First Contact
 
 
 空港の雑踏の中、三々五々集まってくるフジミの仲間達に会釈して、僕は銀行に向かった。
「桐ノ院君、どうしたの?」
「オーストリアシリングに少し換金しておこうと思いまして。向こうへ着くのは夜ですし、ホテルの枕銭くらいは用意しておきませんと……」
「じゃ、ここで荷物見てるね」
 にこっと笑う悠季に眼で微笑みかけ、早足でその場を去った。
 出発予定時刻二時間前。
 チェックインを済ませ、悠季に内緒でビジネスクラスにアップグレードして。
 後は出国して飛ぶのを待つだけなのだが、時間がありすぎる。二人でぶらつこうにも見送りの人達がこう多くては……。
 嬉しいけれど、困る。
 悠季と二人で留学。僕等はこれからウィーンへ発つ。
 以前から密かに考えていた計画が実行に移されたのだ。悠季のコンクール入賞などの機会を得て。
 最後までごねていた悠季のお尻をフジミのみんなが蹴り出してくれたおかげだ。
 銀行で列に並びながらぼんやり考えた。
 よくもここまでこぎ着けたものだと。一年半前のことを思い出すにつけ、考えてしまう。
 そう、まだ一年半なのだ。
 
 
 梅雨ならではの鬱陶しい天気が続く中。
 僕の心だけは快晴だった。
 なぜなら。
 見つけたからだ。僕のヴァイオリンを。それに心の恋人までも。
 この天の配剤は僕にとってまさに一生に一度の大幸運だと、その時は思っていた。
 初めてフジミを振った夜。
 ボロボロのアイネクライネの中で最後まで僕の振りに食らいついてきたあの音色。澄んだ音色で僕の心に住み着いた……。
「守村です。コンサートマスターをやらせて貰っています」
 まろやかなテノールが響いたとき。それはヴァイオリンの音色と同じように僕の胸に留まった。
 動悸を抑え、指揮者としての顔を保つのにどんなに力が要ったか。
 次々と増えていく団員の名前というデータを刻み込みながら、僕の頭の半分は別のことにとらわれていた。
 そうか。彼の名は守村……。
 守村……?
 姓ではない名を知りたい。
 彼の名は……?
 いつもの僕だったら速攻で訊ねていただろう。実際、練習が終わって直ぐに僕は彼の元に馳せたわけだが。
 肩を叩いて彼が振り返った途端に僕は言葉を失っていた。
 近くで見た彼は遠目よりも更に美しく、野暮ったい眼鏡越しの大きな瞳の吸引力にグラリと来た。きかなそうな眉も、柔らかそうな唇も、すんなり通った鼻筋も、淡雪のような儚げな白さも!
 どれもこれもが僕好み。
(名前を教えて下さい)
(コーヒーでも如何ですか?)
 どれもナンパ過ぎる。軽い男だと思われたくない。
「君だけはやれてましたね。最初から僕についてこられる人は多くない」
「はぁ……。そりゃどうも」
 言いながらまた作業に戻ってしまって。
 全く嬉しくないねと瞳と態度がはっきり言っていた。
 僕はその時言える台詞をそれしか用意できず、敗北感を抱えて退散した。
 彼の返事が僕の勇気を根こそぎ取り去ってしまったのだ。
 本当に気のない返事だった。
 僕は……、好かれていない?
