も、心も……。僕は愛してしまった。
「……誰よりも君に愛されたいと思うのは……、僕の我が儘かもしれない。ですが……」
 いつかは君も……。そう期待してはいけませんか?
 揺れる瞳を隠す眼鏡を奪った。
 大きく澄んだ瞳の奥を覗き込むように見つめて……。
「君が誰かに優しくする度全身をじわじわと焼き焦がされているような気がする……。僕を……苛めないで下さい」
「苛めてなんか……いな…………」
 唇を重ねたときも悠季は抵抗しなかった。柔らかく開いた歯の間に舌を差し入れても……噛み切られることはなく。
「こんな風に……キスさせるのは僕だけ……ですよね?」
「……たりまえ……だろ……? 僕はゲイじゃ……」
 だって、こんなに甘く応えてくれるじゃないですか……。
 首筋から、鎖骨へ、胸へ……。
 唇で彼の服を押しのけながらきめの細かい肌を露にしていく。少しずつ上気して、しろさに薄紅をひいていく様が艶めかしい。
「君は……綺麗で……、優しくて……。誰にでも優しくて……。だから僕は心配なんです。他の誰にもとられたくない。こんな風に君に触れられるのは僕だけ……ですよね?」
「桐ノ院……」
「言ったでしょう? 圭って呼んで下さい」
 君は僕を狂わせる特別な人だから。僕も君の特別になりたい……。
 身体だけじゃなく、心を……下さい……。
「あふ……………………」
 甘い吐息。艶やかな喘ぎ。彼の中心を探ってみれば熱く動悸したそこは快楽への期待に燃えている。
 流されていく……。ふがいなく思いながらも僕との行為を嫌だとは思えずに……。
 ねえ、こんな風に僕を受け入れる君は、僕を特別に思ってくれているのではないのですか?
「愛してますよ…………悠季……」
「あ……あ……け……い……圭……」
 哀願にも聞こえるそんな嬌声に、僕は彼の体奥に潜り込む準備にはいった。
 熱くうねる柔襞に包まれ、揉み込まれながら、愛しい人と一つに繋がれた歓喜に酔っていく。
 ずっとこのまま過ごせたら……。
 朝起きて甘い疲れを寝顔に浮かべた恋人の体温を感じていられるという幸福を永遠にしたい。
「悠季、悠季、いいですか?」
「あっあっあっんんっ………………」
 朝を一人で迎えることの寂しさを、僕は君によって知らされました。
 おかしいですよね。夜を過ごした相手は君だけではないのに……。
 行為は確認でしかなく、つまり僕は君と過ごすどんな一時も、幸福に思えるのだと知りました。
 だから……。君に朝までいて貰うためにも……限界にトライします。
 何度めかの絶頂を迎えながら、失神状態で眠りに導入されていく悠季を見つめた。
 すみません、無理をさせて。でも、君がいけないのですよ。僕をいつまでも宙ぶらりんな状態にしておくから……。
 僕を安心させてくれれば、こんな無理はさせないのに……。
 
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「うわぁぁぁぁっ、またぁ!」
 定刻通り起き出してコーヒーを煎れていた僕は、思い人の悲鳴にベッドサイドへ駆けつけた。
「どうしたんです?」
「遅刻!遅刻!」
 バタバタとやりたいところをよろよろと起き出しながら叫んだ。
「待って下さい、まだ時間は……」
「朝練なんだ! 一番に行って鍵開けしとかないと!」
 転ばないように抱き留めながら、取りあえずはバスルームへ連れていった。行為の後始末を手伝うつもりで。
「ちょっ! 出てけよ! 一人で出来るから……」
 真っ赤になって僕を押しだそうとする悠季の勢いに、シャワーの用意だけしてバスルームを出た。
「コーヒー、入ってますから出たらどうぞ」
 言い置いてキャビンでトーストを用意していたら、バタバタと彼は服を着て出て行ってしまった。
「残念ですね。とても甘い朝とは言えない……」
 以前から悠季のようなバイオリニストを独占している彼の高校のブラス部には嫉妬を感じていた。
 僕の高校に彼がいたら……。僕の学生生活は毎日登校するに価するものになっていただろう。
 どんな学生達が彼に教わっているのだろうか。
 彼に思いを寄せる生徒だっているだろう。憧れに近い淡い気持ちかもしれないし、僕のようにどうにもならない想いを抱えているかもしれない。
 そうしたら……僕にはライバルで……。
 妄想と嫉妬はどんどんわき上がってくる。
 今日は水曜……。フジミがないから待ち伏せでもしない限り練習に彼が訪れるまで会えない。
「会うのに理由のいる関係は……寂しいですね」
 通勤電車の窓から外を眺めながら呟いてみて。
 気が付けば次の駅ではホームに立っていた。
 欠勤の連絡を駅の電話からかけ、そのまま来た道を戻った。
 目指すは悠季のいる高校。
 校門から中に入れずぼんやり立っていたら、一列に並んで走る集団が目の前を通り過ぎた。
 生徒の様子からいって部活ではなく体育。
 一時間目が始まってしまったか……。
 僕に気が付いた体育の先生らしき人が不審尋問のために近づいてくる前にその場を去った。
 たぶんに女子高生狙いと思われる可能性がある。そんなことは甚だ不本意だ。
 トボトボと部屋に戻ってテープラックから密かに録音しておいた悠季の音を取り出した。
 メンコン、シュトラウスに、気分転換のタイスの瞑想曲。
 柔らかく、優しく僕を包む悠季の音……。
 心も体もゆうるりと解れていく……。
 とさっとベッドに転がった。
 君の音は……僕に優しい。どうか君も……。
 彼の残り香の中で眠りに落ちていきながら僕は願っていた。彼が僕に愛をくれるように。
 
7へ飛ぶ
 
 暗がりの静けさの中で、かちゃっと言う音に起こされた。
 テープはとっくに終わっていて、無音のコンポのパイロットランプだけが赤く輝いている。
 人影が滑り込んできたのを凝視しながら、起き出す気にもなれずにいた。
 鍵を開けて入ってこれるのは悠季一人。
 つまりあの人影は悠季なわけで。
 部屋の照明をつけ、僕の姿を見た途端に彼が身じろいだ。
「……いたの?」
「……はい」
「この時間に寝てたなんて、珍しいね……。具合でも悪いの?」
 眉をひそめてベッドサイドまでつかつかと近づいてきて。
 コツンと額をぶつけてきた。
「……熱は無いみたいだね」
 大きな瞳が眼鏡越しに心配そうに瞬いた。
「ご飯はちゃんと食べたの?」
「……いえ。食べたくありません」
「お粥ぐらいなら食べれるんじゃない? 直ぐ作ってあげるから」
 その優しさは罪なんですってば!
「いりません」
 君は僕に身体を開いてくれた。心の中の垣根を取り払ってみせてくれた君は予想以上にフランクで。恋人ではないにしろ、とても親密な関係を結んでくれた。
 これ以上の要求は、贅沢というもので。
 でも……心が痛い……。
 胸に空いた風穴がどんどん押し広げられていくのを止められない。塞ぐ手だては想い人の心だけ。
 確かな実感でもって一つに繋がれたとしても、悠季の恋心は茨の檻に守られたまま手の届かない遠くにあるのだ。
 惚れた弱みというものを初めて知らされた。
 身体を手に入れても何にも手に入れたことにはならない。想い人の顔色をうかがいながら、嫌われたくないとビクついて。そのくせどこまで甘えを許してもらえるか、綱渡りの気分で我が儘をぶつけてしまう。
「……君がキスしてくれれば元気が出るとおもいます」
「なっ…………!」
 途端に瞳に炎が燃えた。本気で心配している悠季には、キスのお強請りが冗談に聞こえたらしい。
「その手には乗らないぞ。練習できないなら帰る」
「じゃあ、ダンスですね」
 譲歩の姿勢を見せた。
「ぼ、僕は練習を……!」
「ですから、ワルツのテンポを呑み込まない限り、いくらバイオリンを弾いても進歩は望めないんですって!」
 逃げの態勢に入った悠季の腕を捕まえて。
「大丈夫、変なことはしませんよ」
 こんな僕を本気で心配してくれた君の嫌がることなんか。
 練習に使っているウィーンフィルのCDをセットした。
「さあ、ホールドして」
 警戒心を生真面目な勉強家の瞳にすり替えて、彼は僕の手を取った。
 ワルツの調べが部屋に充満する。
 あまやかで心地よい音楽、腕の中には悠季。
 ファーストステップは穏やかに優しく。
 ターンは軽やかに楽しく。
 ギュッと踏まれた足の痛みすら嬉しい。
「あ、ごめん」
「いえ。緊張を解いて下されば結構ですよ。リズムに乗って、踵を使って」
「む、むずかしいな」
「想像してみて下さい。ここはダンスホール。ダンスのお相手は大好きな人。気持ちを深めるためにまずはステップを一緒に踏む。甘くて楽しい一時ですよ」
「そうは言ってもネェ……」
 憂鬱そうな呟きが僕を奈落へ突き落とす。
 僕が相手ではその気になれない?
(男同士だよ?)
 瞳の奥でそんな台詞がちらついた。
 ええ、分かっていますよ、君のこだわりは。
「……練習、でしょう? 雑念は捨てて下さい。僕が相手だと思わなければいい。さ、もう一度いきます!」
 コンダクターの口調で言えば、彼はピシッと付いてくる。コンマスとしての彼は実に女房役として理想的で。
 そう。公私混同の嫌いな僕が自らその陥穽に落ち込んでしまうのは彼を公私とものパートナーとして欲しいから。
 解っているんです。僕が卑怯な手を使ったというのは。
 フジミにとって僕という指揮者が必要だという意識が、酷いことをした僕を赦すのに大きく寄与しているという事。
 フジミを引き合いに出してしまうのは、プライベートだけでかたずける事の出来ない僕の懊悩のせいもあるけれど悠季攻略のための武器であることも事実。
 すみません、悠季。僕は汚い。それでも君の優しさに甘えてしまいます。
 どんな手を使ってでも君を手に入れたいのです。プライベートなパートナーとしての君を……。
 そうして僕の絡めた糸に捕まっていく君は誠実で純なその人間性を僕に見せつけ、更に絡める糸を増やさせるのです。
 お人好しで、開けっぴろげな君。子供のような無垢な瞳に聖母のような慈愛の光を浮かべて僕を包み込む。その輝かしさが僕を惹きつけるのです。どうにも他の道を見いだせないほどに。二度とは得られない出会いだと心底信じさせるほどに。
 くるくると部屋を回り続けながら僕の想いも回り続けているのを意識した。
 時に空回りになるけれど、彼を僕の想いでがんじがらめに絡め取るまで回り続ける。
 愛しています、愛しています。
 囁くのにもう照れはない。それで少しでも君が振り向いてくれるなら、呪文のように繰り返そう。
「愛していますよ、悠季」
 レッスン後、彼が部屋を出るときにそっと抱き締めて柔らかな唇をチュッと吸った。
 貪ることはせずに優しく。
 それだけで満足することにして彼を帰したのだ。変なことはしないと確約した今夜だから。
 毎度毎度彼を押し倒していたら、逃げられてしまうかもと思って。
 僕を見上げた彼の瞳は、拍子抜けした意外そうな表情を浮かべていた。
 悠季……君は……。
 もう僕を受け入れている。無意識にかもしれない。でも、僕に貪られることを当たり前と認識していますね?
 もう一息。君が完全に僕のものになるまで。
 これで今夜は安らかな眠りを手に入れられます。
 明日への期待と闘志を胸に。
 唇と腕に残る悠季の感触を夢の糧に。
 