 何故だろう。
 確かに今日の僕は……登場から失敗してしまった。だが、その時彼の目に浮かんでいたのは同情の光だった。だからそれが理由ではない。
 僕の指揮ぶりは確かにフジミの人達の目には高飛車に映ったかもしれない。僕の要求をこなすのは辛いかもしれない。
 しかしだ。
 他の団員達には好意的に受け入れて貰えたのに……。何故一番優秀な彼が僕を疎んじるのだろう。
 僕は気のない返事を貰ったと言うだけで退散してしまった気の弱さを後悔した。もう少し彼と話し合いたい。
 市民センターの出口脇で彼を待った。いかにも待ち伏せ臭いのを見とがめられるのもいやだったので他の団員の目に付かない物陰に立って。
 ぞろぞろと僕に関する感想を話しながら帰っていく団員達をそっと見送り、目指す人の姿を探した。
 やっとの事で出て来た彼に声をかけようと一歩踏み出したとき。
 それは魅力的な笑顔で彼が振り返った。一瞬僕にくれたものかと勘違いしてしまいそうになって目線の先に女が居ることを知った。
 あれは……。フルートだったな。勝ち気な音の……川島とかいう名だった。
 それは嬉しそうに彼女に話しかけながら、彼は彼女と帰っていった。
 声をかけそびれた僕を残して。
 あの女(ひと)にはあんなに綺麗な笑顔を見せるんですね。
 僕には素っ気なく、ろくに顔も上げてはくれないのに……。
 僕のどこが気に入りませんか?
 態度? 見た目? それとも振り?
 いいえ! 君は僕を知らない。どうかそんなに早く決断を下さないで下さい。
 どうか、僕にチャンスを!
 そう心の中で叫びながら、一歩を踏み出せなくなっている僕が居た。
 僕が近づき方でたたらを踏んでしまったのは、確かにこのファーストコンタクトの不首尾のせいだった。
 
 
 翌日。仕事の帰りにモーツァルトに寄って、団員名簿や連絡網などはないかと石田さんに尋ねた。
 渡されたプリントに目を走らせて守村の姓を探した。
 守村悠季。それが彼のフルネーム。
 悠……季……。
 ユ……ウ……キ。
 誰にも聞こえない音量でそっと呟いてみた。
 なんて素敵なフレーズ。
 このフレーズを当然のように声に出せる仲になりたい。
 そしていつかは恋人と呼べる仲に……。
 しかし、気のない彼を攻略するにはもっとデータが必要だ。
 どう近づけば彼の心に食い込めるか……。
 それが当面の僕の課題だった。
 まずは周りから固めよう。
 それにはやはりあのフルート……。
「桐ノ院君、コーヒー」
 石田さんの声に我に返った。僕の注文の品を渡しながら彼はにこっと笑った。
「よかったね」
「は?」
「捜し物、見つかったんでしょう?」
「そういう顔……してますか?」
「うん。ウチみたいなオケで振りたいなんて、何か見つけたとしか思えないからね」
「……フジミはいいオケですよ。音楽する情熱で一杯だ。足りないのは技術だけ。最も簡単に手に入れやすいものです」
「練習次第……だものね」
 フジミの性質上、それは一番難しい問題なのだと瞳が語っていた。
「まあ、あれだけになったのも守村ちゃんのおかげだから……」
 しめたと思った。彼のことが聞ける。
「彼は……どういう人なんですか?」
 僕の耳に残っている川原での音は確かにフジミの中でも光っていたけれど、残念ながら僕を涙させるほどの響きはなかった。
 彼は……既に何かをあきらめている。ヴァイオリンを趣味ととらえて自分を縛っている。
 人は諦めを持ったところで足取りが鈍くなるものだ。そんな鈍さが彼の演奏には見えた。
「音大生時代に練習場所を求めて入ってきたみたいだけど、そのまま居着いてくれてね。今は○○高校の音楽教師をしてるんだよ」
「音楽教師?」
「卒業してから……二年目……かな。採用試験に落ちてしまって臨採らしいけど。まあ、今は教師あまりの時代だからね。なかなか彼も苦労してるんだよ」
 現役だとすると、僕より一つ上か……。見えないな。
「守村ちゃんは教師に向いてるのにね。よくやってくれてるんだ。フジミでも嫌な顔せず指導に力入れてくれて。彼くらい弾ければ時には怒鳴りたくなるような音も耳にしなきゃいけないだろうにね」
 それはフジミのハーモニーの価値を知っているからです。フジミの情熱はそのまま彼が育てた音楽への情熱……。どんなに彼がフジミを大切にしているかはあのハーモニーを聴けば分かる。
 だが。
 どうやら僕は彼にとっては歓迎しにくい異端者として認識されてしまったようだ。
「彼は……僕の入団を快く思っていないようですが……」
「ああ、守村ちゃんはね。心配なんだよ。フジミってのは来るもの拒まずな代わりに素人も多いから。彼らが挫けてしまったらってね。君のことが気に入らない訳じゃないと思うよ。実際彼が君につけた点数は九〇点だし」
 満点はもらえなかったらしい。減点のポイントを知りたかったが訊くのは怖かった。
「……そうなんですか?」
「うん。あ、九〇点はかなり良い点なんだ。守村ちゃんはあれで意地も張りもある人だから。君の力を認めているからこそ、いい顔出来ないでいるんだな……多分……。……分かり合えればとても力になる人だよ」
「そうあって欲しいです。本当にフジミはいいオケですから……。これからが楽しみですよ」
 実際、僕は僕のヴァイオリンを探し当てた上に、オケも見つけてしまった。
 守村悠季というコンサートマスターを擁するフジミは、僕の理想に最も近いオケで……。もちろんコンマスは彼以外には考えられない。
 何という幸運。棚からぼた餅。鴨がネギだけじゃなく鍋を背負ってきたような。ああ、どれも僕の悦びを表現するには情けなさ過ぎる表現だけれど。
 表現はともかく。
 この幸運を絶対に手放してはいけないと肝に銘じたわけだ。
 ○○高校か……。富士見駅から二駅先……だったかな。彼の働く場所。いつか見に行こう。
 取りあえずその場で必要な幾つかのデータを頭にたたき込んだ。
 彼の自宅住所、職場の住所、双方の電話番号……。それだけで少し彼に近づけたような気がして嬉しくなってしまう。
 モーツァルトを後にして、ルンルン気分で帰宅した。
 悠季、悠季、ユ・ウ・キ。
 口に出して言ってみるだけで胸が熱くなる。
 明日はまた彼に会える。彼と同じ満足を共有して、練習の後には彼と語らい、僕を受け入れて貰えるように近づこう。
 少しずつ、ゆっくりと。
 あのフルートに向けられた笑顔を僕にも見せてくれるようになるまで。
 
 
 練習場に足を踏み入れた途端目指す人を目で捜した。フジミの練習は七時からだが、僕は八時五分前からの出席。最初の一時間は指揮台に僕が立つまでの各自練習の時間だからだ。八時までの五分間、僕は壁により掛かって彼らの音に耳を澄ます。
 悠季はコンマス席にいた試しはない。いつも誰かしらに呼ばれ、教え、駆け回っている。
 フジミの練習時間は彼自身の練習時間ではないのだ。川原で聴いた彼の音楽。それこそが彼自身の……。
 心ゆくまで自らのためにヴァイオリンを弾く時間は、フジミでは得られていない。