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 フジミの時間。僕はいつもの場所で五分間の観察を行う。
 フジミの不協和音すら和やかな音に混ざって、悠季の美しい音が僕の心をくすぐる。
 僕を癒す温かな場所。
 ウインナワルツのリズムをこの人達全てに伝えるにはやはり僕等で踊ってみせることになるんでしょうね。その後で機会があれば全員に踊って貰うと……。
 悠季は女役を嫌がるだろうか。いっそのこと女装させてしまえば全てを茶番とかたずける事が出来るかもしれない。
 僕の中で一つの計画が形をなし始める。協力は川島君あたりに頼むことにした。
 
9へ飛ぶ
 
 土曜日の午前中、開店したばかりのモーツァルトは貸し切り状態だった。
 僕と川島嬢はカウンターの一番はしに陣取っていた。
 勝ち気で凛とした音を奏でるフジミの中堅フルート奏者はよく手入れされた艶やかな髪を掻き上げてニッと笑った。
「今度は何をたくらんでるの?」
「守村さんを女装させます」
「女性は嫌いなんでしょ?」
「ええ。ですから女装が必要になりました。ワルツのリズムが悪いんです」
「はぁ?」
「舞踏曲は実際踊りやすくなければいけません。その勘所をフジミの諸君につかんで欲しいので」
「踊ってみせるの?」
「ええ。守村さんは納得してダンスを覚えてくれています」
「つまり、女装した守村さんとフジミのみんなの前で踊るの?」
「はい」
「あくまでも女性と踊るのは嫌って事ね」
「どうせなら楽しい時間を過ごしたいですから」
「全くこの男は……」
 ボソッと呟かれた台詞はしっかり僕の耳に届いた。
「たとえば君にサクラを頼んだ場合、他のメンバーからプライベートを詮索されます。守村さんのようなコンマスがサクラをやってくれればあくまでもフジミのための行動と受け取ってくれるでしょう」
「まあ、そうね。誰も勘ぐったりはしないわ。貴男さえ嬉しそうにしなければ」
「ああ……気をつけます。それで、彼のサイズでドレスとカツラと靴を用意するのは可能ですか?」
「サイズ分かる?」
「ええ。ここにメモしてあります」
 メモを受け取って目を走らせてからちらりと上目遣いで睨んだ。
「守村さんには内緒にしておくの?」
「ええ、当日まで」
 やりとりを耳に挟んだ石田ニコちゃんが、コーヒーのお代わりを置きながら割り込んできた。
「守村ちゃん、むくれるよ」
「でも、やってくれますよ。きっと」
「そりゃ、やってくれるだろうけど。みんなの前でピエロになった気がすると思うな」
 川島君が真顔で言った後、プッと吹いた。
「でも、綺麗だろうな。うん。あの人なら女装しても変な感じしない。化粧もした方がいいわね。きっと似合うわ」
「せいぜい美しく仕上げて下さい。茶番には違いないが、恥をかかせたいわけではありませんから」
「分かってますよ。いつまでに?」
「十一月三日に。休日返上で集まる日ですから、きっとメンバーが多く参加するはずです」
「僕も必ず参加しよう。女装した守村ちゃんと桐ノ院君のダンスなんて、なかなか目に出来ないからね」
「石田さん、内緒ですからね」
「はいはい」
 そんな水面下の企画が、僕の想像以上に波紋を投げかけることになるとは思いもよらなかった。
 