 それでも彼は楽しそうだ。オケを楽しみ、みんなの進歩を楽しみ。指揮者という独裁者のような立場の僕にまで居心地の良い温かさを提供してくれる。
 楽しいね。嬉しいね。
 そんな声が聞こえてくるような気がする。
 それはまろやかなテノールの彼の声でも、透明で清楚な彼のヴァイオリンの音でも同じように僕の頭の中で響いてくる。
 練習場に不自由していそうな彼に、僕はもっといい環境を与えてあげたいと思った。もう少し仲良くなれたら部屋へ誘おう。
 防音と反響も考慮された僕のアトリエに。
 そうして存分に奏でられる彼の音を独り占めにして楽しむのだ。
 僕の渇いた心を癒してくれる彼の音。
 出来れば音だけでなく彼の全てを手に入れたい。彼の唇も、あの美しく温かい微笑みも、たおやかな細身の身体も……。僕だけのものにしたい。
 それはまだ先の話だけれど。
 きっといつか……。
 まずは信用を得、部屋に来て貰い、そこで……。
 第二回目の練習日は、同じメンバーが三人だけ。同じように自己紹介から始めて貰うことにしたが、最初に気怠げな立ち方をしたのは悠季。
「いえ、守村さんと市山さんと春山さんは結構」
 あからさまにムッとした目で僕を睨み付けてきた彼の表情に、僕はまたも失敗してしまったことを知らされた。
 彼の敵意は僕の音楽面だけの問題ではないらしい。僕の言い方、態度が彼のプライドを逆撫でしたのだろうか。
 そういう意味でも僕は新鮮味を感じていた。僕の持つ雰囲気はけして親しみやすいものではない。僕にとって中途半端な親しさは煩わしいものでしかなかったし、僕は僕の内面には誰も踏み込ませるつもりはなかったから。そんな僕の頑なさはそのまま僕の雰囲気を近寄りがたいものにしていたはずで……。
 それでも何とか食い込もうとしてくるのは、よっぽど自分に自信があるか、何か計算のある者。もしくは僕という人間に対して過大な期待を持つ者。いずれにしろ僕にとっては迷惑な存在。
 彼は僕を対等の人間として、プライドに裏打ちされた敵意をあからさまに向けてきた。
 従属するでもなく所有しようともせず、対等な位置に立つ存在。何とその清々しいこと!
 この人を落とす。僕の全てをかけて。前途は決して揚々とは言えない走り出しであるこの恋を成就させてみせる。
 何とも闘志湧く前途ではないか。
 どんなに敵意を持っていても、彼は僕のタクトに食らいついてくる。僕の、音を出している間はタクトから目を離すなと言う訓辞をしっかり守って。
 ああ、もちろん、公私混同はいけませんものね。僕もアイネクライネに集中しませんと。
 恋はプライベート。今は音楽です。
「遅くなってごめんなさい!」
 ソプラノが響いた途端に彼の顔色が変わった。瞳が輝きを増し、愛しげに彼女を目で追っている。
 川島という女性は、確かに美しい。急いで駆けてきたというように頬を紅潮させたその笑顔に見とれていたのは悠季だけではないけれど……。あまりにも素直なその瞳に僕はいささか嫉妬を感じた。
 もしや、噂通りに彼は彼女を……?
 僕の食い込める余地はあるのだろうか。
 練習が終わった後、応急メンテに精を出す彼を横目で盗み見ながらお茶に誘うタイミングを待つ間に当面の問題として川島嬢を呼びつけた。それはあくまでも音出しの際のアドバイスでしかなかったのだが。
 嬉々とした表情で僕のもとに駆けつけてきた彼女に言うべき事を言う間も僕は悠季の動向の方に意識を向けていた。
 彼の表情はあまり機嫌が良さそうではない。
 どうしたんです? 何が君の機嫌を損ねたのです?