ENDへ飛ぶ
 
 いつものようにフジミの時間の前の夕食を小料理「ふじみ」で摂っていた僕は、五十嵐君の急襲を受けた。
 八坂との関連を首をひねりながら訊ねてきて。
 それは、酒が入った僕の大きなミステイク。自分がゲイであること、守村さんに思いを寄せていることを告白する羽目に陥らせたのだ。
 それでも、収穫はあった。五十嵐君が積極的なライバルではないと確認できたのだから。
 だからといって僕の恋路が開けたかと言えば違うのだけれど。障害は少ない方がいい。
 ステップは一つずつ、外さずに。
 悠季、君の道は僕へと続いています。どうか早くそれに気づいて下さい。
 そんな僕の願いを、運命の女神が聞いていてくれたのだろうか。
 深い深い陥穽と思われる所で足掻いていた僕をすくい上げたのは、図らずも蕁麻疹が出るほど苦手な女子高生。
 きっかけやターニングポイントなんてものは何処に転がっているか、ぶち当たってみなければそれと気づかないものである。
 やり方は悠季を酷く傷つけるものだったし、けして感謝をしたいような状況ではないが。
 確かに彼女の行動がポイントだった。
 たまたま女装させられた悠季のダンス披露を彼女が見たのは、悠季に内緒の企画だったせい。
 このタイミングだけは僕の計算外だったのだが。川島君の忠告にも関わらず僕の顔が緩んでしまったという点では僕の責任である。
 悠季の受け持つブラスオーケストラの三年生。悠季にせがんでフジミを見学に来たのだった。彼女が流したらしい悠季がホモだという噂は彼女の父親がPTAの会長だったが為に即座に効力を発揮した。おかげで悠季は首になり、彼を受け入れようとしなかったオケの連中の前で僕を怒らせ……。
 僕を失ったかも知れないという恐怖が彼を素直にしてくれた。
 帰るに帰れず、彼が追いかけてきてくれるかもなんて言う希望的観測のもとに、木陰にたたずんでいた僕を見つけたときの悠季の表情。
 真っ青なしょぼくれた表情が、僕を見つけた途端にびっくりした顔で固まった。夢でも見ているのかと、信じられないと……。
 やがて瞳が泣きそうに輝いた。
 感激……感動?
 ああ、感極まる……だろうか。
「……なんて顔してるんです?」
 などと揶揄してしまったのは、彼の感動が僕にまでうつってしまったのを意識して、照れくさかったから。
 言葉には言い尽くせないこみ上げる思いが、彼の一歩から吹き出してくる。
 タン・タタン……。軽やかなステップは、一気に僕の所へ駆け上がってきてくれた彼の心。
 フワリと体を投げ出してきたので、僕は大切な宝物をしっかり抱き留めた。
 悠季……僕の最愛の人。
 まるで映画みたいだ。
 生涯この時を忘れまい。
 僕の腕の中に天使が舞い降りた瞬間。
 それはミューズの啓示でもある。
 僕の胸の内で奏でられるラブソング。
 延々と歌われる温かく優しい音。いつか譜面におこすときも来るだろう。
 それがどんなに先だろうと鮮明に思い出すことが出来るはず。僕の音楽を手に入れた瞬間でもあるのだから……。
 
しまい
 
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