 これではきっと僕が誘っても色好い返事はもらえそうもない。
「でね、石田さんのお店のコーヒー、とっても美味しいんですよ」
「はあ」
 ソプラノの声に生返事をしながら僕は悠季を見つめていた。
 どうか、気がついて。僕が君を好きだということを……。こんなに君に近づきたがっているのに。
 そんな想いを視線に込めたつもりだったのに。彼が瞬間チラッとこちらを見たときの視線は冷たく、僕の想いは完全に無視されたのだと分かった。
「行きましょ」
 腕を引かれた。
「は? ええ」
 拒絶のショックから立ち直れないまま僕は引かれた腕の方に傾いた。
 僕の筋金入りのポーカーフェイスがなかったら、そこにはえらく間抜けな振られ男がいたことになるだろう。
 仕方ない。今夜は更に周りを固めるべく情報収集にあたろう。
 僕は彼女の後に付いていった。
 いろんな話を聞いていたような気がするが集中力は悠季に向いていて。
 どうやって彼の気をひけばよいか、近づき方のシュミレーションを幾つも思い浮かべ……。女性とお茶という、苦痛の三十分間をやり過ごした。
 部屋に戻ってからも僕は浮上できずにいた。自分が理解できない。今日は声すらかけそびれてしまった。
 いつからこんなに臆病者になってしまったのだろう。悠季の視線が冷たかったという、ただそれだけで、お茶に誘うこともできなかった。
 石田さんや川島嬢の口振りで、僕に関する情報を彼も得ているのは分かっている。石田さんが暗に教えてくれたところでは僕の経歴に対する反発心が彼にはあるらしく。
 意地っ張りらしい彼の反発心をかわして彼を手に入れるには……。
 しかも。僕の恋は大抵の人間は異端扱いするもので……。僕がどんなに恋い慕っても、ただ異端だというだけで受け入れて貰えぬ可能性も……。
 事は慎重に運ばねばならない。この恋だけは失うわけにはいかないから。
 もしだめでもせめて親友に……。
 いけません、弱気は禁物です。
 今度は土曜日。明後日はまた彼に会える。
 ヴァイオリンを構え、僕のタクトを見据える彼の瞳は真剣そのもので、それは美しく輝いている。
 音楽する事は心の喜び。エンドサインを結ぶまで、僕は彼と同化する。その快感は、多分彼が僕を受け入れてくれればもっと強く感じることが出来るだろう。
 金曜日に彼の家を訪ねることも考えた。しかし、何の用だと冷たく切り替えされてしまったら……。
 もちろん、指揮者とコンマスがきちんと連携できなくてはオケをまとめるのは難しい。そのことを彼に言えばいいわけだが、まずは僕を指揮者と認めて貰わなければ。彼の神経を逆撫でしてはまずい。
 そう、プライベートは後。まずは僕の振りを受け入れて貰うこと。
 時間が必要だ。静観しよう。
 それはかなり考えて出した結論だったのに。僕の計算に彼の繊細さをはじき入れることを忘れていた。
 土曜日、僕はまた川島嬢と出て行く羽目になった。悠季の演奏は前回よりも荒れていて。僕の視線など全く無視。
 そして次の週も。
 風邪をひいて欠席と聞いたときは心配で身が縮まる思いだった。
 練習の帰りに彼のアパートの下まで行って、その戸口を見つめた。
 熱は? ちゃんと栄養をとっているだろうか。側について看病したいのに……。
 しかし、逆に気を使わせて疲れさせてもいけない。疎まれたりしたらまた僕は失敗したことになる。
 失敗を恐れる気持ちがこうも足を竦ませるものだとは……。
 僕は本当の怖れというものを知らなかった自分を知った。自分が臆病者であるという事実も。
 回を追うごとに演奏が荒れていく彼を悲しい気持ちで見つめる。
 ああ、君の心を荒ませているのは何なんですか?
 僕はまだそれを聞き出せる立場にもいない。
「守村さんは今日も調子を落としていましたね。どうしたんでしょう。何か聞いていますか? 彼があんなでは全体の出来に響くのに……」
 石田さんの店でコーヒーをすすりながらなにげに川島嬢に尋ねた。
「桐ノ院さんは本当に音楽のことばかりなのね」
 フッと笑って横目で睨んだ目元には媚びの光。これは危険信号だ。
 守村さんのこと聞きたさに同じ人と何度もお茶したのがまずかった。僕としては石田さんと三人というイメージでいたのだが、彼女は僕と二人という認識でいたようで。
「やはり、僕は新参者ですから。早くフジミになじみたいだけですよ」
「常任指揮者がなじむの?」
「オケと良い関係を築くというのが当面の僕の問題ですから。それ以外に考えが行きようがない」
 ですからあなたとは音楽だけの付き合いでいたいのですよ。暗に伝えたつもりだったのに、伝わっていなかったようだ。
 店を出ていつもの分かれ道を越えても彼女は帰らない。
「どうしました? 信号、変わりましたよ」
「音楽以外のお話をしたいの」
「何についてです?」
「桐ノ院さんは好きな人……います?」
「……いますよ」
「お付き合い……しているの?」
「いいえ。まだ片思いです。なかなか難しくて……」
「私じゃだめかしら?」
「は?」
「私ではその人の代わりになれない?」
「しかし……」
「女の口から言うなんて、って思わないでね。私は桐ノ院さんが好き。私のことを見て欲しい。知って欲しいの」
「でも、あなたには守村さんが……」
「はあ?」
「噂で聞きましたよ。守村さんとお付き合いがあるんでしょう?」
「誰がそんな嘘を? 冗談じゃないわ!」
 激昂したように吐き出しそれから溜め息をついた。
「そりゃお茶くらいはしていたけど……守村さんとは三年間ずっと同じ。その間手さえ握ってきたこともないのよ。多分、彼はゲイなんだわ。お友達としてしか見られていないし、私もそう……」
 彼が……ゲイ?
 これも天啓だろうか。瞬間的に僕は舞い上がっていた。少なくともゲイであることに気後れせず彼に接近できる。告白する勇気が持てる。
「あなたの気持ちは大変光栄ですが、僕もゲイなんです」
 即座に答えていた。
「ですから、あなたの気持ちには応えられません」
 まん丸に見開かれた瞳から涙がこぼれ落ちた。女というのはこういうところで質が悪いと思う。
 片思いだといえば自分が割り込めると期待する。拒絶を受ければ泣く。
 何故自分だけは特別だと思うのだろう。泣けば心が動くとでも?
 僕の容姿が女性の目を引くというのは子供の頃から自覚があった。このての煩わしさも、涙の虚しさも嫌という程経験済みだ。
 ただ違うのは僕自身が片恋の切なさを知ったこと。拒絶はするが出来るだけ残酷にならないように気を使うだけの余裕があった。
「僕は、男性しか愛せません」
 だからあなたに問題があるわけではないのです。
 念押しのように言った。
 ゲイだというのはこの際一番はっきりした拒絶。言いふらされてはこれから動きにくくはなるが、そうならそうで居直って正面から悠季に迫ってやろうとも考えていた。
「じゃあ、片思いの相手っていうのも男?」
「そうですよ」
 疑り深いですね、女というのは。
「誰?」
「そんなことあなたには関係ないでしょう」
「守村さん……」
 ドキッとした。守村という名を聞いただけで過剰反応してしまうなんて。
「は?」
 慌てて表情を固めたが、女の感は侮れない。
「守村さんなのね。そうでしょう?」
 爛々と光る瞳で見上げられて観念した。悠季に関する限り、僕のポーカーフェイスは緩みっぱなしで、とてもごまかし続けることは出来ないし、彼女も納得してくれない。
「はい……。しかし、彼には言わないで欲しい。僕の勝手な片思いなんです。まだ彼は僕に近寄ることも許してくれていない」
 自分で言葉にしながら気分が暗くなってきた。
 わなわなと唇を震わせ僕を見上げていた川島嬢は、やがて肩をすくめて言った。
「分かったわ。せいぜい頑張って!」
 ポンと背中を叩かれて。丁度変わった信号に目を遣りスタスタと去っていった。
「すみません……」
 思わず謝ってしまったのは彼女の背中が泣いていたから。本当に勝ち気な人だ。泣きわめきたいのを我慢して、背筋を伸ばし去っていく。
 
 
 どっと疲れを感じて部屋に戻った。
 バスタブを熱い湯で満たしてゆっくりと浸かった。
 目を閉じれば想い人の顔が浮かぶ。
 守村……悠季……。
 残念ながら微笑んだ顔がはっきり浮かばない。いつもきつい視線しかもらえないから。
 川島嬢に向けられたあの笑顔さえ、最近はなりを潜めているせいもあって、僕の記憶の中での悠季はいつも不機嫌。
 ふと思いついたことは、僕自身をも不機嫌にさせるものだった。
 僕に反発するのは恋人がいるからか?
 多分、僕と同じ指揮者の……。だから別の指揮者は受け入れられない?
 どんな男だろう。彼をそこまで惚れさせる男。僕の割り込める余地はあるだろうか。
 きっとその男とはもう……。
 彼は僕より年上で、あれだけ魅力的で色っぽいのだから……。細身の体躯もキュッと締まった腰も、清純な色香であふれ、逆に淫らな思いを励起させる。
 出会いが遅すぎた。
 悔しさを噛み締めながらも、彼の色っぽい姿を想像してしまった僕は想像を糧に自分を慰めるしかなく……。
 その夜は、帰国以来初めて生理的な目的以外の自慰をしてしまって。
 気怠い脱力の中で僕は決意した。
 彼を奪う。どんなことをしても。
 僕には彼がどうしても必要だから。
 こんな出会いが二度あるとも思えない。
 彼が欲しい。彼以外に僕の横に寄り添うべき人は考えられない…………。
 彼の恋人がどんな男かは知らないが、絶対僕の方が彼に似合ってるはずだ。
 僕の方が音楽的にも彼にいい状態を与えることができる。僕を知れば彼だって、僕を選んでくれるに決まってる。
 その時の僕は自己過信の固まりで、僕の持つ才能や容姿が彼をとらえるのに威力を持つと本気で信じていた。
 セックスに関しても遊びで抱いた何人もの男達によって培われた奇妙な自信があって。
 この(・・)僕が結婚してもいいと思うくらい愛してあげているんだから、彼がうんと言わないわけはないと……。
 何とも傲慢な考え方をしていた。
 プライドの高い彼にとって、最も屈辱的な見方だというのに。
 
 
 そして僕は、最低最悪、一生に一度もあってはならない大失敗をしてしまったのだ。
 それも直ぐには気づけず、後々三ヶ月もの長い間思い知らされ続けることになってしまった。
 今となってはそれも彼に寄り添っていて貰うための大事な布石だと思えるのだが。
 彼が僕の持つ外面によろめくようなら僕はここまで彼に心酔できなかっただろう。
 手に入れた途端に彼を蔑ろにしてしまったかもしれない。
 僕にとって彼がオアシスであり続けてくれるのは、彼が本当に僕という裸の人間を愛してくれているのが分かるから。
 僕の持つ良いところはもちろん、悪いところもひっくるめて愛してくれているから。
 彼のおかげで本当の僕が分かった。
 彼の前なら本当の僕でいられる。
 銀行の帰りに、何の気なしに手にしたその本を買う気になったのも、そんな考え事をした後だったからだろう。
 
※同人誌発行時、ここに「その人」 相田みつを著「人間だもの」を挿入してありました。
興味のある方は本屋さんでご覧下さい。(著作権に関わるため、許可を得ていない文を削除させていただきました。)
 
「圭? 何読んでるの?」
「詩集……です」
 柔らかく微笑んだ恋人をうっとりと見つめながら、手にした本を彼に見せた。
 僕等は今ウィーンに向けて発った飛行機の中で隣り合っている。
 僕にとっては少し長めの新婚旅行……。
 万歳三唱の元に送り出されたのには参ったが、そういう状況すら新婚旅行気分を煽るだけ。
 そんな幸せ気分の時にこの詩を目にし、まさに僕の立場だと思ったわけだ。
 守村悠季というどうしても手に入れたかった想い人を得た僕。
 一生に一人の僕の伴侶、悠季。
 詩は出会った頃の苦しさを思い出させる。今が幸せであるほどに、よくもそんなところまでこぎ着けたものだと溜め息が出る。
 僕を惹きつけた彼の容姿と音と心映え。それだけではなく、彼は僕自身を変えてくれる存在だったのだ。
 言葉にしたことのない彼という人の僕にとっての存在意義。それがこの詩に隠されているような気がした。
 悠季は瞳を更に微笑ませて僕の手の中の本を覗き込んだ。
「ああ、相田みつを? そういう趣味、あったんだ」
「趣味というか……。この詩が気に入りました」
「うん、これね。僕も……同じように思うことある。同じようにってのが良いんだよね」
 君も……?
「癒しの書だって最近人気だよねぇ」
「癒しの?」
「必ずどこかで自分の気持ちの代弁をしてくれてる作品にぶつかるから。文字にして、不特定多数の人に発せられてるから素直に受け取れるのかもしれない。ホッとしたり、気持ちが楽になったり、もっと頑張ろうって気になったり……。それもね、読む側がどんな心持ちでいるかで感動が違うんだよね。心が弱くなってたり、辛いことがあって挫けそうになったとき、染み込んでくる言葉が多いんだ。だから癒しの書」
「なるほど……」
「まあ、僕の気持ちなら、こっちの方が更にそんな感じ……かな」
 悠季がページを繰って僕に示した詩は……。
「ひとりでもいい……」
 眼で辿った文章が頭に染み込んでくるほどに、涙が出そうになった。
 それは僕の気持ちでもあった。
 今、僕がそんな気持ちになれるのは悠季が僕を受け入れてくれたから。
 出会いの頃の僕は愚かで、軽率で、全くもって鼻持ちならない男だった。
「ただし最後がね。僕にはそういう人がもういるんだよ! ……って気分だけど。で、最初の二文節はそのまま僕の気持ち。君へのね」
 後半を本当にひっそりと囁かれて僕は飛び上がった。耳打ちされたときの吐息もその内容も、僕を刺激するには十分で。
「悠季!」
 ここは飛行機の中です!
 そんな風に僕を誘って、僕にどうしろと言うのです?
 後まだ十時間はここで北京ダック状態の僕等なのに。
 悠季の頬がカッと燃え上がった。
「ああごめん……。何のしがらみもない所で君と二人きりってのがちょっと開放感……」
 照れたように呟いた。
 君がそんな風に言ってくれるなんて。日本を出てよかった。たったの十三時間で行ける距離だが、海外に出て行くというのはそう簡単に帰れないという思いを持たせるから。
 心配性の悠季も観念して、しがらみを忘れ、道行きを楽しんでくれるつもりになっているらしい。
「……向こうへ着いてからが楽しみです」
 声に出来るだけ艶を持たせたつもりで囁いた。これは僕のお返し。悠季が僕の囁きにセックスアピールを感じてくれるのを知っているから。
 案の定、彼は真っ赤になって俯いてしまった。
 ウィーンという街は良いところです。
 君に見せてあげたいと常々思っていた。
 ドナウ川は青くないけれど、恋人達の目には青く映ると言います。一緒に見に行きましょうね。
 森の美しさも、あの有名な歌が作られた菩提樹も……。
 観光客のように馬車に乗るのも良いですね。
 ああ、やはりこれはハネムーンだ。
 音楽があふれる、音楽を心から愛する人達が沢山いる街で。
 僕等の音楽を育てる糧になる一時を過ごしましょう。
 二人きりで……。
 蜜月への期待を胸に、もう一度彼が示した詩を読んだ。
 彼の声で読み上げられるように想像して。
 僕にもいるんです。
 そう言ってくれる人がいる。一番言って欲しい人がそう言ってくれた。
 それがどんな奇跡か僕は知っている。
 だからこそ胸が熱くなる。
 悠季……。
 僕は自分が幸せになりたくて君を奪った。
 でも今は。
 君の幸せを一番に願います。
 幸せになりましょう、二人で。
 きっとね…………。
 
 
※こちらには「ひとりでもいい」 相田みつを著「人間だもの」より が挿入してありました。<(_ _)>
 
おしまい
 
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